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第2章:息子の同性愛指向を治したい
8. 先生も自分と同じように悩める心を内に秘めている
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クライアントの二人を見送って、今日の『ドロック』は営業終了。
絵具を使用しなかったので、片付けはほとんどなし。
セラピールームを簡単に掃除していると、どこかに姿を消していた葦仁先生が戻ってきた。
「ありがとう。今日はもういいよ」
「あと少しで掃除が終わりますから」
「そう? 時間は平気?」
午後8時半をとうに過ぎている。
『ドロック』の営業時間は午後8時までで、セラピーの最終受付はその1時間前の午後7時だ。6時台に来店するクライアントが多いため、その時間から始まるセラピーが最後になる日がほとんどだ。
先生が時間を気にするのは、いつもなら8時を待ってここを出ている私への気遣いだろう。
「特に予定もないし、子どもじゃないので」
「そうだな」
「先生、清美さんに謝ってましたね。ごめんねって。クライアントを泣かせても滅多に謝ったりしないのに」
「泣かなかったからだよ。ヒステリックになっても、涙は堪えてた。それが意地でもプライドでも、その強さに対する僕の敬意だ」
なるほど……。
先生に涙は通用しない。かえってウンザリさせることになる。泣くことで同情を誘う演出の涙は特に。
清美さんの最後の涙は、大人になった息子になら見せられる弱さだったのかも。
「西園寺さん。ひとつの意見として聞きたいんだけど、きみは神っていると思う?」
床を滑らせるドライモップの手を止めて、デスクで書類を確認する葦仁先生を見る。
「いませんよ。もし神様が幻じゃなく全能の力で人間を見守ってるなら、この世に理不尽な不幸はないはずですから。先生は?」
「僕も同じ意見かな。神なんかいない。いると期待したこともないよ」
そう言った葦仁先生の表情が微妙だ。
どこか不安気で、焦燥感を帯びて憂鬱そうな……遠くを見つめる暗い瞳。
「どうかしました?」
「いや。何でもない」
私に向ける視線を捉え、窺うように首を傾げた。
葦仁先生の口角が上がる。
「きみも人の心の動きに敏感だったな。関心のあることにだけ、好奇心も強い」
「そうかもしれません」
さっさと認めることで続きを急かす私に、深い溜息をつく葦仁先生。
「僕は……一般に神と呼ばれる存在はいないけど、人智を超えた力はあると思ってる。物質的な事柄も精神レベルの事象もカバーする宇宙のエナジーだとね」
「宇宙……ですか」
話が突飛すぎて面食らう。
「それはまぁ、どうでもいいんだけど……僕の妻は特殊な信仰を持つ一族の人間なんだ。そして、神のように実体のないあやふやなものじゃなく、リアルな存在の何かを絶対的なモノとして信じてる」
「はぁ……」
「妻が僕にそれを強要することはない。でも、僕には全く関係なくても、子ども達は別だ。妻の血を引いてるからね。そして、妻はその信仰に従いながらも苦しい思いを抱えてる。原因は子どものことだ」
信仰がどうのっていうのはよくわからないけど、先生の奥さんへの思いは聞いたから知っている。
「先生は? 奥さんの味方なんでしょう?」
「そう。僕は妻のために生きてる。彼女の望むことは僕の望みでもある。だから、彼女自身が心を決めない限り……簡単には言えないんだよ。清美さんには偉そうに言った、『神なんか捨てろ。それが出来なきゃ闘え』って言葉が」
葦仁先生がデスクに肘をついて両手で頭を抱えた。
初めて見るその姿に、暫し茫然とする。
セラピストとしてここにいる先生しか知らないけど、この男がこんなに無防備で余裕のないところを晒すなんて…一体どうしたんだろう!?
「先生…あの、大丈夫ですか?」
「あぁ、ごめん。ちょっと今日はナーバスになってたかな」
確かに。清美さん達のセラピーは感情的で、普段の先生とは違った。悩みの内容か、クライアントが息子に干渉する母親ってことのどっちかのせいだと思ってたけど…先生自身に何かあったのか……。
「プライベートのことできみに愚痴るなんて、情けないとこ見せちゃったね」
「いえ…」
「出来れば、聞かなかったことにしてくれると助かる」
「いいですよ。私の時もそうしてくれるなら」
「ありがとう」
微笑む私に笑みを返す葦仁先生は、もうすでにいつもの顔に戻っている。
でも、ほんのちょっと前まで、途方に暮れたような憂いを帯びた先生がそこにいた。
思いがけず彼の弱さを垣間見て、不思議と安心感が湧く。
それは、先生も自分と同じように悩める心を内に秘めていることを知って、初めて彼を身近に感じたからかもしれない。
◆◆◆
ファイルナンバー103。
清美さん(啓祐さん)。
息子の性的指向に関する悩み。
息子とともに受けたセラピー(カウンセリングのみ)にて解消。
絵具を使用しなかったので、片付けはほとんどなし。
セラピールームを簡単に掃除していると、どこかに姿を消していた葦仁先生が戻ってきた。
「ありがとう。今日はもういいよ」
「あと少しで掃除が終わりますから」
「そう? 時間は平気?」
午後8時半をとうに過ぎている。
『ドロック』の営業時間は午後8時までで、セラピーの最終受付はその1時間前の午後7時だ。6時台に来店するクライアントが多いため、その時間から始まるセラピーが最後になる日がほとんどだ。
先生が時間を気にするのは、いつもなら8時を待ってここを出ている私への気遣いだろう。
「特に予定もないし、子どもじゃないので」
「そうだな」
「先生、清美さんに謝ってましたね。ごめんねって。クライアントを泣かせても滅多に謝ったりしないのに」
「泣かなかったからだよ。ヒステリックになっても、涙は堪えてた。それが意地でもプライドでも、その強さに対する僕の敬意だ」
なるほど……。
先生に涙は通用しない。かえってウンザリさせることになる。泣くことで同情を誘う演出の涙は特に。
清美さんの最後の涙は、大人になった息子になら見せられる弱さだったのかも。
「西園寺さん。ひとつの意見として聞きたいんだけど、きみは神っていると思う?」
床を滑らせるドライモップの手を止めて、デスクで書類を確認する葦仁先生を見る。
「いませんよ。もし神様が幻じゃなく全能の力で人間を見守ってるなら、この世に理不尽な不幸はないはずですから。先生は?」
「僕も同じ意見かな。神なんかいない。いると期待したこともないよ」
そう言った葦仁先生の表情が微妙だ。
どこか不安気で、焦燥感を帯びて憂鬱そうな……遠くを見つめる暗い瞳。
「どうかしました?」
「いや。何でもない」
私に向ける視線を捉え、窺うように首を傾げた。
葦仁先生の口角が上がる。
「きみも人の心の動きに敏感だったな。関心のあることにだけ、好奇心も強い」
「そうかもしれません」
さっさと認めることで続きを急かす私に、深い溜息をつく葦仁先生。
「僕は……一般に神と呼ばれる存在はいないけど、人智を超えた力はあると思ってる。物質的な事柄も精神レベルの事象もカバーする宇宙のエナジーだとね」
「宇宙……ですか」
話が突飛すぎて面食らう。
「それはまぁ、どうでもいいんだけど……僕の妻は特殊な信仰を持つ一族の人間なんだ。そして、神のように実体のないあやふやなものじゃなく、リアルな存在の何かを絶対的なモノとして信じてる」
「はぁ……」
「妻が僕にそれを強要することはない。でも、僕には全く関係なくても、子ども達は別だ。妻の血を引いてるからね。そして、妻はその信仰に従いながらも苦しい思いを抱えてる。原因は子どものことだ」
信仰がどうのっていうのはよくわからないけど、先生の奥さんへの思いは聞いたから知っている。
「先生は? 奥さんの味方なんでしょう?」
「そう。僕は妻のために生きてる。彼女の望むことは僕の望みでもある。だから、彼女自身が心を決めない限り……簡単には言えないんだよ。清美さんには偉そうに言った、『神なんか捨てろ。それが出来なきゃ闘え』って言葉が」
葦仁先生がデスクに肘をついて両手で頭を抱えた。
初めて見るその姿に、暫し茫然とする。
セラピストとしてここにいる先生しか知らないけど、この男がこんなに無防備で余裕のないところを晒すなんて…一体どうしたんだろう!?
「先生…あの、大丈夫ですか?」
「あぁ、ごめん。ちょっと今日はナーバスになってたかな」
確かに。清美さん達のセラピーは感情的で、普段の先生とは違った。悩みの内容か、クライアントが息子に干渉する母親ってことのどっちかのせいだと思ってたけど…先生自身に何かあったのか……。
「プライベートのことできみに愚痴るなんて、情けないとこ見せちゃったね」
「いえ…」
「出来れば、聞かなかったことにしてくれると助かる」
「いいですよ。私の時もそうしてくれるなら」
「ありがとう」
微笑む私に笑みを返す葦仁先生は、もうすでにいつもの顔に戻っている。
でも、ほんのちょっと前まで、途方に暮れたような憂いを帯びた先生がそこにいた。
思いがけず彼の弱さを垣間見て、不思議と安心感が湧く。
それは、先生も自分と同じように悩める心を内に秘めていることを知って、初めて彼を身近に感じたからかもしれない。
◆◆◆
ファイルナンバー103。
清美さん(啓祐さん)。
息子の性的指向に関する悩み。
息子とともに受けたセラピー(カウンセリングのみ)にて解消。
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