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9.旧友2

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ギリッと八紘の歯が鳴る音が千草に聞こえた。直後、ドンッという音が耳のすぐ側で鳴る。
「……な……に?」
浅葱が音に驚いて目覚めるが、二人の妖狐は気にも止めない。
「……ダメだ。お前は俺の妻だ……」
絞り出すような八紘の声。浅葱は痛む頭を無理矢理声のする方へ向ける。

八紘が千草の横の壁を拳で殴った音だった。その証拠に壁に穴が空いている。
浅葱からは背を向けている八紘の表情は窺い知ることは出来ない。
その代わり八紘の気は嫌というほど伝わってくる。

たまきと共に生きるために、年寄り狐たちを説得するのに200年かかった。
戻ってこい、たまき!

悲鳴のような八紘の気。同調能力が強い浅葱に痛いほど伝わってくる想い。
しかし、千草は表情を変えないどころか、残酷な言葉を八紘に投げた。
「わかってくれ、八紘。それに能力が対等だったから掟に従い、夫婦めおとになっただけだ。そのことに縛られる必要などなかろう」
八紘の気配が変わった。千草に伝わらないもどかしさとやりきれなさ。
千草に伝わらない想いが浅葱には痛いほど伝わる。
(千草さんには八紘さんの気、読めないんだ…)
元々千草は人の気持ちを察するのが不得意だ。
浅葱の気持ちに気付かないように、八紘の気持ちにも気付いていないのだろう。

ギリッと歯軋りする音と、もう一度壁を軽く叩く音がした後、八紘が立ち上がる気配がした。

「最初に告げた通りだ。10日後に集会がある。それまでに身支度を整えよ。……たまきも妖狐なら、黒狐の性よりも妖狐の掟を守れ」
なんとか気持ちを落ち着けて部屋を出ていこうとする彼に千草は話しかける。
「集会には尾切り狐を用意しておいてくれ」
一瞬で八紘の怒りが部屋を包み込んだ。
物怖じしない千草と、その気に飲まれる浅葱。

「……そんなことはさせぬ」
絞り出した八紘の声は低かった。
襖を荒々しく閉める音と共に八紘は去っていった。


「浅葱、目が覚めたか」
先程のことなどなかったかのように、千草は浅葱の側に近づくと自らの手を額に当てる。
「ち……ぐさ……さん」
「まだ喋るな。水を持ってこよう、待っとれ」
ホッとした表情で足早に部屋を出ていく千草を見て、浅葱はなんとも言えない気持ちになったのだった。




浅葱が動けるようになるのには3日ばかりかかった。
その間、千草はほとんど部屋から出ずに浅葱の元へいた。
いつものように本を読むのではなく、窓の外の世界を目に焼き付けるようにひたすら見つめていた。
「千草さん、僕の側にいなくても大丈夫です」
浅葱の言葉に千草は切なそうな顔をして答えた。
「まだ追放されている身なのだ。吾が気安く話しかけると、その者が困ろう?」
千草の言葉通り、食事の配膳以外は狐たちは部屋に近づかなかった。
だが妖狐達の視線は感じる。どうやら遠巻きに部屋を見ながら、こそこそ話している様だ。
「元々妖狐界は上下関係には厳しいのだ。……こちらにいた時、無駄に吾の地位が高かったこともある。気安く話しかけられたところで答えは返って来ぬ」
「……千草さん」
どこか寂しそうに語る千草に浅葱は思わず手を伸ばした。
「そんな顔するな浅葱。お主は余計な気を回さず、回復に専念しろ。……早く店に帰るぞ」
千草は浅葱の手を握る。少し妖力を分けてくれたようだ。
千草の気が体に入ってきたのを感じつつ、浅葱は眠りについた。



夢うつつの中、浅葱は千草と葛の葉の声を聞いたような気がした。
気づいた時には魂だけが体を抜け出し、上から千草と葛の葉を俯瞰していた。
(え?幽体離脱!?)
動揺する浅葱だったが、思考は葛の葉の声でかき消された。


葛の葉の泣き声と、慰める千草。
「なんで尾を切るの、たまき!」
悲鳴のような声で千草に言い寄る葛の葉に、千草は困ったように答える。
「まだ決まったわけではない」
言い訳だとわかっているのだろう、葛の葉が泣き崩れる。
「流石に八紘でも人間界で生きたいというあなたのわがままを叶えることは無理よ。あの重鎮の狐たちは説得できない。むしろ200年前のことがイレギュラーだった。八紘は自分の地位をかけてたまきを庇った。
全部、わかっているでしょう?」
千草は答えない。答えないことが肯定の返事だ。
「……色付きは勝手よ。共に長く生きられるのに、それぞれの宿命があると言いながら私より早く死ぬ。本当に、勝手だわ……」
涙声で千草を詰る葛の葉に困ったように笑いかける。
「葛の葉ならわかるだろう。かつて人間と恋に落ちたお主なら、吾が人間に惹かれる理由が」
「それでも私は保名と共に生きなかったわ。妖狐だもの」
グズ、と言いながらも葛の葉は明確に答える。
葛の葉を抱きとめながら、千草は苦笑するしかない。
「それが色付きの性だ。すまぬ。妖狐と共に生きるよりも人間の側で生きることの方が吾にとっては幸せなのだ。一度知ってしまったのだ、人間と共に生きることを。知らなかった時よりも強く、恋い焦がれる」

涙目で千草を見上げた葛の葉は尋ねた。
「あの人間が好きなの?」
「浅葱も人間だ。人間は皆好きだ」
「違うわ。特別な意味で好きなのか聞いてるの。……あの人間の子を産みたいか、ってきいてるの」
その言葉に千草は驚いたように目を見張る。
動揺している千草をジッと見つめる葛の葉。きちんと答えるまで逃さないという目だった。
見えてないとわかっているが思わず浅葱も息を潜める。

「……わからぬ。考えてもみなかった」
千草の返事にあからさまにがっかりした様子の葛の葉だったが、次の瞬間吹き出した。
「たまき、言葉と表情合っていないわよ」
上から見ている浅葱にもわかるくらい、千草の顔は真っ赤だった。
つられて浅葱の頬も熱を持つ。と、同時に浅葱の瞼が重くなってきた。
(あ、体が呼んでいる。……もっと千草さんの言葉聞きた……)
そこで浅葱の意識は途切れた。

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