鐡~KUROGANE

斑鳩陽菜

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第二回 桶町千葉道場① ~龍馬と桂小五郎

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 江戸の朝は早い。
 木戸番きどばんが町木戸を開けると、まずやって来るのは蜆浅蜊売しじみあさりりと納豆売りである。
 庶民の朝餉に欠かせないが、二日酔いで唸っている男には彼らの売り声はきつい。
「重太郎先生、起きてくだせぇ。飯が冷めちまいます」
 京橋・桶町――、北辰一刀流・千葉道場。
 布団を被り唸っている男を起こしに来たのは、亀吉という飯炊きの男である。
「亀、頼むからもう少し声を小さくしてくれないか?」
「おいらだってね、好きでこうしているわけじゃねぇんで。ここが潰れると他を探さなきゃならねぇ。ま、おいらは別にいいんですがねぇ……。ただ――大先生と、玄武館の周作先生がなんといわれるか――」
「……なんで、叔父上の名前が出て来るんだ……?」
 布団を頭まで被っていた千葉重太郎はようやく顔を出し、眉を寄せた。
 亀吉は父子二代で桶町・千葉家の飯炊きをしている。ゆえに重太郎との付き合いも長く、言葉に遠慮はない。
「重太郎先生はそんだけ、単なる町道場の先生じゃねぇってことで」
 亀吉の言葉に、重太郎は頭を掻いた。
 父・千葉定吉が鳥取藩・江戸藩邸に剣術指南役として召し抱えられてから、重太郎は桶町千葉道場の道場主となった。
 剣術の道場といえば、
 一つは桃井直由ももいなおよし日本橋南茅場町にっぽんばしみなみかやばちょう(※現在の中央区日本橋茅場町)に開設し、二代目・桃井直一ももいなおかず南八丁堀大富町蜊河岸みなみはっちょうぼりおおとみちょうあさりがしに開いた鏡新明智流かがみしんめいちりゅうの士学館。二つ目は斎藤弥九郎が九段坂下の俎橋付近まないたばしふきんに開設し、のちに九段坂上(※現在の靖国神社境内)に開いた神道無念流の練兵館。三つ目は千葉周作が日本橋品川町に開設し、のちに神田於玉ヶ池に開いた北辰一刀流の玄武館と江戸には名門と言われる道場が三つある。
 明治期になり三大道場と称され「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と言われるようになった。
  ゆえに顔を揃える門弟は旗本から諸藩の藩士やその子弟など、のちに歴史を変えていく幕末志士もこの三つの流派のうちいずれかを学んでいる。
 桶町千葉道場は玄武館のある神田お玉ヶ池と桶町は離れてはいるとはいえ、千葉道場を開いた千葉定吉は千葉周作の実弟ある。その叔父の名前まで出されては、起きないわけにはいかない。
 亀吉は「それと――」と言葉を続けたため、重太郎は再び眉を寄せた。
「わかったよ! 起きるって」
「いえ、一月前に入門したお侍ですけどね」
「ああ、りょうさんか。そろそろ稽古に来るんじゃないか?」
 重太郎は亀吉の話に耳を傾けつつ、寝間着から小袖、袴と身につけた。
「もう来ておりやす」
「随分早いな。やる気があるのはいいことだが」
「やる気というより、食い気ですぜ? あれは」
 はて何のことだろうと思いつつも、重太郎はまず朝餉をすまそうと家族が集う座敷に向かうことにした。
 座敷には千葉家の家紋・九曜紋くようもんを印した肩衣をつけた千葉定吉と、男装姿の妹の佐那子がいたが。
「邪魔しちゅう。重太郎センセ」
 重太郎に真っ先に声をかけてきたのは一緒に朝餉の座についている男で、振り向いたその男の口の周りには、飯粒がついていた。
「龍さん……?」
 男は一月前に千葉道場に入門した来た男で、土佐藩郷士・坂本龍馬という。
 腕の方は小栗流を土佐で学んでいたというだけだけあって確かで、すぐに千葉定吉の入門許可が下りた。
 問題は、その男がどうしてここにいるかである。
「遅いぞ。道場主たるものが寝坊か? 重太郎」
「は、はぁ……、申し訳ございません。父上」
 定吉に叱られつつ、重太郎は龍馬を見た。
「重太郎センセ、何しちゅう? 早く食わんと味噌汁が冷めるがよ。ほんにええ出汁が利いちゅう。やっぱり出汁は煮干しかの? 藩邸の味噌汁は薄くてかなわんぜよ。食った気がちいっともせんがじゃ」
 朝から良く喋る男だ――、重太郎はそう思った。
 そんな龍馬に、佐那子が盆を差し出す。
「もう一杯如何ですか? 坂本さま」
「いやぁ、悪いのう」
 龍馬は口元に飯粒をつけたまま頭を掻き、盆の上に空になった飯椀を置いた。
 重太郎は龍馬が我が家の如く千葉一家とすっかり馴染んで朝餉を食べている姿にも驚いたが、妹の佐那子にも驚いた。
 普段の佐那子は、自ら給仕などしないからだ。
 兄としては女らしくして欲しいのだが、男物の紺絣の小袖に薄鼠地の袴を穿き、髪は総髪に結い、外出時には腰に刀を差していく。剣術の家に生まれたからなのか花や茶・琴よりも剣術好き、縁談の数も多かったが壊れた数も多いという強者である。それが飯を盛り付け、龍馬に差しだしている。
(いかん……、昨夜の酒がまた効いているな……)
 隣で展開されている妙な光景に眉を寄せつつ、重太郎は味噌汁を啜ったのだった。 
「龍さん、今朝は結構早いじゃないか」
 重太郎は十以上も年下の龍馬を「龍さん」と呼ぶ。
 龍馬は変わった男だったが、重太郎は嫌いではなかった。好奇心旺盛で人懐っこい性格は父・定吉も気に入ったとみえて、鳥取江戸藩邸に出仕しない日は龍馬に将棋の相手をさせている。
「いやぁ、わしも早すぎると思ったがじゃ。けんどもう道場の目の前に来ちゅう。朝は未だ何処の店も開いとらし、どいたもんかと思っちょっておってたら、佐那子どのに見つかってしもうてのう。飯でもどうかというがやき、馳走になることにしたがじゃ」
「藩邸では食わなかったのか?」
「食ったことは食ったが、気難しいそうな上の顔を見ながら食うのは食った気がせんのじゃ。こん間など、飯碗に味噌汁をぶっかけたら嫌な顔をされてのう。やっぱり飯は楽しく食わなぁいかん。そうじゃろ? 重太郎センセ」
 龍馬が寝泊まりをしているのは、築地にある土佐藩中屋敷だという。
 庶民の朝餉と言えば、飯は白飯か麦飯、味噌汁と漬物。魚がつくのはめったになく、ついても目刺しか干物である。
  龍馬曰く、土佐では丼飯だったらしい。
 寝泊まりをしている築地の土佐藩中屋敷の朝餉は、めざしと豆腐の味噌汁とかぶら漬けが少々だという。
 よく喋る男だが、飯もよく食べる男であった。

                       ◆◇◆

 龍馬が剣術修行のために土佐を発ったのは三月、四月には桶町千葉道場に入門をしている。
 それから一月、龍馬は一日のほとんどをこの桶町千葉道場で過ごすことが多い。
 この日も一稽古を終えて、龍馬は重太郎の部屋にいた。
「――昨夜また一人斬られた」
 なんのことかと龍馬が顔を上げると、重太郎が眉を寄せて唸っていた。
「深川両国橋で起きた辻斬りさ」
 重太郎はそう言って茶を啜る。
 昨今江戸の町に多くなったという浪人たち。仕官口もなく金もなく、自暴自棄になった一部の者が鬼と化す。
 物盗り目的で人を斬る者がいれば、試し切りをする者もいる始末だ。
「物騒じゃのう。わしには難しいことはわからんが、騒動を起こしたぐらいではなんも解決せんと思うがよ。だからといって罪もない人を斬っていいってことにはならん。切り捨て御免の特権は、そのためにあるがじゃないきに」
「俺はな、龍さん。そのうち、彼らの不満が爆発しないか心配だ。いつか大きな戦にならないといいが」
「重太郎センセは、心配性じゃのう」
 龍馬は笑ったが、この重太郎の不安がのちの幕末動乱になるとはこの時の龍馬は知らない。
 なんでも深川両国橋に出没した辻斬りは、相手が侍となると一勝負を挑んでくるそうだ。
「辻斬りもするが、力試しをする妙な野郎だ」
 重太郎は最後に「気をつけろよ」と、龍馬に忠告した。
 相手になるなということらしい。
 迂闊に誘いに乗って斬られた侍も何人もいたそうで、辻斬り男はかなりの使い手らしい。
 とはいうものの――、龍馬の中で好奇心の虫が騒いだ。
 剣の腕はまだ実戦の域には達してはいないが、顔を見たくなったのだ。子供の頃の龍馬ならそんなことはなかったのだが、腕に多少の力がつくと度胸もついた。なんせまだ十九という年で、後先を考えずに行動してしまうことが玉にきずである。ゆえにいつも後悔するのだ。
「参ったのう……」
 八丁堀近くまで来て、龍馬は癖っ毛の頭をがりがりと掻いた。つい道場に長居してしまい、刻限は既に戌の刻。
 なんとか木戸番に木戸を開けてもらう手間は避けられたが、人気はなく道も暗い。
 夜鳴き蕎麦でも食べて藩邸に帰ろうかと考えていた時に、龍馬は目の前に男に気づいた。それはいいのだが、鯉口を切って臨戦態勢に入っていたことだ。
 どうやら、噂の辻斬りと出会ってしまったらしい。
「わしゃあ、斬り合いはすかんのじゃのう」
  確かに顔を見たいと興味を示した龍馬だったが、こんな時に合わなくてもいいだろうにと己の不運を心の中で嘆く。
「腰に差しているのはなまくらか?」
 龍馬の言葉に、辻斬りは鼻を鳴らし刀を鞘から抜いて正眼に構えた。よほど腕には自信があるらしい。
「アホ抜かせ! これは無駄ななはしたくないだけじゃ。おんし何処のもんか知らんが、おんしの剣は腐っちゅう。人斬りなんぞに力を注がんと、もっと他にやることがあっつうろ!」
「ほざいたな……、貧乏侍」
 龍馬の言葉は、辻斬り男を挑発してしまったようで、龍馬は内心「あちゃー」と思った。
 振りかぶった男の剣は龍馬のすぐ脇に振り下ろされ、龍馬は間一髪避けた。
「なにしゆうが!?」
 こうなると龍馬も刀を抜かずにはいられなかった。
「貴様も侍ならばわかろう。我々下の者はどんなに努力しても何処の藩も見向きせぬ。所詮は金と家柄よ。ならばこんな世、壊れればいい。乱世に帰れば、我々が必要だと幕府は思い知ろうぞ!」
 男の言い分は、龍馬にはわからないわけではない。土佐にいる頃は上士と下士の差別に悔しい思いを散々してきたし、なにくそ! とも思ってきた。ただ――。
「わからんのう」
「なに……?」
「おんしの言っちゅうことはわしにはわからん。わしなら、世が壊れていいなど思わんちゃ。世が乱れればなんも関係ないもんが巻き込まれるがじゃ。侍の勝手で、世を乱していいっちゅうことにはならん」
「だまれっ!!」
「おんしの考えは間違っちゅう。周作センセも言っちゅう。剣は人を斬るに非ず、身をおさめ行いを正すと。おまんの剣は邪剣じゃ!」
 これは方便ではない。北辰一刀流の開祖・千葉周作は剣を学ぶものにこう教えている。

 武を学ばんとする者まず心を正せ。
 心正しからざれば武の道また正しからず。
 剣は人を斬るに非ず、身恥を知ること寸時たるとも忘ることなかれ。
 
 今も玄武館だけではなく、北辰一刀流道場に受け継がれる教えだという。
「面白い。貴様、玄武館の門弟か」
「ちいっと違うがの」
 少しばかりか、かなり違うのだが。
「ご加勢いたす」
 そう言って見知らぬ男が、龍馬の隣に立った。
「ありがたいが、なんも関係ないもんを、巻き込むわけにはいかんがじゃ」
「と言って、見ぬ振りはできん」
 龍馬の加勢に入ったのは、龍馬とさほど歳の変わらぬ侍で髪は総髪に銀杏髷、羽織袴に白足袋を履いていた。恐らく何処かの藩士だろう。
 しかもかなり強い。辻斬り男は、押される一方で遂に剣を地に落としてい待っている。
「お、覚えているがいい……っ!」
 辻斬り男は唇を噛み締め、夜陰に駆けて行く。
「さすがじゃ! おんし強いのう。おんしのお陰で助かったがよ」
「あんなのはたいしたことはない。ところで貴殿、土佐のもんのようだな?」
「土佐藩郷士・坂本龍馬とゆう田舎もんじゃ。江戸には剣術修行に来ちゅうがよ」
「玄武館とあの辻斬りは言っていたが? 道場は周作先生の?」
「いやいや、さすがに周作センセの門弟になるにはワシのようなもんは敷居が高すぎるがよ。桶町の千葉道場じゃ。ところでおんしは?」
「――長州藩・桂小五郎」
 長州藩・桂小五郎――、このとき彼もまた江戸に剣術修行に来ていた。
「このあと一杯飲もう思っちょってのう。どうじゃ?」
「いや、やめておく」
 確かに出会って一刻もせずに酒を呑む義理はないだろう。
 
 とにかくにも、辻斬りと出くわしたことは翌日には千葉重太郎の耳には入っていた。
 どうやらあの場所に千葉家の飯炊き・亀吉が通りかかり、龍馬と何処かの侍が対峙している所を見たそうで、重太郎は龍馬の顔を見るなり溜め息混じりに脱力した。
「龍さんのことだから、黙って通り過ぎるなんてことはしないと思っていたが……」
「さすがは重太郎センセじゃ。実はちいっと相手に言い過ぎてのう。相手が抜刀しちゆうきに、それではと……」
「おいおい……」
 この場合理由がどうであれ、奉行所の役人に捕まれば今頃牢の中だけに重太郎はひやひやだ。
「それがの。途中で加勢してくれた男がいてのう。確か――、長州藩の桂……」
 龍馬は思い出そうと、天井に視線を運ぶ。
「桂小五郎か?」
「おーおー、そうじゃそうじゃ。なんで知っちゅう? そんなに有名人かい? あん男」
「斎藤道場の門弟で、かなかなの腕らしい。入門一年で免許皆伝、今や塾頭らしい」
 斎藤道場とは江戸三大道場の一つ、斎藤弥九郎が九段坂上に開いた神道無念流の練兵館のことである。
「いっぺん立ち会ってみたいのう」
「他流試合か……」
 重太郎は渋い顔だ。それは龍馬がまだ、他流試合するに至らない腕だというわけではなく、桶町の千葉道場だけでも捌ききれないほどの他流試合申し込みがきているとからであった。
 なにしろ日々の稽古や弟子への指導時間を確保するため、これらすべての修行者を受け入れることは不可能である。名のある流派で上位の実力者か、町でも評判の腕か、他流試合を申し込まれた道場としては優先的にそうした者を選ぶ。
 つまり練兵館の桂小五郎と対戦するには、練兵館の斎藤弥九郎がどう判断するかである。
「そういえば、この間変なのが来ちょったのう」
 数日前のことだ。桶町千葉に他流試合を申し込みにきたという男が来た。「たのもう!」という声に、たまたま門前を通りかかった龍馬がどこの者かと聞いてみると驚くことを言い放った。
それがしは山中にて長年修行し、天狗より秘伝を授けられもうした!」
 これにはさすがの龍馬も、あ然とするばかりだった。なんでもこの手の者がやって来ることは、珍しくはないらしい。
 この頃の龍馬はまだ、強くなりたいとの思い一筋であった。
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