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音和うみ

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第1章

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母さんが帰って来たのは午後7時過ぎだった。琉来はそれまで起きることなくずっと眠っている。疲れていたのだろう。

体調が良くないこと、治療を受けさせたこと、今日と明日預かりたいことなど色々母さんが琉来の母親に連絡を入れてくれた。
お金は一切出さないことや家の家事を俺が手伝いに来ることなどを条件に琉来の保険証を渡してくれるらしい。そうなれば病院にも連れて行けるし、治療の手続きも、薬の処方も出来るとかで行く他なかった。

要は子供相手に一切容赦しないということだし、琉来のことなどどうでも良いと言っているに等しい。
それでも琉来が毎日これに1人で耐えるのは俺は嫌だと思っていたから家に行く理由ができてむしろ良かったと思う。

身なりを整え、買ってこいと言われたビールを持って母さんの運転で琉来の家に向かった。

「母さん、琉来のことお願い。俺行ってくる」

天羽家に着いて車を降りる。

━「あの、息子ではなく私が代わりに手伝いをさせていただけませんか?」

━「は、何言ってるの?女を家に連れ込めるわけないでしょう?」

責任を取るのは大人だから、母さんが行こうと説得しようとしていた。しかしこんな会話になって母さんはかなり躊躇ったが、琉来のためならやっておきたいと説得した。母さんは家の前にずっといることにするらしい。
琉来は少しだけ1人にはなるが、すぐに家には兄貴が来てくれることになっている。

「母さんが行きたいのに……ごめん」

「あっちに問題があるんだし、琉来のためにも母さんが謝んなくていいよ」

悪くもないのに謝られるっていうのも何だか気が疲れる。

「そうね、何かあったら連絡しなさい。いつでも乗り込んで助けに行くから」
と母さんはガッツポーズしてみせた。

まあパワフルな母さんなので、何かあれば本気で乗り込んで来るんだろう。
俺も母さんに心配させすぎないようにしないとな。

「わかったよ。ありがとう」

***

20時頃勤務を終えた唯の兄である弥が帰宅。
普段ならこの家には帰らないのだが、琉来を診るために一度戻ってきていた。

「あれ…琉来くん、どこか行きたい?」

玄関を開けてみれば、辛そうに壁にもたれかかる琉来がいた。ぱっと落としていた視線を上げて唯ではないことがわかったからかすぐに俯いてしまう。

「どうしたの?帰りたかったかな?」

しゃがんで目線を下げて琉来に話しかけてみる。口を開いても詰まってしまうところ、唯には元々会話が苦手だと聞いていた。人とあまり話してこなかった故かもしれない。

「ゆ、唯のところ…」

待ってみると少々遠慮がちに口を開いてくれた。

「あー、唯は今おでかけかな。何時に帰ってくるか後で連絡してみるね。玄関は寒いから中に入らない?」

「……え、あ。あの」

「身体冷えちゃうよ。おいで」

必要以上だと思うくらいオーバーに優しい声を心掛ける。警戒されないように注意していた。
玄関で何か待っているのかもしれないが身体冷えてしまってはまた熱が上がる。だから中に入っておいてほしかった。

「は、はい、すみません」

何か心配そうに、まだここにいたいというように、でもおいでと言われたら断れないのかこちらへ歩いてくる。
少し申し訳ないと思うがそのままには出来ない。
支えてあげようかと手を差し伸べると強く警戒するように身体が強張ってしまったため転ばないようにだけ見守った。

「点滴増やしておこう。良かった。熱は下がって来てるみたいだね。終わったらご飯を食べて薬を飲んで寝ていようか」

聴診器を取り出し心臓の音を聞こうと近づくと琉来は大きく後ろに後ずさった。

「あ、あの、治療は……要らない、です。お金、無くて。…ご、ごめんなさい」

一度も目を合わせてくれることなく身を縮こまらせて壁の方まで下がってしまった。
簡単に病院に連れて行ってもらえなかったのだろう。それが伺えるのがこちらも辛い。

「お金取ったりしないよ。だから心臓の音聞かせてくれないかな。血圧も測りたくて」

「……」

「輸血もしたい。琉来くんね、血が足りてないんだ。頭痛かったり、朝起きられなかったり、立ち上がるとふらついたりするでしょう?身体楽になるよ。お願い出来ないかな?」

「……わ、わかりました」

少々意地悪になったかもしれない。こういう子はお願いされると断れないことが多い。

「うん、じゃあこっち戻って来て横になってほしいな」

「…はい」

「ありがとう」

ぎこちない動きだった。何もかも手探りで歩を進めているような。
だから催促したりはせず琉来のペースに合わせる。
「ゆっくりで良いよ」
ベッドまで辿り着けば横になるように促し、聴診器を取り出しチェストピースを温めてから胸に当てた。

「深呼吸してみて」

「ふー、はー、、ふー、はーっ」

呼吸音に問題はなく、微かな頻脈と心雑音が再び確認された。雑音の原因を調べたいところではあるが保護者がいないことには大きな検査は何もできない。これが一番気になるところなのだが出来るのは対症療法のみになる。

「うん上手。ありがとう。次は血圧測るから楽にしててね」

声をかけ、上腕までカフ(血圧計の帯の部分)を通すと落ち着きがなくなり右手がシーツを握り締める。

「これ、怖い?」

「…あ、いや…ごめんなさい」

怒られると思ったのか身体を小さくして頭を伏せる。声が震えていた。

「これはね、ぎゅーってこの帯が締まって血管の元気度を調べる、みたいなものだよ。変な感じはしても痛くはないと思うんだけど、やっても大丈夫かな?」

小児患者は普通、見慣れない医療機器を見ると痛みを伴う処置をされるのではないかと不安になり緊張して警戒することが多い。そういう反応を見せる場合は優しく説明をして、心理的な準備をとらせてあげると良いと言われている。

「…大丈夫、です」

「うん、ありがとう」

もしきつそうにするなら今はやめておこうとは思ったが良かった。

「琉来くん、好きな食べ物って何かある?」

「…え、えっと。唯、が作った料理…」

何か食べさせておこうかと考えていたから聞いてみたが、ほんの小さな声でそれだけ返ってきた。
思わず頬が緩んでしまう。

「そっかー、唯喜ぶね」

「ほ、本当?」

ぱっと明かりがついたようにさっきとは違った反応を示した。

「うん。琉来に1番食べてほしいなって言ってたんだよ。食べてるところ可愛いし、美味しそうに食べてもらえると嬉しいんだって」

「……そう、なんだ」

良かった。心なしか緊張が解けた気がする。唯はすごいな。ここまで信頼されているのか。

「帰って来たら言ってあげなよ、すごく喜ぶから。じゃあ腕こっち側に真っ直ぐ伸ばせる?」

必要な準備はすでに済ませてあるから手元にあるルートに繋ぐだけで良かった。針を新たに刺す必要もないため痛みもない。

「琉来くん、普通に歩いててしんどいとか、重いもの持ったら息がしにくくなるとかある?」

「…はい」

「病院行ったことある?」

「…お、お金無くて」

「そっか。ありがとう。これ、1時間くらいで終わるから寝て休んでいて」

「……はい」

質問ばかりだと疲れるだろう。本当は聞きたいことはたくさんあるが一度切り上げて寝かせることにした。
クマが目立つあたり普段からあまり寝られていないのだろう。

「あの、何か手伝い、で、できませんか…。え、えっと料理は唯に、敵わない……けど、皿洗い、とか掃除。とかできるので」

「え……ああ、」

こんな調子でもここまで気を遣うとなると琉来も居た堪れない気持ちになる。目眩がして真っ直ぐ歩けないのに少しでも役に立とうとしているのだろうか。

「大丈夫だよ。今そういうのないかな」

「え、あ、あの。でもさせて、下さい。迷惑、かけてるので」

「琉来くん、体調が悪くなっている時はね、迷惑かけても大丈夫なんだよ。元気になったとき、必要になったらお願いしようかな」

どうして?というように首を傾げた後、途端に不安の色濃く映る表情に変わり
「……帰ります」とぽつりこぼした。

「え、待って待ってごめん。どうして帰りたいの?」

「だって、いる…だけだったら、邪魔に」

「ならない。邪魔じゃないよ。じゃあひとつお願いする。寝て休んでほしいな。
元気になってから考えようよ」

少し考えて、でもやっぱり困ったように表情を固くする。

「あ、いや。ご、ごめんなさい…」

長いことこの子を縛り続けていた恐怖のせいで普通とは思考が違うことはわかっていても完全に理解することは難しい。
唯はどうやって琉来をいつも落ち着かせているのだろうかと不思議になる。

やはり何かさせておくべきなのだろうか。
琉来を見やる。
視線が定まることなくぼんやりしているのを見てもそれは賢明とは言えそうになかった。

「じゃあ僕の話し相手になってくれない?いっぱい聞いてほしい話があるんだ。寝たまんまで構わないから聞いてほしいな」

「……うん、」

唯の話をするだけで琉来が落ち着いてきて、次第に疲れ切って眠ってくれた。

「おやすみ」

寝顔は思った以上に幼い顔だった。

***

「こんばんは。相楽唯です」

天羽家の玄関前。要求通りに俺は家事をするためにここにいる。

インターホンを鳴らし玄関に向かって声を投げるとすぐに女の人が出て来た。

「え、イケメンじゃん。びっくりした。こんな顔で琉来に仲良くしてやってるの?はは、随分と勿体無いわね」

強く皮肉を込めた言い方をされたが、これくらいの予想はついていた。

「琉来はすごい良いやつですよ。俺には勿体無いくらい。母親なら喜びませんか、普通」

ならこちらもあくまで事務的に付き合えばいい。お金に困っていてやむおえなく琉来がああなっている可能性も考えてはいたが、そんなことはなくて、まるでゴミのような扱いをしているのだろう。
琉来はそんなことをして良いような人じゃない。

「へぇ。度胸あるのね。私の相手してほしいくらいだわ」

胸を強調するような仕草をし、へらりと笑った後は

「じゃあ皿洗いして、お風呂掃除してから、料理作って。冷蔵庫にあるものでね。
あとは特にない。
部屋にあるもの好きに使って良いから」

と吐き捨てるように言い派手な洋服に身を包んで部屋を出て行った。

時間帯、服装からして水商売をしているのだろうと悟る。不覚にも唯一の親は不安定な職に就いているのがわかった。

そして家には琉来の母親以外に目の窪んだ少し筋肉質の男性がいた。

「おい、」
目を前を通り過ぎようとしたところで腕を掴まれる。

「……どなたですか。琉来は片親と聞いていますが」

「俺の名前は[[rb:相 > そう]]。琉来の母親と付き合ってんだよ。酒持ってきたか?」

「冷蔵庫に入れましたけど」

目がうつろで危ない薬をやっているのは間違いなさそうだった。こちらを凝視している時間が嫌に長い。

しかしそんなことに気を取られている時間などもったいない。取り敢えずやれと言われたことはやる。家に帰ったら琉来が待っているだろうし、治療も受けてほしいから。

キッチンに向かいまずは皿を水につけることにした。お湯の蛇口の方に手を伸ばした途端「そっちは使うな」と男が睨んだため冷水を出す。

水につけている間に冷蔵庫を見て食材を確認しメニューを考え、先に米を炊いた。その後風呂に行って掃除し、食器を洗って料理を作り終えた。

「終わりました」

「じゃあトイレ掃除してこい」

さっきと言われたことが違う。要求されることがいくつか増えていたのだ。まあそれも仕方ないか。

冷静になって早く終わらせるために動いてはいたが、トイレに行くまでの通り道、ドアが開きかけた部屋を覗くと壁に血が飛び散っているのが見えた。

おい…これ、嘘だろ

流石に身の危険を感じた。

心臓がばくばくと警戒音を発してはいたが無視して進もうとすると「おい、」と男に声をかけられる。

「勝手に見てんじゃねえよ。死にてえのかお前」

喧嘩腰になるのは賢明とは言えない。
こういうのは謝って事を大きくしない事だ。

「すみません」

これな何なのか、琉来の身体を日々痛めつけているのはお前なのか、聞きたいことを山ほど飲み込んでいるというのに
「まあ働きぶりの良いお前になら少し説明してやっても良いがな」と自慢げに勝手に話し始める。

怖がらせるのが目的だろう。

「あいつろくなものも喋れねえし、頭も弱えから殴って言うことを聞かせてるんだよ。身体で覚えさせてんの」

そう言う虐待があることは予想通りでも怒りが爆発しそうだ。
煙草を押し付けた火傷の痕も複数の打撲痕も、手首の締め付けられたような痕も。
嘔吐すると怖がるのも、家から出て行こうとするのも全部こいつが。

「身体弱いのが不便なんだよな、吐くし、ムカつく。あ、もしかしてお前も琉来にそういうことしてんじゃねえの?良いサンドバッグになりそうだもんな。鼻血出すまで殴ったら次はもっと言うこと聞くようになるからまだ使い道はある。壊れるまで━━」

「そんなことして何が楽しいんだよ」

何で。
怒りと、それを抑える理性とが、ぶつかる。
言葉を遮って睨んでしまった。

しかし狙い通りだったのかにやっと笑って
「お前こそ琉来と遊んで何が楽しいんだよ。おもちゃにして楽しむ以外に使い道ないだろ」なんて言葉が返ってくる。

「琉来は物じゃない」

ふざけるな、その言葉をぎりぎりで飲み込んだ。相手は俺の怒りを察している。イライラするように煽っているんだ。理性を保て。

「君、優等生なんだってね。わざわざゴミみたいな家によく1人で乗り込んできたと思うよ。優しい人みたいだけど間違ってるよ。琉来はゴミと一緒。
一度はゴミ袋に入れて捨てたこともある。なのに女が連れ戻しちまった。残念だよな」

もはや呆れてものも言えずにトイレ掃除を進めた。
聞けば心を抉られるような話ばかりで恐ろしい。ただ知るべきだろうとは思っていた。琉来がパニックになる理由が分かれば落ち着かせ方もわかると思っていたから。

「終わった?」

「……はい」

「じゃああっちもよろしく。本当はさせないつもりだったんだけどさ、君なら出来そうだし」

と腕を引かれてまた奥の部屋へと進む。
真下に赤黒く滲んだ線がドアの方に続いているのが見えた時は流石に吐き気がした。
近くに落ちたカッターにも赤くこびりついており、その情報全てがそれを血であると知らせる。

それに気がついたことに、相手も気がついたようだった。

「ああ、これ?流石にびびった?
喉が潰れるほど泣き叫ぶからうるさいくてさ、イライラするからその時咄嗟にカッターで切っちまったんだよ。黙ってればすぐに終わってのにな」

あの学校に来なかった2週間の間に琉来はこんなにも傷つけられていたのか。
目の前に広がるこの光景は想像以上に恐ろしいものだった。

琉来の悲鳴が残っていそうで、思わず耳を塞ぎそうになる。

抑えていた怒りがまたつふつふと沸き、心拍が速くなる。
手が汗ばみ力が入ったが、いくら拳を強く握りしめたとはいえこいつを殴って責めることなどできない。

多少は格闘に自信もあるし、相手の動きもいくらか先読みできる。逃げ道だって何通りも思いつく。

だけど琉来が[[rb:被 > こうむ]]ったのと同じかそれ以上に痛めつけてやらないと相手に痛みをわからせるには意味がないだろう。そもそもの話、俺がそこまで保ったとしても人を痛めつけるのは頭が痛くなる。

「要らないことしたらお前もカッターで、切り刻むかもな」

落ちているカッターを拾い上げて「これも綺麗にしろ」と押し付けてくる。

「はぁ、そうですか、気をつけます」

同じ「人間」とは到底思えないな。
お前も、ってまるで慣れているような口調だが琉来以外にもやってきたのだろうか。いや、やってきたのだろう。

相手がどういう人がわかっていくのにつれ手が震え、相手に認識されそうなのが恐ろしかった。弱みを握らせるのは絶対に良くない。

意識的に目を逸らしていた恐怖が今、すぐ目の前にある。
ここまで恐怖を感じさせられたのはいつぶりだろうか。

下手すれば俺はここで[[rb:殺 > や]]られるかもな。

酒で酔っていたのかこんな話は永遠と続き、返事もせずに聞いてやっと23時に解放された。

「帰ります」

「じゃあな優等生。今度来る時はワイン買ってこいよ」

どこまでも身勝手な人だった。
琉来の母親から教わっていた場所から保険証を受け取り家を出て後にした。

母さんは寒いのに車から出て玄関の前で待っていた。

「遅くなった」

「うん、お疲れ様。琉来くんが唯のこと待ってるって弥が。帰ろっか」

長い間で察したのかあえて何も聞かれずそっとしておいてくれた。その気遣いが本当にありがたい。

「そうだな。帰ろう」

兄貴が車の中で録音を始めた音声データと、映像を確認し始めた。俺が天羽家に盗聴器と小型のカメラを置いてきたのだ。万が一相手に見つかっても、それが盗聴盗撮機器だとはわからないよう工夫してある。

証拠が揃えば警察に突き出す。
これは兄貴と相談して決めたことだった。

ただ家事をしに来たと思ったら大間違いだ。少なくとも琉来をこんな家に居続けさせるつもりはない。

***

そして家に着くと琉来は眠っていて、顔色も良くなっていたから少し安心した。隣に座って寝顔を見つめる。

最近やけに自分を傷つける癖がつき始めて手首がボロボロになっている。上手く話せないともどかしいのか責めるように自分の手を掻きむしってしまうのだ。兄貴が手当してくれたのだろうが包帯がほどけてしまっていた。
丁寧に巻き直して氷嚢で冷やす。

「琉来、お願いだから自分のこと傷つけたりするな」

つらそうに汗ばんだ背中に手を当てて、話しかける。悪夢でもみているのなら少しでも緩和してあげたかった。
多分心も体も酷い風邪なんだろう。

「ゆいー、おかえり。ちょっと話あるんだけど良い?」

兄貴が話なんて珍しい、と思ったが恐らく琉来のことなんだろう。

「ああ、5分待って」

「はーい」

額の乾きはじめた冷えピタを交換して身体をタオルで拭いてからそちらへと向かった。

「琉来くんが唯といる時に楽そうなのは、簡単に言えば唯の口が悪いからかもね」

と、会話は突拍子もないものから始まった。

「は、どういう意味だよ」

「あ、いや、悪い意味じゃないんだ。もちろん琉来が心の底から信頼してるのが一番だと思うよ?どうして唯といる時は会話が僕たちと話す時よりスムーズなのか、って考えた時に気がついたことがあって」

「へえ。で、何に気がついたわけ?」

「僕や母さんは「どうしたいのか」つまり琉来くんの意見を求める。けど唯は「こうしろ」って動作に命令形が多いんだよ。寝とけとか来い、とか焦るな、とかね。
だから考えなくて良いんだと思う」

確かに俺は敢えてどうしたいのかなんて聞かない。遠慮されたくないし、断らせる気もないからだ。

「恐らくだけど、親や周りの人に虐待をされてる琉来くんは自分の意見を言ったことで怒られるのを警戒する癖がある。
だから質問に答えるのにものすごく神経を使うんだ。
でも命令されて動くのは慣れてるから動きやすい」

「じゃあ素直にお願いしてこないのもそれが理由なのか?」

「そうかもしれないね。手を繋いでほしいとか、隣に居ててほしいとか、そういうお願いを直接じゃなくて遠回しにするようにしているのはわがままを言ったら許されないと思っているからだと思うんだよ」

手が寒いは、手を繋いでほしい
袖を掴むのは、隣に居てほしい
無言は、肯定
無表情は、安心
笑顔は、パニックに近い とか色々

直接的にお願いしてこないのは知ってるからパターンを覚えて勝手に推測で動いている。まあおねだりしたら許されないと思ってるんなら何も言ってこないよな。わかりにくいのも仕方ない。

「発作が起きて苦しそうにしてる時もずっと唯のこと探してたでしょう?
あれ見捨てられないか心配してたんじゃないかな。
身体を動かして唯を探しに行きたい。どうしよう追いかけないと。けど動かせない。どこにいるの、ってそんな感じかな」

「ああ。それは何となくわかる。
俺が何も言わずにいなくなると変に暗くなるんだよな表情が。
追い詰められたみたいに急に突拍子もなく謝りに来たりもするからそういうのあると思う」

口に出して何かを訴えるのが難しい。だから何かあったとしても助けを求めることができない。いつも1人で耐えて苦しんでいるんだろう。

優しいからこそ何でも自分のせいにして追い詰められて………

心苦しいな。

「大丈夫、琉来のこと俺が絶対に助ける。方法を考えてるところだから」

自分にも言い聞かせるように言う。助ける。その覚悟を決める。

「そうだね。冷静になって方法を考えよう。今まで通り法律上どうにもならないし、うちには迎えられないかもしれない。けど、あの家からはせめて離さないと。ただね、唯。唯も無理しちゃダメだよ。大人を頼って。じゃないとまた転校になるかもよ」

そうだ。それは一番最悪なパターンだ。

「ああ、馬鹿な真似はするつもりないし」

そうだ。
突っ走って計画が崩れ琉来がもっと傷付いたら意味がない。

変な友達だって思うだろうな。
友達ってだけなのに勝手にここまでされたら引かれるかもしれない。

友達なんてのは、本当はただの口実で。
俺がそばにいたかっただけだ。

でも琉来のこと、好きだから。大事だから。

助けたい。

***

目を覚ますと相楽が居なくなっていた。あの温かい雰囲気がまるごと消えてなくなっていた。
僕が手を煩わせたせいでいなくなってしまったんだと思う。熱出して吐いて迷惑かけるから僕の隣にいたくなくなったんだ。
何となくそれがわかって頭が冷えていく。
どうしてこんなにいつも迷惑ばかりかけてしまうんだろう。

━身体売って金を稼いで来いよ。顔は良いんだからさ。その、バカみたいな可哀想な顔、好きな人はいっぱい居ると思うぜ?
調子悪いフリして親より長く寝るなよ。失礼だろ。

━もうちょっと相ちゃんに気を遣えないの?琉来がいたらイラつくってうるさいのよ。熱出したら甘えられるとでも思っているの?あり得ないから。迷惑だから。もう中学生でしょう?しっかりしなさい。

━天羽。君、虐められてるんだって?
早川から聞いたけどさ、先生としては授業サボってばかりの成績の悪い生徒をどう庇えば良いんだって話だよ。家庭の状況もあって可哀想だなとは思うんだけどさ、虐められないように自分で上手くやってくれる?

相さんも母さんも担任の先生も。
氷みたいに冷たい目で僕を見ていた。そういう目を向けるのは僕が頭が悪いからで、要領も良くないからなんだろう。
わかっているんだ。昔から同じ失敗ばかりするから。
たくさん子供が生まれる中で僕は失敗作だった。だからいない方がいいってことくらい知ってる。
雪みたいに消えて無くなっちゃえば良いって自分でもずっと思ってた。

でも、期待しちゃったんだ。相楽が手を繋いでくれた時から。
僕が僕として少しだけ存在したい理由ができたし、相楽が僕のことを必要としてくれる気がして、それで僕はまだいても良いのかなって期待してた。

だから相楽に迷惑かけて見捨てられて、ひとりになるのが1番怖かった。存在する理由そのものがなくなる気がしてたから。
常に顔色を伺って言葉をたくさん考えて選んで、気をつけてた。

相さんには顔を合わせるたびいつまでも怒られてたし殴られてたけど、学校は休まなかったし勉強も相楽の隣にいて良いように頑張ってやった。
少しくらいは上手くいってたはず……なんだけどな。
来月は相楽の誕生日だから貯めておいたお小遣いで僕も弁当を作ろうとしてて喜ばせられるように図書館でレシピも探してた。きっと喜ばせられると思ってた。

でも。
また失敗したのかな。

そう思っているとしんと静まり返ったこの家は息がしにくくなるくらい苦しくなった。

こんな時でも考えるのは相楽が背中をさすってくれてた時の記憶で、あるいは手を繋いで海や雪や空を、夜景を見せに行ってくれた日の記憶で。

心がざわついて、もう頭の中はぐちゃぐちゃになりそうだった。
思い出せば心はすっと軽くなって、でも現実は責め立てるように冷たくて。
迷惑かけた僕にこれ以上はそうしてくれない気もして恐怖に埋もれそうになる。
わかってたはずなのに、覚悟してたはずなのに、それでもまだ失いたくないって思う自分がいた。

玄関で待っていよう。
帰って来たら1番に会える。
相楽は優しいから、もしかしたら謝れば許してくれるかもしれない。それで済むのなら何度でも謝る。

許してくれなくても、それでも、今すぐに会いたいな。

そう思っていたのに……



玄関が開くとそこにいたのは相さんだった。

「おい、そんなところで何やってんだよ。飯は?」

「え、あ、ごめんなさい」

あれ、何で相さんがここに居るの。

いや待って早く作んないとじゃん。
何か買ってあったっけ。
あるもので作れるかな。

はーぁ、と重たいため息が頭にかかる。

何もしてないやつは怒られる。
甘えたからバチが当たったんだ。

「す、すぐに」

「は?まだ作ってないわけ?何時だと思ってんだよ」

「……す、すみません、」

「もういいわ。お前汚ねえし食べる気失せたわ。風呂入るのが先な。こっち来い」

「いや……です。ご、ごめん、なさ」

「おい、言うことは一回で聞けよ」

嫌だ。嫌だ。
ただでさえ寒いのに、冷たい水をかけられたら。

今からでも早く作って許して貰わないと。

「い、いますぐに、作るので」

「はーぁ?」

どん、と鈍い音がする。
「言うこと聞けって言ってるだろ」
ああまた殴られた。失敗した。

引きずられる先はやっぱりお風呂場だ。行きたくない。嫌だ。お願い。

「暴れんなよ!くそっ」

服が剥ぎ取られる。
寒い。寒い。
お願いやめて。

「お願い、です……お、お願い、します。すみませ、……うわっ、」

何度も何度もお願いしてたら、後ろに倒された後、一瞬高い音と低い音が耳に響いた。
あまりの衝撃に一瞬視界が白くなって、頭の中がふらふらと揺れる。

「うるさいって言ってるだろ。黙ってろよ」

うるさいと言われて、握られている拳を見て、自分の悲鳴と衝撃音が混ざった音だと遅れて気が付く。

「……う、わ、」

髪の毛が引っ張られて顔が上がると口を思いっきり開けられた。何するか、そこでわかる。苦いゴムの味。犬の丸いおもちゃだ。言葉を奪って、閉じ込めるためだ。言葉を奪って、閉じ込めるための相さんの道具。

「んん、ゔ、っ」

その上に蓋をするようにガムテープで止められて、息もしにくくなった。喉の奥がボールで圧迫されているから上を向いていないと空気が良く入ってこない。

「大人しくしてれば早く終わるかもな」

この前みたいにお風呂の中でシャワーヘッドで殴るつもりなんだ。
それで水につけられる。
溺れる寸前まで沈められる。

耐えてたらいずれ終わるのは知ってる。頭を空にしてたら、終わってるはず。あるいは気絶して気がついた時には終わってる。でも。

でも、今は吐きそうだから。
耐えられない気がする。
喉が詰まったら呼吸ができなくなる。

お願い、今日だけはゆるして。
熱のせいでちょっと気が抜けてた。ご飯作ってないの忘れてなかったはずなのに。ごめんなさい。
反省してるから。
次は、今日の分までちゃんと殴られるから。
今日だけは。

隙を見て走り出した。
少し頑張ればこのまま玄関を抜け出せる。

助けて、相楽。

***

「琉来、琉来?」

荒く不規則な呼吸が聞こえて身体を起こすと、琉来は隣で過呼吸になっていた。
酷い悪夢でも見ているのかもしれない。

「おい、琉来起きろ」

揺さぶって目を覚まさせる。
顔を見ると涙が乾いた痕まであった。

俺が寝てる間に泣いてたのか……?

「琉来ー?、琉来、どうした?」

身体を起こし、壁にもたれかけさせる。
声をかけ続けてやっと薄く目を開いた。

「わ、…ご、ごめんなさ、い」

覚醒し始めたと思ったら途端に玄関に向かって走り出す。
助けて、助けて、そう呟きながら。

「琉来待て」

「う、わ……嫌だ」

転んでも這いずって逃げようとする。
腕を掴んで引き留めると、泣きながら許して欲しいと繰り返した。
もう何で早く起こしてやれなかったんだろう。こんなに苦しんでいたとは知らずにさっき起こすのをためらった。

とりあえず電気つけないと。

琉来を引き留めつつ廊下の明かりをつけに行った。

「琉来、どうした。何もしない。こっち向け」

明るくなった廊下の中で琉来を見つめる。
また点滴をする前みたいに顔色が悪くなっていた上に手首が血だらけ。
調子が悪いのは一目瞭然であった。

その手首の出血を抑えようと手を伸ばすと俯きながら大きく後ろに後ずさって玄関に向かっていく。

「助けて、相楽。…相楽、助けて」

何を言っているかと思えばそんな言葉で。

助けて、なんて言葉。普段なら直接言ってくれないくせに。

ここまで酷いパニックになるとこっちの言葉は一切聞こえないのだろう。俺が誰かも全くわかっていない。

「琉来、どうしたんだよ。夢で何かされたのか?」

「わ、ごめんなさ、やめて」

「大丈夫だって。何もしない」

どんなに声をかけてもどうにか玄関に向かおうと力を振り絞って逃げようともがいた。

「さ、相楽、たすけて」

これだと埒が明かないと思い、一度玄関から出すことにした。

掴んでいた腕を離し鍵を開ける。
すると無我夢中でドアを開けて逃げ出した。

何でこうなるんだろ。

自分だけでもまずは落ち着かないと、と思い頭を冷やして携帯とジャケットを掴んで外に出る。

「うわ、寒いな…」

午前中雪も降った後だ。気温は氷点下。風がないとはいえ吸い込む空気がやけに冷たかった。

走るのは早くないから後ろから歩いて追いかけ、止まるまで見守ることにする。
もう時刻は3時を回ったところだから特に走ってくる車もなかったし人もいない。
すぐそばにいなくとも、近くにいれば多少はどうにかなる。

大きい無機質なビルのそばを通り、信号を二回渡って、立ち並ぶ倉庫を横目見た。
それからさらにバス停を過ぎ、一軒家の立ち並ぶ緩やかな坂道を登る。

結局、来たこともない細道のところまで走り続けて力尽き、座り込んだ。

「は、はっ、…ゔっ、……げほっ、」

「琉来?」

止まったところですぐに駆け寄って両肩を支えて向き合って声をかけた。

「う、ぁ」

すると慌てて受け身を取ろうとするように顔を伏せ、頭を抱えようとする。
すぐ近くにいるというのにまるで心だけが遠くにいるような拒絶に近い反応。

「ごめ、なさ……い、ごめんな、さい」

そばにいるのが今はダメなら、と、一度身を引いて距離を置き、声のトーンを下げて目の前に座った。

「琉来、わかるか?お前の探してる相楽はここにいる」

真冬のアスファルトは氷のように冷たい。
凍傷になってしまいそうだ。
吹き抜ける冷気も容赦なく体温を奪っていく。

「え、……さ、がら?」

やっと目線があった。
すると小刻みに肩が震え、ぽろぽろと涙がこぼれていく。

「助けに来たよ」

「……あ、あ、りが、と」

家から出る時に咄嗟に掴んで持ってきたジャケットを肩にかけ身体を支え、手を握ってやる。
体温を失ったみたいに指先が冷たくて、琉来の今まで抱えていた恐怖がありありと感じ取れてしまう。

「遅くなったな」

顔を赤くして胸の辺りは忙しげに上下し、詰まるように泣いている。言葉にならない苦しさまでもが今一気に吐き出されているようだった。

「…っ、…ううん、おそく、ない」

琉来の首や額に手を当てると熱がぶり返しているのがわかった。吐息も熱く、まるで制御出来てないような、高熱。
こんなにきついのに多分1km弱は歩いている。
転んでも、怪我しても、絶対に振り返ることなく走り続けてきたから。

「さ、相楽、あの…あの、」

「待て。手ぇ傷つけるな。喋るのはゆっくりで良いから」

抉るように爪を立てる手を離させて、背中に手を回してあやすようにさする。名前を呼ぶから俺を認識出来ているのは間違いないがまだ呼吸がおかしかった。
元々体調が良くないからそのせいだろうか。

「琉来、深呼吸しようか」

「あ、あ、…相楽、」

「うん、俺ここにいるよ」

頭を引き寄せて抱きしめた。血や膿の匂いがより濃くなる。裸足で駆けてきたから足からも血が出ているし早く手当してやらないと。

「深呼吸して」

呼吸のタイミングを教えるようにゆっくり背中をさすりながら声をかけ続ける。

「は、はーっ。さ、……相楽、ごめ、」

「そう、大丈夫。力抜いて」

崩れるように傾いたと思うとぐったりと体重がこちらに預けられた。次第に強張りが抜け始めて正しい呼吸が戻って来ている。

「はーっ、…っ、はーっ」

「うん、上出来」

「…っ、はーっ、」

落ち着いたのを確認してから少し離れてポケットから携帯を取り出す。

「母さん呼ぶからちょっと待てる?それとあったかい飲み物買ってこないと」

立ち上がって大通りの方へと歩こうとすると琉来は慌てたように手を伸ばした。

「え、」

「ん?」

「ま、まって…」

「大丈夫。すぐ戻ってくるよ。自販機もすぐそこだし……歩くのきついだろ?」

傷だらけの足で歩かせたくない。目眩もしてるはずだし転ぶかもしれない。だから座らせておくのが一番だと思うのだが……

「あ ……ごめん」

「何で謝るんだよ」

「ううん、ごめん……あ、違う、な、なんでも…ない……」

まただ。また手首に爪を立てる。

「だから手を傷つけるなって。置いていかないから」

「……う、ん。ごめんね」

「泣かなくても」

「、ごめ…なさ、い…」

泣き腫らした目と視線がぶつかって、そうか、と思う。

琉来は虐待されてきているから俺とは思考が全く違う前提で考えないといけない。今日行った琉来の家でのことだって想像の範囲を大きく超えた。こっちが考える気遣いが琉来が求めているものと一致しないことがある。今が実際そうなんだろう。

━━発作が起きて苦しそうにしてる時もずっと唯のこと探してたでしょう?
あれ見捨てられないか心配してたんじゃないかな。

兄貴の言葉を思い出す。
見捨てられるかもしれない、と思っているのだろうか。今もそれを心配している……?

それなら。

「琉来、やっぱり一緒に行こっか。飲み物買いに」

と言ってみる。すると

「え、?い、いいの?」とほっとしたような雰囲気を見せた。

「うん」

気がつかなくてごめんな、と心の中で謝る。
口に出してしまったら俺の方こそ泣きそうだった。
あまりの自分の無力さに、悔しさが襲ってきて、耐えられなくなりそうで。情けなくて。
でもそうしたら琉来を心配させてしまうし、俺に泣く資格などないから。
心の中で。

「あり、がと」

手を貸した。

ふらつくなら支えてやれば良い。歩けないなら背負っても良い。
そばにいて安心させてやれば、多分、それで良いんだ。

「ねえ、琉来。今度怖くなったりしたらまた俺のこと呼んで」

無力な俺の、わがままなお願いだけど。
辛くなって苦しくなった時。1人で耐えてほしくない。

「相楽は、……とっても、優しい、ね、」

絶対助けるから、呼びに来いよ。
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