泡沫の記憶

鈴燈

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雨の記憶 鬼雨

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 それから数日間、彼に会うことは無かった。それでも二週間経てば彼から連絡が来る。会う度に尽くして、時には身体も重ねた。そんなことが三ヶ月近く続いた。
 私は彼への疑心を捨て、以前よりも彼に依存していた。そんな時だった。急に彼と連絡が取れなくなったのだ。何日待っても返事は無く、電話をかけても出ない。
 その時、私の中でひとつの答えが出た。捨てられたのだ、と。頭ではすぐに理解できた。しかし、心が付いてきてくれない。心は否定し続けている。彼を信じきってしまったから。きっとすぐに連絡が来る。
 そう思って半月が過ぎた頃、ようやく吹っ切る覚悟ができた。来るはずの無い返事を待つのは、もう嫌だったから。
 友人と買い物をしたり、カラオケに行ったりすることで、どうにか気を紛らわせた。それでも心のどこかで彼が忘れられなくて、何度も苦しんだ。涙を流し、手首を切り、薬を過剰摂取した。自分の生きている価値が見いだせなくなり、私の存在を何度も消そうとした。生きたいと死にたいが交互に波になって押し寄せ、楽にさせてくれない。早く楽になりたいのに。
 友人の惚気話を聞かされる度に私の人生に嫌気がさす。私の現状を知っているのに、惚気話や恋愛相談をしてくる輩もいる。正直、相手の神経を疑ってしまいそうになる。惚気話を聞かせてくる奴が胸糞悪いと感じもしたが、人の幸せを妬んでいる自分が一番胸糞悪い。やり場の無い思いが私の中に湧き続ける。みんな消えてしまえばいいとも思った。
 私はみんなのように顔がいいわけでも、声が可愛いわけでも、性格が良い訳でも無い。それでも、そんな私でも周りの人たちみたいに幸せになりたいと思うし、好きな人と結ばれたい。私には無理って分かっているけど、幸せくらい願ったって良いじゃないか。みんなのように、ごく普通の、当たり前の幸せを求めたって...。
 でも、その時に気がついた。不細工で馬鹿で性格も悪い私が、人並みの幸せなんて願ってはいけないんだ、と。烏滸がましいことなんだと、やっと気が付くことが出来た。
 心のどこかで”私が好きな人は、私のことを好いてくれている”と、何故か何時も思っていた。好きな人との幸せを脳裏に描き、叶いもしない夢物語を綴っていた。あぁ、これは病気なんだ。気が付くのに、そう時間は掛からなかった。全てが嫌になった。違うって、叶いもしないって分かっているのに、私の脳は夢物語を綴っていく。その物語と現実との差にいつも打ちのめされ、勝手に心を病んでいる。自分が苦しむ道を、自ら作っていたんだ。
 今までに無いほどの自殺願望と、それを留めようとする淡い希望が、私の中で戦っていた。生きていればいつかいいことがあるかもしれない。ありもしないことを期待して、今まで生き長らえてきた。そのせいで今苦しんでいるというのに。
 「生きすぎちゃったな...」
 声が震えた。頬を冷たい何かが滴り落ちる。そのまま声を殺して泣き続けた。そんなものを幾ら流したって、過去には戻れないし、無かったことにはできない。それでも、今の私にはこうすることしか出来なかった。
 
 泣き疲れていつの間にか寝てしまったようで、気がつくと夕方になっていた。重力にねじ伏せられたかのように体が重く、起き上がることが出来ない。眠気は無く、空腹感も無い。何をする訳でもないまま、時間だけが過ぎていく。気を抜くと彼のことを考えてしまうから、何も考えないようにと音楽を流す。でも今の私には、うるさい音に綺麗事を並べただけの雑音としか思えなかった。
 ふと時計を見ると十九時を過ぎていた。
 彼が会おうと言う時は、遅くてもこのくらいの時間だったなぁ、連絡が来るの。
 あ、ほら。彼のことを思い出しちゃった。
 嫌になって布団に潜り込もうとしたら携帯の通知が鳴った。もしかしてと思い、慌てて携帯を確認する。わかり切ったことだったが、彼からでは無かった。わかり切っていたのに、なんだか虚しくなってしまう。そして、それがきっかけとなって思い出が溢れ出した。
 心を慰める記憶は、今はただ虚しいだけだ。思い出せば思い出すほど心を抉られるのに、思い出は止まってくれない。眠ってしまえば分からなくなる。そう思って布団に潜り込み、目を瞑った。
 そして、夢を見てしまった。よりによって、彼の夢だ。あの上辺だけの優しさに満ちた手で、私の頭を撫で、身体をなぞる。いつも通りの彼。私の身体に必死に食らい付く彼に、恐る恐る触れる。そこには、あの頃と同じ彼の温もりがあった。あの頃と同じ優しさで、あの頃と同じ彼に包まれた。
 しかし、なんの前触れもなしに幸せは終わるものだと、改めて知る。目が覚めた時、彼に触れていた感覚は消えていた。
 夢は夢でしかないこと、もう夢の中でしか会えないことを、思い知らされた気がした。
 彼がの手がしたのと同じように、自分の身体をなぞってみる。彼が触ってくれたように、彼と同じ力で。でも私の中に込み上げてくる感情はあの時と真逆のものだった。涙が零れ、あの時と同じ快感を覚える。でも、彼の手じゃない。悲しくて、寂しくて、虚しい。瞼の裏側に彼を描きだす。
 「は...はる、いち...。晴一...」
 気がつくと、私は二度と呼ばないと決めた名前を必死に呼んでいた。応えてくれることなんて二度と無いのに。
 次に眠りに落ちるまで、汚い声だけが虚しく部屋にこだましていた。
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