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二
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人間の身には大き過ぎる神殿を、セラは進む。
巨人族によって建てられた当初は壮麗だったであろう建物は、ここ数年で荒廃が顕著になった。白かった壁は埃を被ってひび割れている。今度、大嵐が来たら崩れるかもな、と他人事みたいな感想を抱いた。
今、ここで暮らしているのはセラ一人。人間が訪れるのは先程の様に“契約者”としての力に縋りたい時がほとんど。セラの力を忌み嫌う巨人族は当然、近付かない。
ただ一人を除いては。
壁の隅に作られた人間用の扉を開けて外へ出る。小鳥達の鳴き声と草の匂い、そして降り注ぐ午後の日差しに迎えられて、ささくれていた心が癒されるのを感じた。
「相変わらず人気者だな、セラ」
「お前こそ、相変わらず口が悪いな、リト」
高い位置から降る声に、セラは不敵な笑みで応じる。紫の瞳を細めた。
陽光を遮って、一人の青年が腰を下ろしていた。片膝を立てた巨人は、蒼い瞳にからかいの色を乗せて少女を見下ろしている。日光を弾いて輝く短い金髪と相まって、その巨大な身に空と太陽を宿しているみたいだと、セラの目には映っていた。
セラが持っている山葡萄を目敏く見付けたリトが籠を摘み上げた。そのまま中身をひょいひょい口の中へ放り込み、ろくに咀嚼もせず飲み込む。「ごちそーさん」の声と共に空っぽの籠がセラの手へ返された。
「お前にやる、なんて一言も言ってないぞ、私は」
「難い事を言うなよ、オレとオマエの仲だろう?」
リトは三歳年上の十九歳だが、こうやって軽口を叩き合っていると年齢差を感じない。
確かに、リトの好物だからと朝早くから採りに行ったけれど。彼が喜んでくれている気配は伝わるけれど。
何となく納得いかなくて、ぺしぺし、とリトのすねを叩く。途端にリトの眉が寄った。表情の変化に、セラは首を傾げて自分の掌を見遣る。
視界に飛び込んで来たものを見て目を見開いた。小さく息を飲む。
彼の右のふくらはぎに走る、一筋の切り傷。それは葉や石で切ったものではなく、鋭い刃物で付けられたものだと一目で分かった。傷の位置と長さから推測して、恐らく人間が短刀か包丁で切り付けたのだろうと言う事も。
そう、この傷の付けられ方には見覚えがあった。いやと言う程に。
「また、やられたのか」
問いではなく、断定。
流れる血は乾いて固まりかけている。セラは踵を上げて背伸びをした。
「よせ」
制止の声に構わず、傷口へ朱唇を寄せて舌を差し出す。白い衣服と白銀の髪に血の色が移った。
時々、視線を上げてリトの表情を窺う。セラの小さな舌が触れると痛みを覚えるのか口元が歪んだ。セラは眉尻を下げ、慎重に血を舐め取る。
唇を血色で彩り、舌に乗せた血を唾液と共に嚥下する。喉の奥に血が絡んでえずきそうになるのを、懸命に堪えた。
「八年前に初めてオレの血を舐めた時から、全然変わらないな、オマエは」
困った様な、懐かしむ様なリトの声音に、セラはべったり血が付いた頬を緩める。
「『オレ達巨人族は、オマエ達人間みたいに頭が良くないんだよ』なんて言っているくせに、良く覚えているじゃないか」
「うるせぇ」
口調を真似てからかうと、リトが顔を背けた。それは他の巨人族も、ましてや人間達も知らない・・・・・・セラだけに見せる仕草。
セラは華奢な体をリトの足へ押し付けた。全身でリトの体温を感じながら、震える唇で言葉を紡ぐ。
「・・・・・・ごめん」
「謝るな。オマエが悪いワケじゃないだろ」
「でも、私がいるから、私の」
「だから謝るな」
リトの人差し指がセラの頬にぐりぐり押し付けられた。人間であれば、むぎゅーっ、と頬を摘んで引っ張る動作に該当するのだろうな、とセラは勝手に想像している。
その指が更に動いて、セラのうなじを擽った。長い白銀の髪を掬い上げては、さらさら流れ落ちるさまを眺めている。その眼差しは穏やかだった。
彼は優しい。
巨人族を殺せる力を受け継いだセラを、こうやって受け入れてくれる。
しかし、セラが生きている限り、彼は傷付けられ続ける。自分と親しくしている事実が露見すれば、他の巨人達から非難を浴びるのは必至。寄ってたかって袋叩きにあうか、あるいはそれ以上の暴力を受ける可能性も高い。
幸い、セラは未だ“契約者”の力を行使した経験はない。言葉巧みに切り抜けて来たけれど、これからも上手く運ぶとは限らない。
遙か昔、巨人達が住まうこの地に迷い込んだ人間達が、『巨人の力が人間を傷付けぬよう、人間の知恵が巨人に恩恵をもたらすよう』と共存の為に交わした“契約”は、時を経るにつれて変質した。
今や完全に当初の理念を失った“契約”を実行出来る人間は、セラ一人。
十六歳になったセラへ、人々は結婚話を持ち込み始めた。全ては次代の“契約者”を生み出す、それだけの為に。
セラは山葡萄が入っていた籠を取った。底に残っていた、収穫に使った小刀を握り締める。顔を上げると、血相を変えたリトと視線が交錯する。
「おい、セラ」
「ずっと、考えていたんだ」
「止めろ!」
「どうすれば、全てを終わらせる事が出来るのかを」
「ふざけるな!」
動いたリトの腕は途中で止まった。彼の腕力ではセラを叩き飛ばしてしまうと気付いたのだろう。その隙に、セラは血に染まった髪を払い退けて切っ先を己の首筋へ近付けた。
「私には、これ以外の方法が思い付かなかったんだ」
ごめんなさい。
囁きは、ざくり、と言う耳障りな音でかき消された。
巨人族によって建てられた当初は壮麗だったであろう建物は、ここ数年で荒廃が顕著になった。白かった壁は埃を被ってひび割れている。今度、大嵐が来たら崩れるかもな、と他人事みたいな感想を抱いた。
今、ここで暮らしているのはセラ一人。人間が訪れるのは先程の様に“契約者”としての力に縋りたい時がほとんど。セラの力を忌み嫌う巨人族は当然、近付かない。
ただ一人を除いては。
壁の隅に作られた人間用の扉を開けて外へ出る。小鳥達の鳴き声と草の匂い、そして降り注ぐ午後の日差しに迎えられて、ささくれていた心が癒されるのを感じた。
「相変わらず人気者だな、セラ」
「お前こそ、相変わらず口が悪いな、リト」
高い位置から降る声に、セラは不敵な笑みで応じる。紫の瞳を細めた。
陽光を遮って、一人の青年が腰を下ろしていた。片膝を立てた巨人は、蒼い瞳にからかいの色を乗せて少女を見下ろしている。日光を弾いて輝く短い金髪と相まって、その巨大な身に空と太陽を宿しているみたいだと、セラの目には映っていた。
セラが持っている山葡萄を目敏く見付けたリトが籠を摘み上げた。そのまま中身をひょいひょい口の中へ放り込み、ろくに咀嚼もせず飲み込む。「ごちそーさん」の声と共に空っぽの籠がセラの手へ返された。
「お前にやる、なんて一言も言ってないぞ、私は」
「難い事を言うなよ、オレとオマエの仲だろう?」
リトは三歳年上の十九歳だが、こうやって軽口を叩き合っていると年齢差を感じない。
確かに、リトの好物だからと朝早くから採りに行ったけれど。彼が喜んでくれている気配は伝わるけれど。
何となく納得いかなくて、ぺしぺし、とリトのすねを叩く。途端にリトの眉が寄った。表情の変化に、セラは首を傾げて自分の掌を見遣る。
視界に飛び込んで来たものを見て目を見開いた。小さく息を飲む。
彼の右のふくらはぎに走る、一筋の切り傷。それは葉や石で切ったものではなく、鋭い刃物で付けられたものだと一目で分かった。傷の位置と長さから推測して、恐らく人間が短刀か包丁で切り付けたのだろうと言う事も。
そう、この傷の付けられ方には見覚えがあった。いやと言う程に。
「また、やられたのか」
問いではなく、断定。
流れる血は乾いて固まりかけている。セラは踵を上げて背伸びをした。
「よせ」
制止の声に構わず、傷口へ朱唇を寄せて舌を差し出す。白い衣服と白銀の髪に血の色が移った。
時々、視線を上げてリトの表情を窺う。セラの小さな舌が触れると痛みを覚えるのか口元が歪んだ。セラは眉尻を下げ、慎重に血を舐め取る。
唇を血色で彩り、舌に乗せた血を唾液と共に嚥下する。喉の奥に血が絡んでえずきそうになるのを、懸命に堪えた。
「八年前に初めてオレの血を舐めた時から、全然変わらないな、オマエは」
困った様な、懐かしむ様なリトの声音に、セラはべったり血が付いた頬を緩める。
「『オレ達巨人族は、オマエ達人間みたいに頭が良くないんだよ』なんて言っているくせに、良く覚えているじゃないか」
「うるせぇ」
口調を真似てからかうと、リトが顔を背けた。それは他の巨人族も、ましてや人間達も知らない・・・・・・セラだけに見せる仕草。
セラは華奢な体をリトの足へ押し付けた。全身でリトの体温を感じながら、震える唇で言葉を紡ぐ。
「・・・・・・ごめん」
「謝るな。オマエが悪いワケじゃないだろ」
「でも、私がいるから、私の」
「だから謝るな」
リトの人差し指がセラの頬にぐりぐり押し付けられた。人間であれば、むぎゅーっ、と頬を摘んで引っ張る動作に該当するのだろうな、とセラは勝手に想像している。
その指が更に動いて、セラのうなじを擽った。長い白銀の髪を掬い上げては、さらさら流れ落ちるさまを眺めている。その眼差しは穏やかだった。
彼は優しい。
巨人族を殺せる力を受け継いだセラを、こうやって受け入れてくれる。
しかし、セラが生きている限り、彼は傷付けられ続ける。自分と親しくしている事実が露見すれば、他の巨人達から非難を浴びるのは必至。寄ってたかって袋叩きにあうか、あるいはそれ以上の暴力を受ける可能性も高い。
幸い、セラは未だ“契約者”の力を行使した経験はない。言葉巧みに切り抜けて来たけれど、これからも上手く運ぶとは限らない。
遙か昔、巨人達が住まうこの地に迷い込んだ人間達が、『巨人の力が人間を傷付けぬよう、人間の知恵が巨人に恩恵をもたらすよう』と共存の為に交わした“契約”は、時を経るにつれて変質した。
今や完全に当初の理念を失った“契約”を実行出来る人間は、セラ一人。
十六歳になったセラへ、人々は結婚話を持ち込み始めた。全ては次代の“契約者”を生み出す、それだけの為に。
セラは山葡萄が入っていた籠を取った。底に残っていた、収穫に使った小刀を握り締める。顔を上げると、血相を変えたリトと視線が交錯する。
「おい、セラ」
「ずっと、考えていたんだ」
「止めろ!」
「どうすれば、全てを終わらせる事が出来るのかを」
「ふざけるな!」
動いたリトの腕は途中で止まった。彼の腕力ではセラを叩き飛ばしてしまうと気付いたのだろう。その隙に、セラは血に染まった髪を払い退けて切っ先を己の首筋へ近付けた。
「私には、これ以外の方法が思い付かなかったんだ」
ごめんなさい。
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