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第三章「孤独の幸魂」

第23話 狐の嫁入り

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 その日は不思議な日だった。
 私は、お母さんが運転する自転車の荷台に乗って一緒に家に向かっていた。記憶に強く焼き付いているのは茜色の空と沈む夕日。そして雨。
 晴れているのに雨が降るという、初めて遭遇する天気に私は驚いていた。

「狐の嫁入りだねー」
「きつねのよめいり?」

 そんな私に、お母さんはそう言う。私はその言葉を初めて聞いた。買ってもらったばかりのぶかぶかの雨合羽が時々私の視界を遮るのでお母さんの顔はなかなか見えなかった。

「お天気なのに雨が降ることをそう言うんだよ。ほら、狐に化かされてるみたいでしょ?」
「あ、そっか!」

 まだ、この頃の私はお化けを信じていた。だから狐も昔話に出て来るものと同じように不思議な力で人に化けたり、人を迷わせたりするものだと思っていた。だからお母さんの説明はすぐに納得できた。

「ねえねえお母さん。私、狐のお嫁さん見てみたい」
「うーん、狐の嫁入りは人間には見えないからなー」
「見たい見たい!」

 駄々をこね始めた私に困った顔でお母さんは自転車を止めた。そして、私の方を見て言った。

「じゃあ、狐の嫁入りを見る方法だけ教えるね。美波みなみ、手を出して」
「うん」

 喜んで私は手を出した。そして、言われたままに指で形を作る。影絵をする時の形だとすぐに私は気づく。

「あ、キツネさん!」
「そう。両手でキツネを作って、片方を逆立ちさせて向い合せるの」
「逆立ちさせて……」
「それで、耳と耳をくっつけて」

 耳を作る両手の人差し指と小指を交差させる。

「はい。そのまま手を開いて」

 中指と薬指が、もう片方の手の人差し指と交差する。残った親指で中指と薬指を、小指で人差し指を支えると、人差し指と中指の間に菱形の穴ができた。

「『狐の窓』って言うの。狐さんが結婚式やっていたらこれで見えるよ」
「やった!」
「でも、注意してね。間違ったところ見たらお化けが見えちゃうかもしれないから」
「えっ!?」

 慌てて私はのぞき込みかけた窓から顔を離した。そんな私の反応をお母さんはクスクスと笑って見ていた。

「これはね、普通じゃ見えないものを見る時に使う方法なの。でも狐に化かされた時もこれを使うと正体を見破ることができるんだって。だから覚えておくといいことあるかもしれないね」

 その時の私は狐のお嫁さんは見てみたいけど、お化けは怖いから見たくない。そんな二つの気持ちが私の中でせめぎ合っていた。

「でも、私は狐より美波みなみの花嫁姿を早く見たいなー」
「うん! 私、カイくんのお嫁さんになる!」
「あらあら、美波みなみったらもうお相手決めちゃったの?」
「うん。御琴みこちんも一緒だよ」
「あらら」

 まだ恋がわからない私は、大好きな二人と一緒になるって、そう言っていた。お母さんは微笑みながらも「海斗かいと君、大丈夫かしら」とつぶやいていた――そして、私の中のお母さんとの幸せな思い出は、ここで終わっている。

「――芦原大橋あしはらおおはしで被害者の娘と思われる子供を保護」
「――外傷は無し。だが雨に打たれて低体温症の疑いあり」

 いつしか雨は上がっていた。橋の上で、ひとり放心状態だった私は通報を受けて駆け付けた警察に保護された。私のそばには倒れている自転車と、お母さんの買い物用のバッグ。それ以外は何もいない。

「被害者は神崎紗那かんざきさな。芦原市在住の――」
「……おかあさん、落ちちゃった」

 夕陽も沈んで空が暗くなって行く中、私が理解できたのは、ただお母さんがもういなくなったこと、もう会えなくなったことだけだった。




「……あれから、もう十年かぁ」

 伊薙家のリビングでカイくんと御琴みこちんを待つ私は、いつしかそんな昔のことを思い返していた。

 小学一年生の夏、私の身に降りかかった大事件。それが芦原大橋でのお母さんの転落死だ。一時は私が誤ってお母さんを突き落としたのではないかと疑われたが、道路に残された争った跡や落ちる際に最後にお母さんが踏んだと思われる場所に私の足跡が無かったことから疑いは晴れた。でも目撃者なし、凶器不明、犯人不明。近くの防犯カメラも、犯人らしい人物が逃げ去った所をとらえていない。
 現場にいた私もショックで何も覚えていなかった。もしかしたらお母さんが転落した瞬間を見ていたのかもしれない。でも、心の傷を下手に刺激して、これからの成長の妨げになってはいけないという判断から私への聞き取りは最小限にされた。
 残る可能性はお母さんの自殺だった。だけどそれらしい前兆も、動機も全く見当たらなかい。この可能性も早々に否定された。

 そして結局、事件は迷宮入りした。

「なんでだろ、ずっと思い出さないようにしていたのに……そっか」

 ――お母さんを死なせたくせに!

 御琴みこちんからぶつけられた言葉。それがきっかけなのかもしれない。

「……大丈夫」

 御琴みこちんは悪くない。御琴みこちんは悪くない。だって、カイくんが言ってた。御琴みこちんが謝りたいって。つまり、本気であんなこと思ってるわけがないってことだ。

「早く帰って来ないかなー……一人は寂しいよ」

 リビングに時計の針が動く音だけがコチコチと響く。お料理はちょっと冷めてしまったけど、もう一度温め直せば大丈夫。うん、また温めなおせばいいんだ。
 私は暇つぶしに指を絡める。記憶の中にある「狐の窓」だ。見えないものを見る時に使うってお母さんは言っていた。これで人の心の中も見れればいいのに。そうすれば御琴みこちんが苦しんでいたのを気づいてあげられたのに……。

「ただいまー!」
「お邪魔します!」

 その時、私が待ち望んでいた声が聞こえて来た。ドタドタと足音がリビングに近づいて来る。

美波みなみ《みなみ》ん!」

 リビングに飛び込んで来た御琴みこちんは何故か服がずぶ濡れだった。私が驚いている間に御琴みこちんは私に抱き着いて来る。

「ごめん、美波みなみ《みなみ》ん! 本当にごめん……ごめんなさい。酷いこと言って……」
御琴みこと《みこ》ちん……」

 ぎゅっと私を抱きしめる手に力が入る。ちょっと苦しいけど御琴みこちんが肩を震わせているのがわかって、私も背中を優しく撫でてあげる。

「……風呂、沸かしておくから二人とも入って行けよ」
「あはは……うん、そうさせてもらうね」

 カイくんもずぶ濡れだった。いったい二人とも何をしていたのだろう。でも、まあ……いいか。こうしていつもの御琴みこちんに戻ってるし。

「母さーん! 美波みなみ御琴みことの着替え、用意してもらってもいい?」
「……?」

 なぜだろう。

 今、ちょっと。

 胸の中がズキッと痛んだ。
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