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七話 暴力的エンカウント

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 肉切り包丁を持つ男の表情は、額まで覆った布で眉毛が隠れており、読めない。だが、切れ長の瞳がスッと細められたため、歓迎されていないのは明白だった。
 ガス燈の仄かな明かりに照らされた白いエプロンには、ところどころ赤や茶色のシミがこびりついている。

「ロドルナ警察捜査官、ヴィクター•ルージェンドと申します。勝手に入ったわけではありません。店主の案内を受けている最中でして……。途中ではぐれてしまったのですが、彼はどこへ?」
 ヴィクターはゆっくり立ち上がり、男の背後を覗き込んだ。
 捜査官として多くの者と駆け引きをしているであろうヴィクターが、男の不機嫌さに気づかないはずがない。しかし、彼は場にそぐわない明るさで、肉切り包丁を持つ男の答えを待っていた。

「……店主は急用で表に戻った。この先はアンタたちに見せられない、とのことだ」
 男は大きな刃をちらつかせながら、ヴィクターに冷たく言い放つ。
「おかしいですね。店主はとても協力的でしたよ」
「アンタたちより優先させるべき用事が入ったんだ。……お引取り願おう」
「いや~、こちらも仕事ですからね。はいそうですかと簡単に引き下がれません。店主がお戻りになられるまで待ちますので」
「……迷惑だと言っているのが、分からないのか?」
 じりじりと二人を入り口へと追い詰めようとする肉切り包丁を持つ男。そのズボンの裾から見え隠れするモノに、リアムは釘付けになる。

 ――あれって、尻尾だよね……。

 最初は埃だと思ったが、規則正しく揺れるモノは見間違えようがない。

「じ、人狼?」

 リアムの呟きが引き金になったのか、肉切り包丁を持つ男は、目にも留まらぬ速さで得物を振り抜いた。
「う、うわっ!」
 リアムはヴィクターに突き飛ばされ、床に倒れる。
 耳障りな高音が静寂を切り裂き――。
 見上げると、ヴィクターがリボルバーの銃身で肉切り包丁を防いでいた。

「……うらぁっ!」

 閃光が飛び散りそうな勢いで、ヴィクターは刃を撥ね退けると、リアムの首根っこを掴み、入り口に向かって駆け出した。

「……くそっ。開かねえ」

 木製の両開き扉には、いつの間にか鍵がかかっており、びくともしない。そうこうするうちに、リアムたちに追いついた肉切り包丁の男が、横薙ぎに凶器を振り切った。ヴィクターはすんでのところで腰を屈め回避し、吊るされた肉を盾にして壁を伝って逃げる。リアムはなすがままに、ヴィクターに引きずられた。

「……こんの、馬鹿が!」

 男を引き離し、物陰に隠れることに成功するや否や、ヴィクターはリアムを壁際へと投げ飛ばす。
「……っ。す、すみません……」
 壁に背中を打ち付けたリアムは、必死にうめき声を堪えた。でなければ、人狼とおぼしき男に見つかってしまう。
 肉塊が目隠しになっているのも時間の問題である。
 リアムは、帽子のなかで耳を垂れた。

 ――このままだと、ヴィクターさんに嫌われてしまう……。

 ズリ、ズリ、ズリ……。
 焦るリアムの耳に、何かを引きずる音が聞こえた。ヴィクターには聞こえていないのか、顎に指をあて何やら考え込んでいる。

 ――もしかして、あの男の足音かな。

 さらに耳をすますと、不規則ながら男の匂いとともに音が動いていることに気がついた。
 吊り下がった肉たちで姿は見えないが、音はリアムたちにゆっくり近づいてくる。

「……どこから来るか分からんな」
「……右斜めから来てます」
「奴の居場所がわかるのか?」
「な、なんとなくですが……」

 ヴィクターはジッとリアムが示した方向を凝視した。ガス燈があるとはいえ、保管庫に納められた肉の状態を確認するための明かりだ。足元まで照らすほどの光量はない。
 巧みに影の中を移動し、肉切り包丁を持つ男は、足音を消そうとしている。だが、リアムの聴覚は微かな振動を捉えていた。
 ヴィクターは、ジャケットの懐からリボルバーを取り出す。しかめ面でリアムが見据える先へ銃口を構えた。

「……も、もう少し左だと思います」

 リアムは自分の言葉を信用したヴィクターに驚きつつも、丁寧に誘導した。
 膝立ちになったヴィクターは、微調整を繰り返し標準を定める。
 肉塊がぐらりと揺れた。
 その影から男が肉切り包丁を振りかぶり襲いかかってくる。
 ヴィクターのリボルバーが火を吹き、男の胴体に弾丸がめり込むのは必然だったが――。

「ちっ!」

 至近距離で射撃したにもかかわらず、弾丸は男の頬をかすめただけだった。
 銃撃に警戒し、一歩退しりぞいた男は不思議そうに首を傾げている。リアムも混乱しながらヴィクターをちらりと窺った。ヴィクターは歯噛みしつつも、両手で銃把を握り、止まっている男を狙っている。二発、三発と続けるも、静止した男の頭に巻いた布を弾丸は掠り、壁や天井にめり込んだ。

 ――え……。【人狼】って銃弾を避ける魔法が使えるの?
 
 当たらない銃弾に、肉切り包丁を持つ男は攻撃を再開した。
 前傾姿勢で迫る男が、肉切り包丁でヴィクターの胴体を真っ二つにしようとしたが。
 ヴィクターは男の懐に潜り込むと、リボルバーごと男の顎を殴りあげた。

 ――銃って殴る道具だっけ……。

「……やっぱ銃って奴は好きになれねえ」

 完璧なアッパーを食らった男は、仰向けに倒れ込む。その拍子に頭に巻かれていた布がはだけた。焦げ茶色の髪のなかから、リアムのものより大きな狼の耳が生えている。

「お前の仲間って……わけじゃなさそうだな」

 ヴィクターは自らの仮説を即座に否定した。リアムが男と示し合わせて、【人狼】を狩る捜査官を襲おうとしたとでもいいたいのか。
 やはりヴィクターはリアムを信用していないのだ。落ち込み項垂れたリアムは、倒れた男を視界の端に収めた。
 年の頃はリアムやヴィクターと変わらない青年である。警察に捕まればこの男はどうなるのか。

 ――ぼ、僕のせいで酷い目に合わされるのかな……。

 ロドルナで初めて遭遇した同胞だ。遅まきに怪我はしていないかと、男に近づいたその時。
 男の身体がビクビクと痙攣し始めた。

「ヴィ、ヴィクターさん……!」

 失神していたはずの男が、身体を左右に振りながら起き上がる。うつむいていた顔が正面を向き、瞳孔が人ではありえないほど糸のように細くなった。
 男はそのまま四つん這いになるや、天井に向かって遠吠えをする。

『うおおおおーん!』

 空気が震え、リアムはハンチング帽越しに両耳を覆った。男が瞬きをするごとに、全身が膨張し、服が破れ、そして。
 焦げ茶色の毛皮をまとった狼が姿を現した。

『貴様は、バシレイアか?』

 臨戦態勢に入るヴィクターを気に留めることなく、巨大狼はざらついた声でリアムに尋ねる。
 意味が分からず、リアムは恐怖に震えていた。

『人間に飼われている愚か者が、俺達の同志であるわけはないか。……ハウンドの見込み違いだな』

 巨大狼は牙をかみ鳴らしながら、ヴィクターに突進した。ヴィクターは床に転がっている肉切り包丁を取り上げ、人狼の開いた顎をかろうじて受け止める。
 ガチャガチャと擦り合う金属音が、薄闇を掻き乱した。

「くっ……、おい、今のうちに外に行け!」
「え……」
「店先で騒げ! 近くに俺の部下がいるはずだ」
「で、でも出口が……」
「なんとかしろ!」

 そんな無茶な。

 喉を鳴らす人狼が、ぎろりとリアムを睨み据える。リアムの脚が、さらにがくがく震えだした。
 人狼のあぎとは刻一刻と肉切り包丁を押し返している。仰向けに押し倒されたヴィクターは、靴底で人狼の腹を蹴りつけるも、大したダメージには、なっていないようだ。

 ――ど、どうしよう……。

 このままではヴィクターが人狼に喰われてしまう。どうにかして人狼の気を引付けなければ。
 リアムはヴィクターのジャケットから転がり出たマッチ箱を掴み取った。
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