上 下
23 / 28
第2章:息子の同性愛指向を治したい

8. 先生も自分と同じように悩める心を内に秘めている

しおりを挟む
 クライアントの二人を見送って、今日の『ドロック』は営業終了。
 絵具を使用しなかったので、片付けはほとんどなし。

 セラピールームを簡単に掃除していると、どこかに姿を消していた葦仁いとよ先生が戻ってきた。

「ありがとう。今日はもういいよ」

「あと少しで掃除が終わりますから」

「そう? 時間は平気?」

 午後8時半をとうに過ぎている。
 『ドロック』の営業時間は午後8時までで、セラピーの最終受付はその1時間前の午後7時だ。6時台に来店するクライアントが多いため、その時間から始まるセラピーが最後になる日がほとんどだ。
 先生が時間を気にするのは、いつもなら8時を待ってここを出ている私への気遣いだろう。

「特に予定もないし、子どもじゃないので」

「そうだな」

「先生、清美さんに謝ってましたね。ごめんねって。クライアントを泣かせても滅多に謝ったりしないのに」

「泣かなかったからだよ。ヒステリックになっても、涙はこらえてた。それが意地でもプライドでも、その強さに対する僕の敬意だ」

 なるほど……。
 先生に涙は通用しない。かえってウンザリさせることになる。泣くことで同情を誘う演出の涙は特に。
 清美さんの最後の涙は、大人になった息子になら見せられる弱さだったのかも。

「西園寺さん。ひとつの意見として聞きたいんだけど、きみは神っていると思う?」

 床を滑らせるドライモップの手を止めて、デスクで書類を確認する葦仁先生を見る。

「いませんよ。もし神様が幻じゃなく全能の力で人間を見守ってるなら、この世に理不尽な不幸はないはずですから。先生は?」

「僕も同じ意見かな。神なんかいない。いると期待したこともないよ」

 そう言った葦仁先生の表情が微妙だ。
 どこか不安気で、焦燥感を帯びて憂鬱ゆううつそうな……遠くを見つめる暗い瞳。

「どうかしました?」

「いや。何でもない」

 私に向ける視線を捉え、うかがうように首を傾げた。
 葦仁先生の口角が上がる。

「きみも人の心の動きに敏感だったな。関心のあることにだけ、好奇心も強い」

「そうかもしれません」

 さっさと認めることで続きを急かす私に、深い溜息をつく葦仁先生。

「僕は……一般に神と呼ばれる存在はいないけど、人智を超えた力はあると思ってる。物質的な事柄も精神レベルの事象もカバーする宇宙のエナジーだとね」

「宇宙……ですか」

 話が突飛すぎて面食らう。

「それはまぁ、どうでもいいんだけど……僕の妻は特殊な信仰を持つ一族の人間なんだ。そして、神のように実体のないあやふやなものじゃなく、リアルな存在の何かを絶対的なモノとして信じてる」

「はぁ……」

「妻が僕にそれを強要することはない。でも、僕には全く関係なくても、子ども達は別だ。妻の血を引いてるからね。そして、妻はその信仰に従いながらも苦しい思いを抱えてる。原因は子どものことだ」

 信仰がどうのっていうのはよくわからないけど、先生の奥さんへの思いは聞いたから知っている。

「先生は? 奥さんの味方なんでしょう?」

「そう。僕は妻のために生きてる。彼女の望むことは僕の望みでもある。だから、彼女自身が心を決めない限り……簡単には言えないんだよ。清美さんには偉そうに言った、『神なんか捨てろ。それが出来なきゃ闘え』って言葉が」

 葦仁先生がデスクに肘をついて両手で頭を抱えた。
 初めて見るその姿に、暫し茫然とする。

 セラピストとしてここにいる先生しか知らないけど、この男がこんなに無防備で余裕のないところをさらすなんて…一体どうしたんだろう!?

「先生…あの、大丈夫ですか?」

「あぁ、ごめん。ちょっと今日はナーバスになってたかな」

 確かに。清美さん達のセラピーは感情的で、普段の先生とは違った。悩みの内容か、クライアントが息子に干渉する母親ってことのどっちかのせいだと思ってたけど…先生自身に何かあったのか……。

「プライベートのことできみに愚痴るなんて、情けないとこ見せちゃったね」

「いえ…」

「出来れば、聞かなかったことにしてくれると助かる」

「いいですよ。私の時もそうしてくれるなら」

「ありがとう」

 微笑む私に笑みを返す葦仁先生は、もうすでにいつもの顔に戻っている。
 でも、ほんのちょっと前まで、途方に暮れたようなうれいを帯びた先生がそこにいた。

 思いがけず彼の弱さを垣間見て、不思議と安心感が湧く。
 それは、先生も自分と同じように悩める心を内に秘めていることを知って、初めて彼を身近に感じたからかもしれない。



◆◆◆

ファイルナンバー103。
清美さん(啓祐さん)。
息子の性的指向に関する悩み。
息子とともに受けたセラピー(カウンセリングのみ)にて解消。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

王が気づいたのはあれから十年後

基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。 妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。 仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。 側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。 王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。 王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。 新たな国王の誕生だった。

父が死んだのでようやく邪魔な女とその息子を処分できる

兎屋亀吉
恋愛
伯爵家の当主だった父が亡くなりました。これでようやく、父の愛妾として我が物顔で屋敷内をうろつくばい菌のような女とその息子を処分することができます。父が死ねば息子が当主になれるとでも思ったのかもしれませんが、父がいなくなった今となっては思う通りになることなど何一つありませんよ。今まで父の威を借りてさんざんいびってくれた仕返しといきましょうか。根に持つタイプの陰険女主人公。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

王太子さま、側室さまがご懐妊です

家紋武範
恋愛
王太子の第二夫人が子どもを宿した。 愛する彼女を妃としたい王太子。 本妻である第一夫人は政略結婚の醜女。 そして国を奪い女王として君臨するとの噂もある。 あやしき第一夫人をどうにかして廃したいのであった。

【完結】生贄になった婚約者と間に合わなかった王子

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
フィーは第二王子レイフの婚約者である。 しかし、仲が良かったのも今は昔。 レイフはフィーとのお茶会をすっぽかすようになり、夜会にエスコートしてくれたのはデビューの時だけだった。 いつしか、レイフはフィーに嫌われていると噂がながれるようになった。 それでも、フィーは信じていた。 レイフは魔法の研究に熱心なだけだと。 しかし、ある夜会で研究室の同僚をエスコートしている姿を見てこころが折れてしまう。 そして、フィーは国守樹の乙女になることを決意する。 国守樹の乙女、それは樹に喰らわれる生贄だった。

処理中です...