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ネグレクトに効く薬毒5
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アパートに戻っても、流歌はぺたんと床に座り込んでしまい、ただうつむいてぼーっとしていた。獅音が空腹な事や、冷えた身体を暖めてやろうなどは頭になく柳瀬の事を考えていた。柳瀬が化け物に喰われた事実よりも自分に彼氏がいなくなった事のほうが流歌には重大な事件だった。
また息子と二人ぼっちになってしまったという事実だけが流歌の頭の中をぐるぐると回っていた。
「ママ、お水」
獅音は水道には手が届かず、部屋の隅に転がっていたペットボトルの水をコップに注いで流歌に差し出し、残りは自分がそのまま口にした。
「ああ……ありがと」
流歌はそのコップの水を一口飲んだ。
晩秋の季節は、部屋の隅に転がしてあるペットボトルの水をよく冷やしてあった。
流歌の喉の渇きが癒やされ、冷たい水が旨く感じた。
ごくごくっと全て飲み干すと、
「ママ、ねんねしよう」
と獅音が言い、万年床の布団を指した。
「そうだね」
流歌は這うようにして布団に入り、すぐに眠りに落ちた。
その流歌の身体に薄い獅音は毛布をかけてやり、握りしめた薬包をゴミ箱に捨てると自分も母親の身体にぴったりと寄り添って目を瞑った。
「痛い!」
顔に衝撃を受けて流歌は目を覚ました。
目を開けると、すぐ側に足があり、遙か上の方から流歌を罵倒する声が降ってきた。
「いつまで寝てやんで! さっさと働きに行けよ! ばばぁ! 殺すぞ!」
え、と思い、流歌は身体を起こした。と同時に身体中がギシギシと痛かった。
夕べの客も酷かったからな、と流歌は思い返し、
「獅音……もう、勘弁してよ、お母さん、少し休みたいんだ」
と言った。
ドカ! と流歌は頭を抱えた。大きな獅音の足が流歌の頭を蹴ったからだ。
「やめて……」
流歌は身体を起こして、大きくなった息子を見上げた。
「やめて、ほんとやめて、お母さん、身体がつらいんだって言ってる……」
しゃべる側から蹴りを入れ、獅音は大きな手で流歌の髪の毛を掴んで引きずり起こした。
「やめて欲しかったら、金よこせ!」
「今は……これだけしか……」
布団の近くに放り出してあった鞄から財布を取り出し、五千円差し出す。
「しけてやんな! クソばばぁ!」
五千円を掴むと獅音は流歌に背を向けた。
「獅音……お前学校は?」
「やめた」
「やめたって?」
「面白くもねえからやめたんだ! 文句あんのか? てめえだって中卒だろうが!」
獅音はそのまま荒々しく部屋を出て行った。
残された流歌は悲しそうな顔で獅音を見送った。
流歌と獅音の時間で十年の歳月が流れていた。
獅音は十五歳になり、金髪、入れ墨、学校は行かず、普段はどこで何をしているのかも流歌には分からない。金がなくなった時だけ戻ってきては、流歌に殴る蹴るの暴力をして金目の物を持って行く様な生活をしていた。
流歌は場末の風俗嬢に身を落としていたが、不摂生な生活で肌は荒れ、栄養失調で身体も痩せ細っていた。それでも少しでも金を稼がないと獅音に入院するほどの怪我を負わされる。流歌の知らない間に借金をこしらえ、その取り立てがアパートや仕事先にまで来る時もある。
それを獅音に怒ってみても、暴力で返されるだけだった。
獅音はいつの間にか流歌の背を超え、力も強くなっていた。
それでも流歌は自分は何もしていない、自分が悪いのではない、流歌を捨てて逃げた獅音の父親が悪く、自分を助けてくれなかった両親が悪い、社会が悪いと思っている。
自分で今の境遇から抜けだそうという意志もなく、獅音がぐれたのは獅音が悪く、自分は被害者だと思っていた。
今の流歌には老いた身体を売るしかなく、それが死ぬほど嫌でもそこから抜け出そうとする気は少しもなかった。
獅音の暴力や将来を憂うだけで、それを解決する為にどうすればいいのかと考える事を脳が拒否していた。
脳が考えるのを止めている、という事にすら流歌は気がついていなかった。
これはドゥがよこした夢見の薬毒の夢だ。
流歌は十年後の未来を夢に見ながら、現実だと思い込んでいる。
もう数時間後、流歌は夢の中で獅音になぶり殺される瞬間に夢から覚める。
荒い息で布団から飛び起き、隣にすやすや眠る五歳の獅音を見て夢だったのかと安堵する。
その後、流歌が朝食に食パンの一枚でも焼いて獅音にミルクでも飲ませてやれば、夢に見た未来は姿を変えるかもしれない。
流歌の中に少しでも獅音に対して責任と愛情が生まれれば、二人の未来はもう少しましになるはずだ。
流歌ははっと目覚めて、汗びっしょりの自分の身体を見下ろした。
成長した獅音にバッドで殴られたあげく、アパートの階段から突き落とされた夢だった。
頭から落下し、鉄の階段の手すり、しかも腐食して途中で折れ曲がった手すりに脇腹を貫かれた。ぐはっと血を吐く流歌の頭上から笑い声がする。
見上げると獅音が流歌を指さして笑っていた。
とてつもない痛みと、息苦しさ、流れ出る血と、涙。
流歌は夢を思い出してぞっとした。
暖房もない冷えた寒い部屋で、さらに身体中に鳥肌が立つ。
そのとき、寝ぼけた獅音が暖を求めて流歌の手にしがみついてきた。
「嫌!」
と流歌は獅音の小さな手を振り払った。
「こいつが……こいつさえいなけりゃ……殺されてたまるか……」
細く、柔らかな獅音の首は今の流歌なら十分に締める事が出来た。
「マ……マ……」
驚き、小さな目を見開き、苦しそうに顔を歪めた。
小さな手を必死に流歌の方へ伸ばしながら、獅音は息絶えた。
「やったわ! 勝ったわ! あんたなんかに殺されてたまるもんか! 獅音!」
キャハハハハ、と笑う流歌の背後に黒い影が一つ忍び寄った。
「やはり低脳は低脳」
黒猫ドゥの口はため息とともに、大きく開かれた。
ギザギザの刃のような鋭い歯、口から顔までぱっくりと開き、その奥にはさらに尖ったドリルのような突起物。
それが流歌の顔の上に影を落とした。
流歌がはっと気づいた時には顔の半分が囓り取られていた。
「ギャー!!!」
と叫んだつもりだったが、口も半分無くなっていたので叫んだという意識だけだった。
痛みが流歌の全身をじわじわと襲った。
むき出しになった肉塊と神経をギザギザの突起がガツンガツンと噛み砕いていく。
顔の半分がどろっとした血の塊、肉塊になっても流歌は意識を保っていた。
飛び散る肉塊、つぶれた眼球、むき出しになった白く脆い骨。
流歌の身体の半身だけがドゥの牙に喰らい尽くされていく。
肌は破れ脂肪の固まりとなった乳房、頭髪はずるむけて頭蓋骨を噛み砕く咀嚼音が脳に直接響く。それでも流歌の意識は失う事を許されなかった。
骸にたった一口で喰われた柳瀬はましだった。
喰われた痛みも一瞬だった。
だが獅音を哀れと思うドゥは流歌を許さなかった。
痛い、痛い、と泣き叫びながら、流歌の目は横たわっている獅音の小さな姿をじっと見つめていた。
「しお……ん、たすけ……」
締めて殺した獅音がぴくりとも動かないのは当然だが、流歌は残っている半身の手を獅音の方へ伸ばした。
「やっぱりお前は糞になっちまえ。二度と生まれ変わることもなく未来永劫、鬼の糞だ。優しい鬼なら、人間だった時の意識を少しばかり残してくれるかもな、けっけっけ」
ドゥの言葉を流歌は理解出来るはずもなく、ただ彼女は自分を襲う強烈で残虐な痛みを受け続けるだけだった。
また息子と二人ぼっちになってしまったという事実だけが流歌の頭の中をぐるぐると回っていた。
「ママ、お水」
獅音は水道には手が届かず、部屋の隅に転がっていたペットボトルの水をコップに注いで流歌に差し出し、残りは自分がそのまま口にした。
「ああ……ありがと」
流歌はそのコップの水を一口飲んだ。
晩秋の季節は、部屋の隅に転がしてあるペットボトルの水をよく冷やしてあった。
流歌の喉の渇きが癒やされ、冷たい水が旨く感じた。
ごくごくっと全て飲み干すと、
「ママ、ねんねしよう」
と獅音が言い、万年床の布団を指した。
「そうだね」
流歌は這うようにして布団に入り、すぐに眠りに落ちた。
その流歌の身体に薄い獅音は毛布をかけてやり、握りしめた薬包をゴミ箱に捨てると自分も母親の身体にぴったりと寄り添って目を瞑った。
「痛い!」
顔に衝撃を受けて流歌は目を覚ました。
目を開けると、すぐ側に足があり、遙か上の方から流歌を罵倒する声が降ってきた。
「いつまで寝てやんで! さっさと働きに行けよ! ばばぁ! 殺すぞ!」
え、と思い、流歌は身体を起こした。と同時に身体中がギシギシと痛かった。
夕べの客も酷かったからな、と流歌は思い返し、
「獅音……もう、勘弁してよ、お母さん、少し休みたいんだ」
と言った。
ドカ! と流歌は頭を抱えた。大きな獅音の足が流歌の頭を蹴ったからだ。
「やめて……」
流歌は身体を起こして、大きくなった息子を見上げた。
「やめて、ほんとやめて、お母さん、身体がつらいんだって言ってる……」
しゃべる側から蹴りを入れ、獅音は大きな手で流歌の髪の毛を掴んで引きずり起こした。
「やめて欲しかったら、金よこせ!」
「今は……これだけしか……」
布団の近くに放り出してあった鞄から財布を取り出し、五千円差し出す。
「しけてやんな! クソばばぁ!」
五千円を掴むと獅音は流歌に背を向けた。
「獅音……お前学校は?」
「やめた」
「やめたって?」
「面白くもねえからやめたんだ! 文句あんのか? てめえだって中卒だろうが!」
獅音はそのまま荒々しく部屋を出て行った。
残された流歌は悲しそうな顔で獅音を見送った。
流歌と獅音の時間で十年の歳月が流れていた。
獅音は十五歳になり、金髪、入れ墨、学校は行かず、普段はどこで何をしているのかも流歌には分からない。金がなくなった時だけ戻ってきては、流歌に殴る蹴るの暴力をして金目の物を持って行く様な生活をしていた。
流歌は場末の風俗嬢に身を落としていたが、不摂生な生活で肌は荒れ、栄養失調で身体も痩せ細っていた。それでも少しでも金を稼がないと獅音に入院するほどの怪我を負わされる。流歌の知らない間に借金をこしらえ、その取り立てがアパートや仕事先にまで来る時もある。
それを獅音に怒ってみても、暴力で返されるだけだった。
獅音はいつの間にか流歌の背を超え、力も強くなっていた。
それでも流歌は自分は何もしていない、自分が悪いのではない、流歌を捨てて逃げた獅音の父親が悪く、自分を助けてくれなかった両親が悪い、社会が悪いと思っている。
自分で今の境遇から抜けだそうという意志もなく、獅音がぐれたのは獅音が悪く、自分は被害者だと思っていた。
今の流歌には老いた身体を売るしかなく、それが死ぬほど嫌でもそこから抜け出そうとする気は少しもなかった。
獅音の暴力や将来を憂うだけで、それを解決する為にどうすればいいのかと考える事を脳が拒否していた。
脳が考えるのを止めている、という事にすら流歌は気がついていなかった。
これはドゥがよこした夢見の薬毒の夢だ。
流歌は十年後の未来を夢に見ながら、現実だと思い込んでいる。
もう数時間後、流歌は夢の中で獅音になぶり殺される瞬間に夢から覚める。
荒い息で布団から飛び起き、隣にすやすや眠る五歳の獅音を見て夢だったのかと安堵する。
その後、流歌が朝食に食パンの一枚でも焼いて獅音にミルクでも飲ませてやれば、夢に見た未来は姿を変えるかもしれない。
流歌の中に少しでも獅音に対して責任と愛情が生まれれば、二人の未来はもう少しましになるはずだ。
流歌ははっと目覚めて、汗びっしょりの自分の身体を見下ろした。
成長した獅音にバッドで殴られたあげく、アパートの階段から突き落とされた夢だった。
頭から落下し、鉄の階段の手すり、しかも腐食して途中で折れ曲がった手すりに脇腹を貫かれた。ぐはっと血を吐く流歌の頭上から笑い声がする。
見上げると獅音が流歌を指さして笑っていた。
とてつもない痛みと、息苦しさ、流れ出る血と、涙。
流歌は夢を思い出してぞっとした。
暖房もない冷えた寒い部屋で、さらに身体中に鳥肌が立つ。
そのとき、寝ぼけた獅音が暖を求めて流歌の手にしがみついてきた。
「嫌!」
と流歌は獅音の小さな手を振り払った。
「こいつが……こいつさえいなけりゃ……殺されてたまるか……」
細く、柔らかな獅音の首は今の流歌なら十分に締める事が出来た。
「マ……マ……」
驚き、小さな目を見開き、苦しそうに顔を歪めた。
小さな手を必死に流歌の方へ伸ばしながら、獅音は息絶えた。
「やったわ! 勝ったわ! あんたなんかに殺されてたまるもんか! 獅音!」
キャハハハハ、と笑う流歌の背後に黒い影が一つ忍び寄った。
「やはり低脳は低脳」
黒猫ドゥの口はため息とともに、大きく開かれた。
ギザギザの刃のような鋭い歯、口から顔までぱっくりと開き、その奥にはさらに尖ったドリルのような突起物。
それが流歌の顔の上に影を落とした。
流歌がはっと気づいた時には顔の半分が囓り取られていた。
「ギャー!!!」
と叫んだつもりだったが、口も半分無くなっていたので叫んだという意識だけだった。
痛みが流歌の全身をじわじわと襲った。
むき出しになった肉塊と神経をギザギザの突起がガツンガツンと噛み砕いていく。
顔の半分がどろっとした血の塊、肉塊になっても流歌は意識を保っていた。
飛び散る肉塊、つぶれた眼球、むき出しになった白く脆い骨。
流歌の身体の半身だけがドゥの牙に喰らい尽くされていく。
肌は破れ脂肪の固まりとなった乳房、頭髪はずるむけて頭蓋骨を噛み砕く咀嚼音が脳に直接響く。それでも流歌の意識は失う事を許されなかった。
骸にたった一口で喰われた柳瀬はましだった。
喰われた痛みも一瞬だった。
だが獅音を哀れと思うドゥは流歌を許さなかった。
痛い、痛い、と泣き叫びながら、流歌の目は横たわっている獅音の小さな姿をじっと見つめていた。
「しお……ん、たすけ……」
締めて殺した獅音がぴくりとも動かないのは当然だが、流歌は残っている半身の手を獅音の方へ伸ばした。
「やっぱりお前は糞になっちまえ。二度と生まれ変わることもなく未来永劫、鬼の糞だ。優しい鬼なら、人間だった時の意識を少しばかり残してくれるかもな、けっけっけ」
ドゥの言葉を流歌は理解出来るはずもなく、ただ彼女は自分を襲う強烈で残虐な痛みを受け続けるだけだった。
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