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一話 暗雲
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――昨日のヴィクターさん、すごかったなあ。
開店前の清掃をしながら、リアムはヴィクターの戦闘姿を反芻していた。野生の獣のように俊敏に敵の攻撃を躱し、急所を攻める動きは滑らかで、いつまでも見ていられた。
リアムは腕で力こぶを作ってみたが、骨に皮が貼りついたような細腕に、筋肉の盛り上がりはできない。
「……何してんのさ」
「うひゃっ!」
リアムは驚いて箒を取り落してしまう。振り向くと、木桶と布を抱えたジャズが、細く整えられた眉を釣り上げていた。
開店前だというのに、カウンター席でたむろする常連客がそんな二人を見て、ゲラゲラと笑う。
「リアムちゃんは、助けてもらった王子様に憧れてんのさ」
「ロドルナで育ったら、一度は捜査官になりてぇって思うもんな」
「どいつもこいつも真っ昼間から入り浸って、好き勝手言うんじゃないよ。……リアム、今度、面倒ごと起こしたら追い出すからね」
常連客に毒を吐きながら、ジャズはリアムに釘を指すことも忘れない。
警察本部で保護されたリアムが怯えていたためか、ヴィクターはゆっくりと、事情を説明してくれた。
リアムの首を締め上げた大男は、何度も密売の疑いで捕まっており、先日、中央監獄から出所したばかりだった。そのため、捜査官たちは交代で見張っていたのである。
そんな中、大男は懲りずに商売を再開し、今回の騒動に発展した。
押し付けられた麻袋には、無許可で取引してはいけない品が入っており、リアムは知らぬうちに密売の片棒を担がされていたらしい。
麻袋を奪おうとした大男たちの正体や、袋の中身を聞かれても、リアムには心あたりがない。
警察本部に閉じ込められてから数時間後。夜も明けようとする頃に、やっと開放されたのである。
ただし、条件は身元引取人を指定することだった。
そうして迎えにきたジャズに帰りの道中、小言を言われ続ける羽目になったのである。
「すみません……」
「床掃除が終わったんなら椅子を戻して、テーブル拭きな」
鼻を鳴らしたジャズは、床に木桶を下ろし、うなだれるリアムに、鋭くクロスを投げつけた。かろうじてキャッチしたリアムは、黙々とテーブルを磨き始める。
貧弱な身体で、ヴィクターのようになりたいと願うのは無謀だ。
理性ではわかっている。けれど夢を見ることはやめられない。
せめてもう少し食を太くしなければと、己の身体の弱さに項垂れた。
カララン……。
ドアベルが来客を告げる鐘の音を立て、リアムは現実に引き戻される。
「すみません、まだ準備中で……」
カウンター席に酔っぱらいがいるので、説得力はない。決まりなので断りを入れたリアムは、現れた人物に目を丸くした。
「ヴィクターさん?」
ヴィクターは昨夜と同じ、黒のフロックコート姿だ。その襟元には、ロドルナ警察の徽章が鈍く輝いている。
連日顔を見ることができ、リアムは喜んだのだが、口を引き結ぶヴィクターに、嬉しさは萎んでいった。常連たちも、ただならぬ気配に口を閉ざしている。
「昨夜発生した密売事件の重要参考人として、リアム、貴様を連行する」
ヴィクターはリアムの腕を掴むと、胸元から手枷をとり出し、その手首に嵌めた。
「え」
突然のことに、リアムは陸に打ち上げられた魚のごとく口をパクパクとさせる。今日ばかりはヴィクターの体温を、ありがたく感じることもできない。
「おいおいおい。ルージェンドの旦那、何やってんだ?」
リアムを孫のようにかわいがってくれている常連客が慌ててヴィクターを引き留めるも、ヴィクターは彼を押し退ける。
ひと回り以上体格の違うヴィクターに敵うはずもなく、リアムは引きずられるまま、なす術がなかった。
「ヴィクター、本気で言ってんのか。こんな気の弱えガキが密売に関わってるって……ありえねえだろ」
「高けえ税金払ってんだから、ちゃんとした捜査しろや!」
口々に捲くし立てる常連たちを、ヴィクターはひと睨みで黙らせる。
「……邪魔をするなら、アンタたちも連行するぞ」
味方のいなくなったリアムは、何が起こっているのかいまだに理解ができずにいた。昨日の現場で犯人は逮捕されたはずだ。それなのになぜ、リアムは疑われているのか。
脚を踏ん張るも、靴底が床を擦り嫌な音を立てるばかりである。
――だ、誰か助けて……!
「人の店で騒ぐんじゃないよ、ヴィッキー」
厨房から出てきたジャズはフライパンを握ったまま、ヴィクターに啖呵を切った。ひとつにまとめた長い赤毛が、逆立つような勢いである。
「……今さら先輩面されても困りますよ、フリッカー元捜査官」
「アタシが捜査官してたとき、アンタまだ鼻たれ小僧だったでしょ」
ジャズは腰に手を当て、
「先輩風吹かしてるわけじゃないさ。この店のルールはアタシなんだよ。警察だろうがなんだろうが、勝手に従業員を連れて行くなんて、許さないからね」
ヴィクターとジャズが取っ組み合いをしたら、まず間違いなく間に挟まれるリアムは無事では済まない。けれど、リアムが原因で揉めているのだ。逃げることはできず、足が震えるのを我慢するしかない。
「……どうしても話が聞きたいんなら、奥の部屋を使いな」
一触即発と思いきや、ジャズは厨房横の物置部屋に親指を向けた。
眉をひそめるヴィクターに、「アタシも聞きたいことがあるし」とジャズは口角をきゅっと引き上げる。手の中でフライパンを弄ぶ彼女にヴィクターは観念したようで、
「……場所の提供、感謝します」
と渋々承諾した。
開店前の清掃をしながら、リアムはヴィクターの戦闘姿を反芻していた。野生の獣のように俊敏に敵の攻撃を躱し、急所を攻める動きは滑らかで、いつまでも見ていられた。
リアムは腕で力こぶを作ってみたが、骨に皮が貼りついたような細腕に、筋肉の盛り上がりはできない。
「……何してんのさ」
「うひゃっ!」
リアムは驚いて箒を取り落してしまう。振り向くと、木桶と布を抱えたジャズが、細く整えられた眉を釣り上げていた。
開店前だというのに、カウンター席でたむろする常連客がそんな二人を見て、ゲラゲラと笑う。
「リアムちゃんは、助けてもらった王子様に憧れてんのさ」
「ロドルナで育ったら、一度は捜査官になりてぇって思うもんな」
「どいつもこいつも真っ昼間から入り浸って、好き勝手言うんじゃないよ。……リアム、今度、面倒ごと起こしたら追い出すからね」
常連客に毒を吐きながら、ジャズはリアムに釘を指すことも忘れない。
警察本部で保護されたリアムが怯えていたためか、ヴィクターはゆっくりと、事情を説明してくれた。
リアムの首を締め上げた大男は、何度も密売の疑いで捕まっており、先日、中央監獄から出所したばかりだった。そのため、捜査官たちは交代で見張っていたのである。
そんな中、大男は懲りずに商売を再開し、今回の騒動に発展した。
押し付けられた麻袋には、無許可で取引してはいけない品が入っており、リアムは知らぬうちに密売の片棒を担がされていたらしい。
麻袋を奪おうとした大男たちの正体や、袋の中身を聞かれても、リアムには心あたりがない。
警察本部に閉じ込められてから数時間後。夜も明けようとする頃に、やっと開放されたのである。
ただし、条件は身元引取人を指定することだった。
そうして迎えにきたジャズに帰りの道中、小言を言われ続ける羽目になったのである。
「すみません……」
「床掃除が終わったんなら椅子を戻して、テーブル拭きな」
鼻を鳴らしたジャズは、床に木桶を下ろし、うなだれるリアムに、鋭くクロスを投げつけた。かろうじてキャッチしたリアムは、黙々とテーブルを磨き始める。
貧弱な身体で、ヴィクターのようになりたいと願うのは無謀だ。
理性ではわかっている。けれど夢を見ることはやめられない。
せめてもう少し食を太くしなければと、己の身体の弱さに項垂れた。
カララン……。
ドアベルが来客を告げる鐘の音を立て、リアムは現実に引き戻される。
「すみません、まだ準備中で……」
カウンター席に酔っぱらいがいるので、説得力はない。決まりなので断りを入れたリアムは、現れた人物に目を丸くした。
「ヴィクターさん?」
ヴィクターは昨夜と同じ、黒のフロックコート姿だ。その襟元には、ロドルナ警察の徽章が鈍く輝いている。
連日顔を見ることができ、リアムは喜んだのだが、口を引き結ぶヴィクターに、嬉しさは萎んでいった。常連たちも、ただならぬ気配に口を閉ざしている。
「昨夜発生した密売事件の重要参考人として、リアム、貴様を連行する」
ヴィクターはリアムの腕を掴むと、胸元から手枷をとり出し、その手首に嵌めた。
「え」
突然のことに、リアムは陸に打ち上げられた魚のごとく口をパクパクとさせる。今日ばかりはヴィクターの体温を、ありがたく感じることもできない。
「おいおいおい。ルージェンドの旦那、何やってんだ?」
リアムを孫のようにかわいがってくれている常連客が慌ててヴィクターを引き留めるも、ヴィクターは彼を押し退ける。
ひと回り以上体格の違うヴィクターに敵うはずもなく、リアムは引きずられるまま、なす術がなかった。
「ヴィクター、本気で言ってんのか。こんな気の弱えガキが密売に関わってるって……ありえねえだろ」
「高けえ税金払ってんだから、ちゃんとした捜査しろや!」
口々に捲くし立てる常連たちを、ヴィクターはひと睨みで黙らせる。
「……邪魔をするなら、アンタたちも連行するぞ」
味方のいなくなったリアムは、何が起こっているのかいまだに理解ができずにいた。昨日の現場で犯人は逮捕されたはずだ。それなのになぜ、リアムは疑われているのか。
脚を踏ん張るも、靴底が床を擦り嫌な音を立てるばかりである。
――だ、誰か助けて……!
「人の店で騒ぐんじゃないよ、ヴィッキー」
厨房から出てきたジャズはフライパンを握ったまま、ヴィクターに啖呵を切った。ひとつにまとめた長い赤毛が、逆立つような勢いである。
「……今さら先輩面されても困りますよ、フリッカー元捜査官」
「アタシが捜査官してたとき、アンタまだ鼻たれ小僧だったでしょ」
ジャズは腰に手を当て、
「先輩風吹かしてるわけじゃないさ。この店のルールはアタシなんだよ。警察だろうがなんだろうが、勝手に従業員を連れて行くなんて、許さないからね」
ヴィクターとジャズが取っ組み合いをしたら、まず間違いなく間に挟まれるリアムは無事では済まない。けれど、リアムが原因で揉めているのだ。逃げることはできず、足が震えるのを我慢するしかない。
「……どうしても話が聞きたいんなら、奥の部屋を使いな」
一触即発と思いきや、ジャズは厨房横の物置部屋に親指を向けた。
眉をひそめるヴィクターに、「アタシも聞きたいことがあるし」とジャズは口角をきゅっと引き上げる。手の中でフライパンを弄ぶ彼女にヴィクターは観念したようで、
「……場所の提供、感謝します」
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