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第13章 鎮静の庭

本当の心は -2

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「あの時彼女と話さなければ、私はあきらめていた。愛する者を愛すること、大切なものを大切にすることを…。そして、一番辛い思いを残したまま死ぬことになったでしょう」

「一番辛い思い…」

「そうです。憶えてますか? あの日、私と彼女が話したことを」

 キノの視線が宙をただよう。

 希由香は、この人の抱える悲しみと切なさを自分のものと近く感じて…お互いの探してる答えが同じところにある気がして…幸せについて話した。それから、愛する人の本心と…。

「あなたが『愛する人が死ぬ時に何を望むか』って聞いた時…『誰かを愛してて、愛されていて欲しい』希由香はそう答えた。『愛する人が孤独な心のまま死ぬのは、何よりも辛いから』って…」

 希由香にとっては、それが本当に一番辛いことなの…? 浩司のそばにいられないことより…? 彼と会える日が二度と来ないかもしれないのに思い続けることより、彼が死ぬことそのものよりも…?

もっとも辛く思うことが何かは、人それぞれでしょう。彼女が何故なぜそう思うのか、あなたにはわかるはずです」

 リージェイクの静かな声が、無意識に額にしわを寄せて考え込むキノの意識をそっと引き戻す。

「愛する者の死は辛く悲しいことですが、人はいずれ必ず死ぬ。いつどうやってかを選べる者は少ない。彼女は、それを充分わかっていた。そして、孤独の深さも闇の暗さも知っているのでしょう…愛する者がそこにとらわれていることも」

「だから、希由香は浩司を救いたかったの。今もそう願ってる。でも、希由香自身は? 愛する人が孤独な心で死ぬのが辛いなら、自分は…?」

 キノは勢い込んで、リージェイクに向かって言った。欲する答えを、彼が知っていると確信しているかのように。

「自分だったら辛いと思うから、浩司にもそうなってほしくないと願うんじゃないの? 希由香は、どうしようもなく浩司を愛してるから…」

 キノがふいに言葉を止める。

 『浩司を愛してる』だから希由香は…希由香の心は…。

「彼女にとっての孤独は、私の思うものと同じ…触れられるところに誰もいないことではなく、死を迎えるその瞬間に思い浮かべる顔のない、呼ぶ名のない…寂しいと自覚することすら忘れた心を指すのだと思います」

「希由香は孤独じゃない…愛する人に出会えたから、浩司を思ってるから…返される思いがなくても…?」

「愛する者に愛される、それを望まぬ者はいないかもしれない。けれども、自分の心だけで成り立つ思いでなければ、孤独を消し去るほどの強さは持ち得ないでしょう。相手に見返りを求める愛や押しつける愛は、所詮しょせん自分勝手な幻想げんそうに過ぎない」

「でも…」

 本当なら、あの二人は…。

「心を苦しめも温めもする、打算なく愛するという思い…彼女は、彼がいる時も去ってからも、それを手放さないと決めた。どうしてかわかりますか?」

 められない思いだから…想い出にするには、どんな現実もかなわないくらい、浩司の存在は強烈過ぎて、心の奥に深く突き刺さって、忘れたくても忘れ…ううん、そうじゃない。止められないからじゃなく、愛したいから愛してる。でも、それは希由香にとって…。

「わかるなら教えて…」

 キノは泳がせていた視線をめる。

「このまま浩司を思い続けるのと、彼を忘れてほかの誰かと愛し合うのと…希由香にとっては、どっちが幸せだと思う?」

「心に思う者がいるのなら、どちらも幸せでしょう」

「そうだけど、でも…」

「では、あなた自身だとしたら?」

 自分の姿を映しているあおひとみ。その奥に自らの心をも映す鏡でもあるかのように、キノはリージェイクを見つめ続ける。

「私が希由香だったら…きっと、どっちが幸せかなんて考えたりしない。心の望む通りにする。思いたいだけ思って、気持ちがなくなるまでずっと愛してる。もし、二度と会えない相手を思うことに疲れて寂しくて別の人に気がいくなら、そこまでのものだったってことだから、それはそれでいいの。わからない先の心も今の心も、変にじ曲げるのは嫌。ただ…」

 キノは一瞬空をあおいだ。星たちよりも遠くて近い、時空じくう狭間はざま。そこに彷徨さまよう切なさのみなもとたちが、白光にまぎれて鈍く輝くなら、夜は白夜以上の薄明はくめいていすることだろう。

「希由香の思いはなくならない。そう決めたのは、そうしたいと望むから。私が彼女で浩司を愛したら…同じように望むと思う。でも、自分のことだからそう言い切れる。第三者から見たら…」

何故なぜその必要があるんですか?」

「え…?」

にいては見えないところに、本人の欲するものがあるのかもしれない。特に心の中のことならば…。今、彼女の心には大切なものがある。自分は幸せだと、彼女が言うにあたいするものです。それで充分ではないですか?」

 キノの中で、納得する部分とそれに相反する感情がぶつかり合う。

「希由香には…もっと幸せなことが何かもわかってて、それを望む自分もいるの。本当ならそうなれるはずなのに、そのために私に出来ることがあるのに…まだ迷ってる。幸せと一緒にその後の悲しみも大きくなるってこと、私は知ってる。だから…」

 だから、浩司が選んだのは…『希由香を悲しませないこと』なんだって、痛いほどわかってる。希由香の幸せを一番に願ってるのは浩司なのに、それが何かを誰よりも知ってるのに…!

 キノのまぶたから頬を伝い落ちた涙は、一しずくだけだった。喜怒哀楽のどれにも振り分けられない、言葉で言い表すことの難しい感情。そのき声とともに流れる結晶。

「だから、どうしていいかわからなくて、逃げたくて…逃げたくなくて、ここに来たら、あなたがいて…」

 私は…この人と話したかったのかもしれない。希由香の心は決まってる。3年前ここに来た時に。そして、あの海を見て、迷いの欠片かけらはなくなった。じゃあ…浩司は? 彼が命をけてまで望んだことを、私に変えられる? 浩司に、わずかでも迷いがあるといいのに…。まらない決意の隙間すきまにあるのは、状況の強いるものじゃなく…心だけが望むものだと思うから…。


「希音さん。迷いがあるなら、傍観ぼうかんするのもひとつの選択です。後で見易みやすくなるものもある」

「後じゃ遅いの…私に出来ることがあるのは今だけで、私の役目はまだ終わってないって感じる。このまま行った先の方が、今よりよく見えてる。私はそうしたくない。希由香も。だけど…」

 浩司は…。

 夜風に冷やされた目元をこすり、キノは深く長い息を吐いた。

「私、それが何か知らないうちは、浩司の願いを叶えたかった。幸せに笑ってほしかったから…」

「彼のその望みは、誰かを幸せにするものですか?」

 リージェイクがたずねる。

「彼自身の幸せとは相容あいいれないものであっても」

「浩司の望みは…」

 浩司は…希由香の幸せを願ってる。自分との記憶がなくなれば、希由香はほかの男を愛して幸せになるだろうって…でも、それは不確かなもの。もし、愛せる人に出会わなかったら? 思う人もなく孤独な心で死ぬことになったら? 浩司に出会う前の彼女を、私は知らない。だけど、その頃と今と、彼女にとってどっちが幸せか…浩司にはわかってるはずじゃないの…?

「希由香の幸せを願ってのものだけど…そうならないかもしれない」

 『誰かのマイナスにだけはなりたくない』浩司は本気でそう思ってるの? 自分が希由香にあげたのは悲しみより幸せの方が多いって、知ってるはずじゃないの…?  

「それでも、浩司の苦しみが消えるなら、どうしてもと望むことなら…私が止めちゃいけないのかもしれない」

 『自分の存在に悔いを残すのは辛い』そう言った浩司に、この祈りを後悔させたくないのに…。

「私には、賛成も反対も出来ないよ。でも、このままただ見届けるだけじゃ、私、必ず後悔する」

「あなたの迷いが、3年前の私と同じところにあるのなら…希由香さんが私に聞いた一言が、それを消してくれると思います」

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