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6.恒例の

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年の瀬は、慌ただしくすぎる。
有り難いことに、星野とのキスも腕に抱かれた時の力強さも会社では思い出す暇がなかった。
その代わり、家では何度も星野の胸板の感触を振り返る。

着痩せするタイプなのか、コート越しでもわかった筋肉質な胸板。
楓がマッチョがタイプといったから鍛えたのだろうか。
……いや、違う。
ボディビルダーのように見せるための筋肉ではなく何かスポーツをしていたのであろう、しなやかなもの。
あの筋肉は一朝一夕では身につかない。
そして、意外と肩幅が広いことに気づいた。
目線が同じくらいだからか、今まで気にしたことはなかったのだ。

「触りたい」
自分の声にぎょっとする。
星野に対してそんな欲求を持ったことを。

これは恋ではない。
ただの欲だ。自分では持ち得ない、男性の固くて逞しい筋肉に触れたい、包まれたいという願望。
きっとバセドウ病の数値が下がってきて、今までどこかにいっていた本能が戻ってきているだけ。
前の彼氏にフラレたのも、夜の相手ができなくなったのも一因だ。
だから今、星野の体が魅力的に映るのは、病気のホルモンで抑えられていた欲が薬がきくにつれてムクムクと蘇ってきただけ。


自分の欲求を埋めるためだけに星野と付き合うのは、純粋な気持ちで向かっている彼を冒涜することだ。
星野はそれでもいい、と言いそうだけど。


いや、星野の気持ちを踏みにじっているのは最初からだ。
楓は、星野が妬ましいのだ。

健康な体があって、同僚や取引先に好かれて、楽々と営業成績を伸ばして。
楓が必死にしがみついて、がむしゃらに働いてこなしていた数字を簡単にクリアする。

いや、違う。
星野も努力していた。悩んでいたのも知っていた。時には一緒に解決する方法を考えたりもした。
だけど星野は、女だから担当を変えてくれって言われたことも、数字を取ったのを枕営業と言われたことも、女性社員は産休から復帰したらしたら否応なく営業から異動になる古いしきたりも気にしなくていい。

営業として共に高めあえていた。尊敬しあっていた一方で、楓は男というだけで顧客に安心感を与えることができ、上司の覚えもいい星野がとてつもなく羨ましかったのだ。
自分自身が病気で営業から異動になった時も、悔しくて堪らなかった。

これが星野に言わなかった付き合えない本当の理由。
星野はいい人だ。
彼と同じように人当たりがよく、周りに気遣いが出来て仕事も出来る人間はそうはいない。

会社の同僚じゃなかったら、同期でなかったら。
表面上の彼だけを見て、素直に感心ができるくらいの離れた距離で出会えたなら、「もし」があったかもしれない。

だけど、楓と星野は同期であり、尊敬できる仲間であり、妬ましいくらい仕事ができるいい男だ。

だから恋人に発展することはない。
ifもしも」はない。
絶対に。

だって自分自身が勝手に比較してみじめになるから。

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