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7.女魔王は過去を悔いる

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絵画の少女はあの頃より成長していた。どうやら無事、人族のもとへ帰れたらしい。

(なぜ、ローレンスが彼女の姿絵を持っているの?)

 シャルティは震える指先で絵画を裏返し、さらに驚く。

『愛する我が妹、マリアンヌ。必ず君の病魔を払ってあげるからね』

(彼女がローレンスの妹だったなんて。ああ、だから女の服に詳しかったのね)

 シャルティはフリルのついた襟元に指先を滑らせる。服や髪の扱いに長けていたのもうなずける。シャルティが身に着けている衣服はすべて、彼女のものなのかもしれない。

 そんな妄想がシャルティの脳裏に渦巻いた。

 彼女はどこにいるのだろう。この家にはローレンスのほかに人族の気配はない。病におかされているのなら、きっと安全な場所にいるのだろう。
 
 自身の推測に納得しかけシャルティだが、ここでふと疑問を覚える。
 絵画の裏書から、ローレンスが妹を溺愛しているのは明白だ。

 病気を患っているのなら、目の届く範囲で世話をするはずである。
 森から一番近い村で看病をしているとしても、村までは徒歩で一日はかかる。強靭な脚力をもつローレンスといえど、毎日通うのは難しい。

 そもそも彼は頻繁に家を空けない。

 疑問がさらに疑問を呼び、シャルティは混乱した。
 ふと、床に散らばった羊皮紙の束に目が留まり、思わず拾い上げる。書かれた内容に、顔から血の気が引いた。

「『魔族を材料にした万能薬の精製方法』……。 人族はなんて恐ろしいことを考えるのかしら」

 シャルティは羊皮紙の束をめくった。魔族の頭部を描いた図と目が合い、見るに堪えなくなって、すぐさま床に投げ捨てる。

(ローレンスが私に執着していた理由……。まさか薬の材料にしようとしていたとはね)

 愛しい妻と囁かれ、いい気になっていた。
 ショックは受けているが、ラヘルに裏切られたときに比べれば、それほどではない。

(同胞に捨てられたからって、ローレンスにすがるのは筋違いだもの)

 ローレンスは人族。
 長年の仇敵である魔族を利用しようとしてもなんら不思議ではない。

 最初から勇者らしくない男だった。
 戦闘よりも、シャルティの身の回りの世話をこなすほうが板についていた。特に、料理をしているときが一番楽しそうである。

 穏やかな道を捨て勇者になり、シャルティを手に入れようとしたのは、妹を救うためだ。

 ローレンスには借りがある。遅かれ早かれ同族に殺されそうになっていたところを助けられたのだ。

(私が彼に与えられるものといえば……)

 シャルティはそれに思い至り、そっと角に触れた。


 魔族は角に魔力を溜めこむ。
 角に魔力を送っているのは、血だ。
 ローレンスの実験記録からして、人族はその事実にはたどり着いていないようである。
 全身を循環する命の源。魔族は血の巡りを把握し、身体のいたるところから魔術を錬成できる。
 ローレンスは角から魔力を取り出し、薬を精製、幾度も妹に与えている。それでも効果がなかったから、彼は勇者になり、魔王を求めた。
 ローレンスが血液から薬を精製する術を知っていれば、勇者にならずに済んだだろう。

 シャルティが彼を想い苦しむこともなかったはずだ。

 キッチンで探し出した木のボウルのなかにナイフを入れて、ローレンスの寝室へとむかう。
 呼吸を整え、木のテーブルに置いたボウルに腕をかざし、ナイフの先を二の腕に押し当てた。
 皮膚が裂け、赤い雫がぷくりと肌に浮き上がる。
 ローレンスに喜んでもらいたい。同時に彼の妹への罪滅ぼしでもある。
 許してもらおうなどとは思わない。ただの自己満足だ。

 シャルティは眉をひそめながら、さらに深く刃先を傷口に潜り込ませた。

 「……何をしてるんだ?」

 背後から伸びた手が、シャルティの手の甲を覆った。
 聞き馴染んだ甘い声音がシャルティを追い詰める。

「もう一度聞くけど……。シャルティ、君は何をしようとしているの?」

 肌が粟立つ。シャルティは逆らえず、ゆっくりと振り向いた。
 足音はおろか気配すら感じさせず、背後にローレンスがいた。
 彼はシャルティの腕に視線を走らせる。腕を伝い、糸のように細く血が床に滴っていた。
 シャルティの手からナイフを取り上げると、肖像画に目をとめる。
 ローレンスの殺気がさらに強くなる。重苦しさに耐え切れず、シャルティは震える唇を開いた。

「……無断で部屋に入って、ごめんなさい」
「鍵をかけ忘れたから戻ってきてみれば……。君が何をするつもりだったのか、話してくれ」

 勇者は口元を笑みの形にするも、その青い瞳は暗く濁っていた。
 ここで誤魔化してしまってはローレンスに失礼だ。

「貴方の大事な家族のために、私の血を使ってほしいの」

 ローレンスは息をのんだ。
 白々しく驚く彼に、シャルティは語気を荒げる。
 
「貴方が勇者になったのは私の角を手に入れて、妹を救うためでしょう?」

 だから私を手に入れたかったのでしょう?
 だから私を愛するフリをしたのでしょう?

 ローレンスをなじる気持ちが声に籠り、次から次へと溢れ止まらない。

(ああ、なんてみじめなのかしら)

 ローレンスに愛されていると自惚れてしまった己に嫌気がさし、深くうなだれた。
 消えてしまいたいと願った瞬間、あたたかなぬくもりに包まれる。ローレンスに正面から抱きしめられ、シャルティは頭が真っ白になった。

「シャルティ、君はほんとう、救いようのないお人よしだね」
「……そうね。仲間だと思っていた者たちに裏切らていることに、長年目をそらし続けたくらいだもの」
「俺は君に感謝してるんだ。そんなに卑屈にならないでよ」
「愚か者。私はお前の妹を――」

 ローレンスはシャルティの柔らかな唇に指の腹をそっと押し当てた。

「君が妹を――マリアンヌの命を奪おうとしたことは知ってる。本人から聞いたからね」

 青い瞳からは暗い色は抜けていた。朗らかな笑顔を絶やさないローレンスにシャルティは胸が張り裂けそうになる。

「なおさら私は貴方に謝らないと……」
「まず俺の話を聞いて。それからでも遅くはないよ」

 恨みなど一欠片も感じられない笑顔を向けられ、シャルティは言葉を飲み込み、目をそらした。

「最初から説明しておけばよかったね」

 ローレンスはシャルティを簡易ベッドに座らせると、傷の手当てをはじめた。魔族の治癒力で薄くなった傷口に、ローレンスは丁寧に包帯を巻いていく。

「治っているから平気よ」
「こういうのは、気持ちの問題だから」

 包帯を巻き終えると、ローレンスはシャルティの隣に腰をおろした。床に落ちた紙の束を取り上げ、「もう必要ない資料だから、片付けるの忘れてたよ」と言うなり、破り始めた。
 ためらうことなく次から次へと実験結果や資料を紙吹雪にしていくローレンス。シャルティは開いた口が塞がらなかった。

「妹――マリアンヌはもうこの世にいないんだ。だから君の角や血を奪うなんて馬鹿げたことはしないよ」
「え……」

 話についていけないシャルティに、ローレンスはゆっくりと語り始めた。
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