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第一章 『歪んだ刃先』

十四話 『もう一人の僕』

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 ダンボールが積み上げられたリビングに元から用意されていた布団を引き、気絶してしまった秋根をそっと寝かせる。軽い体重のおかげで難なく運べ、病み上がりである愛斗にはいい配慮であった。
 「こんなのが同学年だもんなぁ。まったく、僕みたいなやつも居るじゃないか」
 熟睡している秋根の傍らで正座し、短い髪を優しく撫で下ろす。女子らしい甘い匂いに嗅覚が反応し、列記とした女子であることを教えてくれる。
 変わった口調で、気が強い秋根ではあるが、一応自分の命の恩人。あんな惨状を目の当たりにして冷静な判断が出来たのも不思議だが、今は生きていることに感謝したい。そして、生きるという喜びを教えてくれた秋根に、最大限の感謝を捧げたい。
 愛らしくなる寝顔に、いつかの『兄弟』を連想させた。
————————————あれ、兄弟?
それと一緒に過去の藻屑と化した思い出が腹の底からこみ上げる。熱い胸に大きくなる鼓動。恥ずかしくなるほど体調が急変する愛斗。
 「なんだか‥…ねむっ‥…く…‥」
 胸をぐっと掴み、眉間に皺を寄せる。
抉られるような激痛が脳に走った。搔き乱され、握られ、潰される。頭が混乱し、意識が、状況整理が真面にできなくなっている。
 どっと押し寄せる睡魔。
 純粋な恐怖心を心に宿し、演説の一場面を彷彿させた。それは怒号を飛ばし、剥き出しの殺意に対する恨みを覚えた瞬間、意識が途絶えたあの時。今では記憶が抹消され、思い出すのは不可能だと悟った。それにも明確な理由があり、小さなころからこういったことは幾多とあった。そのたびに睡魔に襲われ、ある区間だけ記憶がなくなる。これは愛斗が生まれ持った体質であり、親からも医者からもそう言い聞かされた。
 そんな小さなころの温かな思い出を繰り返し頭で浮かべ、重くなった体は後ろへと下がっていく。今は止めてくれる秋根も、彩湖も居ない。ゆっくりと、夢を見れる。
本能のままに目を閉じ、深い深海に沈んでいく。音も、空気も、悩みも、困難も、何もかもが無に返る世界へ。
 兄弟。自分に居たかどうかは不鮮明だが、記憶の奥底に眠っている真実に大きく関わっているに違いない。
今にも崩れ落ちそうな期待は、惨殺された家族が何度も守り続けたもの。だから守っていきたい。殺されてしまった家族の分も、微かな希望を胸に抱いて歩んでいきたい。
———そういえば、『弱音を吐く前に行動に移す』って、誰が言ってんだっけ。
 自分の心の教典として長年唱え続けられているその言葉は、錯乱する脳内を、誤った刃を正す呪文のような言葉。
 懐かしい思い出を言葉で感じ、それと同時に深海へと沈んだ体はぴくりと動き、薄暗い海底から上がっていく。酸素を取り入れ、心臓は活動を始める。
 どっぷりと浸かっていた疲労感は落ち、自然と瞼が上がっていく。
————————ねぇ、まだ我慢する気かい?
 トーンの高い愉快な声がした。
意識が覚醒する寸前でそれは僕の耳元に囁くようにして届いた。血の気が引いたその声、最も聞きなれたその声は優しく誘惑し、自分の真の欲望を奮い立たせた。
自分でも実感がない欲望。傲慢でも強欲でもない、普通の路線を歩き続けた愛斗にとって欲を満たすというのは少し贅沢が過ぎる話だ。
 そんな欲望を満たす一秒前、意識が覚醒した愛斗は呆気に取られた顔で震えていた。
 冷や汗を掻き、自分が自分でなくなった瞬間に恐れを抱いた。自分自身に恐怖感を覚え、それは軽く彩湖を凌駕するほど強烈で、悪辣な物であった。
 「なんなん‥…だよ、これは」
 状況の整理。それを行っている最中、違和感を覚えたのは振り上げられた右手だった。その右手に握られていたのは鋭い刃先を持つ昔からの愛用品、包丁だった。
金属特有の光沢を見せる包丁はリビングの光に反射し、その光と刃先は秋根に向けられていた。振り下ろされる直前だったのか、残り数センチで胸部の中心に振り落とされていた包丁を勢いよく投げ捨てた。
 「違う‥…違う違うッ! 僕じゃない! ぼくじゃ‥‥、ないッ!」
 髪を掻きむしり、激しく頭を左右に振る。一体何を否定しているか理解に困るところだが、自分でも気づけないその不安な感情が行動に出てしまったのは確かだ。
 自分が自分ではなくなった一瞬、体を支配したのは猛烈な快楽と満足感だった。まるで一種のドラッグを吸引したかのように興奮気に達し、絶頂に達する寸前で手は止まった。
 きっとあのまま意識を保てずにいれば目の前の秋根は死んでいただろう。間違いなく、包丁を腹に刺され、その場の凌ぎの快楽に溺れ刺殺していただろう。
 酷く歪んだ感情を殺し、震える体を両手で抱きしめる。
 怖い。単純な感情でありながらこれほど精神を摩耗するものはなく、現在進行形で体中がそれに脅かされている。
 体中の筋肉が緩み、毛穴からは大量の汗が溢れ出る。瞳からは涙、口からは唾液。汚い顔面を服で隠し、部屋の片隅で足をがたつかせる。
 「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うぅッ‼」
 何度髪を毟り、何度舌を噛んだことか。
 変わることのない現実。実際のところ意識はなかったとはいえ、あれほど大切だと吠えていた命を快楽のためだけに奪おうとしていたのだ。
そしてそのたびに実感する。
 —————————自分はサイコパスだと。
 だからだろう、彩湖の同種という発言があそこまで胸に残っているのは。小動物の死体に感傷し、人間になったつもりになっていた。安直で醜いその本音が自分を人間にしているのだと、勝手に納得していた。
 恥ずべき自分の行いは謝罪という表だけの行為では償えず、今は自分が投げ捨てた包丁で自分を抑制するしかない。
 部屋の片隅から這いつくばる体制で床に刺さった包丁へと向かう。リビングの中心部では安眠を楽しみ、心地よい笑みで体を休ませる秋根。心温まる光景に目を落とすたび、自分の中の何かが囁きかけるのだ。
 自分の中の醜悪の根源を消失させるため、床にめり込んだ包丁を強引に抜き、それを天井に掲げる。眩しい部屋の明かりは自分を天国へと誘う様に差し込み、力が抜けた瞳はゆっくりと閉じた。
 「これで僕は‥‥これでやっと‥‥‥」
 混乱する意識は不鮮明な情景を映し続け、今の自分は正しく化け物だと、心の底からそう思わせた。
サイコパス。その言葉の適正者であるのは言うまでもなく、それ以上の外道であるのも理解している。だからこの場で命を落とし、苦の連続である悲劇の人生に幕を下ろさねば。
 曖昧な過去の記憶は捨て、この半生を人間として生きてきたつもりはあったが、やはり元から備え持っている本能には逆らえないらしい。
 震える体には迷いがなく、美の結晶である包丁は自分の胸部へと振り落とされた。
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