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第5章 悲しみ、涙、そして、願い
悲しみと苦しみのファクター -3
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キノはカフェテリアのカウンターに頬杖をつき、顔を窓に向けている。けれども、ガラスの向こうにある空も街並も、キノの眼球にただ映るだけに過ぎない。
昨夜見た記憶が、キノの頭から離れない。浩司と別れてからの希由香。
愛する者が去った後の思いの処し方は、人それぞれだろう。思いの深さ、相手の存在の重さ、自身の精神の強さなどに、それは由来する。
しばらく普通にしていられたのは、その頃はもう月に一、二度くらいしか浩司に会えなくなってたし、電話が繋がらないのもタイミングが悪いだけだと、思えば思い込めたから。でも…そんな逃避は長く続かないってわかってる。少しずつ確実に、現実を直視させられる。本当は、あのメールを読んだ瞬間から理解してた。ただ…認めたくなかっただけ…。事実は変わらないのも、ちゃんと知ってる。唯一の心の支えを失った希由香は…。
キノは店内を見まわした。退社直後のOLや学生達が多い。
心の支えって、みんなあるのかな…。私にとって、それは何だろう? 叶えたい願い、実現したい夢、大切なものを守りたいと思う気持ち、自分の存在の意味…。ほんの小さなことでもいい、自分が誰かに、何かにとって必要だと感じられること、それが生きる糧になる。希由香は、浩司への思いだけしか持っていなかったんだろうか。自分の心の全てを注いで…。
キノは目を閉じる。
たかが失恋で、自分が、その後の人生が、大きく変わってしまう人もいる。当の本人にとってはたかがじゃない。それはわかってる。でも、心を浸食し、蝕んでいく思いは、どうすればいい? 時間薬の効く保証なんかない。希由香の心は病んでる。極端な過食とダイエット薬の濫用、このままじゃ身体も壊す。対人恐怖症にもなりそうだし…。
「どうしたの? 瞑想しちゃって」
美紅の声で、キノは我に返る。
「ちょっと思い出してたの」
「男のこと?」
「…彼氏なんかいないもん」
キノの隣に座り、美紅が笑う。
「涼醒君は? おとといのデートはどうだったの?」
「涼醒とはそんなんじゃないよ。それに、もっと遠い過去のこと。3年近く前の」
「デパートに入った年か。いろいろあったけど、楽しかったな。そういえば、あの冬、キノが突然倒れて大変だったよね」
美紅が記憶を思い起こしながら言う。
「閉店後、お互い残業中で、私も夜間病院に一緒に行ったっけ。何ともなくてほっとしたけど、顔面蒼白で歩くのもやっとのキノを見た時は焦ったな」
一瞬、まるで雷に打たれたかのように、キノの身体が硬直する。
「美紅…あれ…1月だった?」
「そう。確か14日。うちの店、15日が正月セール後の棚卸しで、その準備で大変だったから憶えてる」
キノは何とか平常心を保って美紅と歓談し、店に戻った。
1月14日に、私は原因不明で倒れた。希由香が護りを発動したのは、ヴァイでの15日。これは…偶然なんかじゃない。
終業時刻になると、キノは逸る気持ちを抑えアパートへと急いだ。
息を切らして帰って来たキノを、浩司が出迎える。
「どうした? 何かあったのか?」
「手帳…探さなきゃ」
キノは寝室のクローゼットを開け、いくつかのケースを引っぱり出す。目的の物はすぐに見つかった。
「希由香の発動は、15日の朝?」
「6時14分だ」
キノの様子を察しよけいな質問をせず、浩司が答える。
手帳を捲るキノの手が止まった。書かれた文字に走らせる目が見開く。
「浩司、私…希由香が護りを発動したのと同じ時、職場で倒れたの」
浩司の瞳が驚きとともに、何かを納得するような色を帯びる。
「14日の夜9時過ぎ、急に立っていられなくなって、何か、頭の芯がなくなったみたいなすごい衝撃で…。病院で調べてもらったけど、どこにも異常なしだった。希由香の発動と、関係ある?」
浩司はすぐには答えず、キノの腕を取って立たせ、椅子に落ち着かせる。その正面に座り、口を開く。
「今まで確信はなかったが、護りを発動させたのは…おまえの力だ」
「え?」
「発動は凄まじい精神エネルギーを要する。ラシャの者でも、しばらくは動けないほどだ。俺はずっと疑問に思っていた。希由香がR市で病院に担ぎ込まれた記録はない。汐の力を防ぐだけで意識を失うあいつの精神力で、護りの発動は可能なのかと。だが…おまえが力を貸していたとなれば別だ。発動の瞬間に、たぶん、無意識にな」
「そんなことが…」
「おまえに護りの在処がわかるのは希由香の記憶からだが、発動中のその姿も見えるはずと聞いて、それも疑問だった。発動自体におまえがかかわっていたとすれば、納得がいく」
「…私の力って…何? ただの、普通の人間なのに、どうして私が、意識もせずにそんなこと出来るっていうの?」
キノの視線がうろたえるように泳ぎ、手に持ったままの手帳に留まる。キノの心の奥で何かが弾け、音をたてた。ページを捲る指が震える。
キノは無言のまま、開いた手帳を浩司の前に押しやった。
「読んでいいのか?」
訝し気に尋ねる浩司に、キノがうなずく。
幾秒も経たぬうちに浩司の目は驚愕に見開かれ、その視線をキノが捉える。
「やっぱり、浩司に宛てたものなんだね。今日まで…このことすっかり忘れてた」
「おまえがどうやって…これは、希由香が発動の前日に、俺の部屋のドアに残して行った手紙の内容と…全く同じだ」
「きっと私も、希由香と同じ時間に書いたんだよ。その記憶はないけど…。13日の夜だったから、ヴァイでは14日の朝でしょ? 発動の時倒れたのと同じ、ちょうど9時間ずれてる」
浩司の瞳を見つめ、キノが微笑む。
「きっと、希由香の強い思いが私に届いた。だから、次の日、私の…もし本当にあるとしたらその力が、希由香に送られたのかもしれない。だって…何にか、誰のためにかはわからなかったけど、私も祈ったよ…希由香と同じこと」
キノは2002年1月13日のページを開き、指さした。
「手紙の最後も同じ内容だったでしょ? 希由香の、あなたを思う願い。だから…そう祈ったの」
「…護りに…か?」
浩司が掠れる声を絞り出す。
「このあなたは…浩司だよ」
浩司は手の平で目を覆い、静かに肩を震わせる。キノの目からこぼれる涙のしずくが、2年8ヶ月前に乾いたインクに染み込んでいく。
祈りの言葉が、まるで息を吹き込まれたかのように、鮮やかに光った。
『幸運が、いつもあなたのそばにありますように
あなたを闇から救える人が、いつか必ず現れますように』
昨夜見た記憶が、キノの頭から離れない。浩司と別れてからの希由香。
愛する者が去った後の思いの処し方は、人それぞれだろう。思いの深さ、相手の存在の重さ、自身の精神の強さなどに、それは由来する。
しばらく普通にしていられたのは、その頃はもう月に一、二度くらいしか浩司に会えなくなってたし、電話が繋がらないのもタイミングが悪いだけだと、思えば思い込めたから。でも…そんな逃避は長く続かないってわかってる。少しずつ確実に、現実を直視させられる。本当は、あのメールを読んだ瞬間から理解してた。ただ…認めたくなかっただけ…。事実は変わらないのも、ちゃんと知ってる。唯一の心の支えを失った希由香は…。
キノは店内を見まわした。退社直後のOLや学生達が多い。
心の支えって、みんなあるのかな…。私にとって、それは何だろう? 叶えたい願い、実現したい夢、大切なものを守りたいと思う気持ち、自分の存在の意味…。ほんの小さなことでもいい、自分が誰かに、何かにとって必要だと感じられること、それが生きる糧になる。希由香は、浩司への思いだけしか持っていなかったんだろうか。自分の心の全てを注いで…。
キノは目を閉じる。
たかが失恋で、自分が、その後の人生が、大きく変わってしまう人もいる。当の本人にとってはたかがじゃない。それはわかってる。でも、心を浸食し、蝕んでいく思いは、どうすればいい? 時間薬の効く保証なんかない。希由香の心は病んでる。極端な過食とダイエット薬の濫用、このままじゃ身体も壊す。対人恐怖症にもなりそうだし…。
「どうしたの? 瞑想しちゃって」
美紅の声で、キノは我に返る。
「ちょっと思い出してたの」
「男のこと?」
「…彼氏なんかいないもん」
キノの隣に座り、美紅が笑う。
「涼醒君は? おとといのデートはどうだったの?」
「涼醒とはそんなんじゃないよ。それに、もっと遠い過去のこと。3年近く前の」
「デパートに入った年か。いろいろあったけど、楽しかったな。そういえば、あの冬、キノが突然倒れて大変だったよね」
美紅が記憶を思い起こしながら言う。
「閉店後、お互い残業中で、私も夜間病院に一緒に行ったっけ。何ともなくてほっとしたけど、顔面蒼白で歩くのもやっとのキノを見た時は焦ったな」
一瞬、まるで雷に打たれたかのように、キノの身体が硬直する。
「美紅…あれ…1月だった?」
「そう。確か14日。うちの店、15日が正月セール後の棚卸しで、その準備で大変だったから憶えてる」
キノは何とか平常心を保って美紅と歓談し、店に戻った。
1月14日に、私は原因不明で倒れた。希由香が護りを発動したのは、ヴァイでの15日。これは…偶然なんかじゃない。
終業時刻になると、キノは逸る気持ちを抑えアパートへと急いだ。
息を切らして帰って来たキノを、浩司が出迎える。
「どうした? 何かあったのか?」
「手帳…探さなきゃ」
キノは寝室のクローゼットを開け、いくつかのケースを引っぱり出す。目的の物はすぐに見つかった。
「希由香の発動は、15日の朝?」
「6時14分だ」
キノの様子を察しよけいな質問をせず、浩司が答える。
手帳を捲るキノの手が止まった。書かれた文字に走らせる目が見開く。
「浩司、私…希由香が護りを発動したのと同じ時、職場で倒れたの」
浩司の瞳が驚きとともに、何かを納得するような色を帯びる。
「14日の夜9時過ぎ、急に立っていられなくなって、何か、頭の芯がなくなったみたいなすごい衝撃で…。病院で調べてもらったけど、どこにも異常なしだった。希由香の発動と、関係ある?」
浩司はすぐには答えず、キノの腕を取って立たせ、椅子に落ち着かせる。その正面に座り、口を開く。
「今まで確信はなかったが、護りを発動させたのは…おまえの力だ」
「え?」
「発動は凄まじい精神エネルギーを要する。ラシャの者でも、しばらくは動けないほどだ。俺はずっと疑問に思っていた。希由香がR市で病院に担ぎ込まれた記録はない。汐の力を防ぐだけで意識を失うあいつの精神力で、護りの発動は可能なのかと。だが…おまえが力を貸していたとなれば別だ。発動の瞬間に、たぶん、無意識にな」
「そんなことが…」
「おまえに護りの在処がわかるのは希由香の記憶からだが、発動中のその姿も見えるはずと聞いて、それも疑問だった。発動自体におまえがかかわっていたとすれば、納得がいく」
「…私の力って…何? ただの、普通の人間なのに、どうして私が、意識もせずにそんなこと出来るっていうの?」
キノの視線がうろたえるように泳ぎ、手に持ったままの手帳に留まる。キノの心の奥で何かが弾け、音をたてた。ページを捲る指が震える。
キノは無言のまま、開いた手帳を浩司の前に押しやった。
「読んでいいのか?」
訝し気に尋ねる浩司に、キノがうなずく。
幾秒も経たぬうちに浩司の目は驚愕に見開かれ、その視線をキノが捉える。
「やっぱり、浩司に宛てたものなんだね。今日まで…このことすっかり忘れてた」
「おまえがどうやって…これは、希由香が発動の前日に、俺の部屋のドアに残して行った手紙の内容と…全く同じだ」
「きっと私も、希由香と同じ時間に書いたんだよ。その記憶はないけど…。13日の夜だったから、ヴァイでは14日の朝でしょ? 発動の時倒れたのと同じ、ちょうど9時間ずれてる」
浩司の瞳を見つめ、キノが微笑む。
「きっと、希由香の強い思いが私に届いた。だから、次の日、私の…もし本当にあるとしたらその力が、希由香に送られたのかもしれない。だって…何にか、誰のためにかはわからなかったけど、私も祈ったよ…希由香と同じこと」
キノは2002年1月13日のページを開き、指さした。
「手紙の最後も同じ内容だったでしょ? 希由香の、あなたを思う願い。だから…そう祈ったの」
「…護りに…か?」
浩司が掠れる声を絞り出す。
「このあなたは…浩司だよ」
浩司は手の平で目を覆い、静かに肩を震わせる。キノの目からこぼれる涙のしずくが、2年8ヶ月前に乾いたインクに染み込んでいく。
祈りの言葉が、まるで息を吹き込まれたかのように、鮮やかに光った。
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