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〜4杯目 ちゅうぶらりんのソルロンタン〜

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 ザーザー。水が絶え間なく降り注ぐ。
 ポタリポタリ。雫がこぼれて落ちる。
 頭からつま先まで相変わらずのびしょ濡れ。
 ――でも、温かい。

 不夜城のような巨大駅と繁華街を抜け出し、30分。
 平安が持ってきた傘一本に入ってお互い半身を濡らしながら、重たい足取りの二人は通常よりもだいぶ時間をかけて歩いていった。
 あったか荘に負けず劣らずな古さのアパートの玄関扉を開くまで、ただの一言も交わさず。

「……おじゃまします」

 ようやく絞り出した詩瑠の言葉に、室内の灯りを点けながら平安は。

「何はともあれ、風呂入ってこい。狭いけど湯も溜めてあるから、しっかり肩まで浸かるんだぞ」
「でもヘイ兄ちゃんも濡れて――」
「俺のことはいいから。何時間でも、気が済むまで浸かってこい。あ、脱いだ服はそのまま青いカゴに入れとけばいいからな」

 そうやって半ば押されるように風呂場に入れさせられたのだった。
 風呂が好きじゃない詩瑠としては正直気が進まない。
 とはいえ拒否や回避する思考もままならない状態。言われた通り裸になり、とりあえずでシャワーを頭から浴びている。
 
 目線はつま先。浸水した靴の中でふにゃふにゃ白くなった指を伝って、水が流れていくのを見つめる。
 しばらく、しばらく、ただ見つめる。
 頭の中はどん詰まりなまま。
 でも、そのままでいると。

「…………ぷはっ」

 それはふとした瞬間。
 排水口に流れた水が「こぽっ」と大きめの音を立てた時。詩瑠は気がつく。

 この水は、温かい。
 ここは息が、できる。
 
「……あ」

 笑みと泣きの混ざった一音が口からこぼれ出て、途端に肩がゆっくりと下がっていく。
 自分では全く気が付かなかったけれど、体はひどく強張っていたらしい。緩んだことで、硬くなっていたことに初めて気がつけた。
 最近では一番緊張していた引っ越しの日でも、きっとこんなに硬くなってなかっただろう。
 
「はー……ふぅ……」

 シャワーを一度止めてから、意識して息を吸う。
 頭の中は散らかったままだけど、やっとひとかけらの「安堵」を感じられた。目の前の鏡に映る自分は、笑えるぐらいブサイクだ。
 同時に。

「わわっ」

 詩瑠の尻がふわっと浮き上がる。慌てて後ろ手に押さえても、時すでに遅し。
 ボリュームタップリ、浴室狭しとたぬきの尻尾が生えてきていた。しかも、だからもふもふだ。

「……別にいいよね。ヘイ兄ちゃんしかいないし」

 押さえていた手を離して、そのまま置いてあるシャンプーボトルへ手を伸ばす。
 プッシュすればふわっと広がる上品な香り。
 さすが本職。きっと高いやつに違いない。液体の触感すら一段上の滑らかさに感じるもん。
 頭の上で泡立ててみれば、その泡立ちがまた良いこと。どこか懐かしい花の匂いが広がるにつれて、一周回って腹が立ってくる。
 何回もプッシュしてしっぽまで洗ってやろうか――とも思うけど、やめた。
 だって、あとで乾かすのが大変。この尻尾、手触りが良い分、水もたっぷり吸うのだ。自分で言うのも何だけど。
 今の自分に絞る元気はないし、ヘイ兄ちゃんにやらせるのは論外。
 うん。だから、湯船はやめておこう。
 仕方ないのだ。せっかくの厚意だけど。

 そうやって詩瑠は心の中でたっぷり言い訳をして、浴槽を見ないふりをしたのだった。
 尻尾が極力濡れないように頭と体の泡を流し、もう一回ふぅっと息を吐いてから、詩瑠は浴室を出ていった。
 気持ちも、足取りも、息遣いも。少しだけ軽くなった気がする。

 ありがとう、ヘイ兄ちゃん。
 綺麗に畳まれたバスタオルを手に取り、文字通り拭き取る。そして、ブカブカのTシャツを着込む。
 サイズが合ってないのに、不思議な安心感。温かい。

 きっと彼も濡れて寒がっているだろう。次は彼に温まってもらおう。
 わずかに余裕が生まれた頭でそんなことを考えながら部屋に戻る、と。

「ヘイ兄ちゃん、上がったよ。次どうぞ……あれ?」

 自分を纏う柔らかい花の香りを通り抜けて。
 別の匂いが詩瑠の鼻をくすぐった。
 大部分は力強い獣のような匂い、少しだけ混ざる薬草の匂い。
 なんだろう、この本能を刺激するような、この匂いは。

 思わず足が引き寄せられる。

「ゴクリ」

 勝手に喉が鳴る。

「……ヘイ、兄、ちゃん」

 背を向ける彼の肩に触れて――。

「……うっわぁ!」

 平安が驚き、浮き上がりながら振り向く。
 その手には……おたまが握られていた。

「びっくりした! ……っと、スマンスマン。もっと時間かかると思って、イヤホンしながら料理してたわ」
 
 言葉通り平安はイヤホンをその耳から外し、体を避けて鍋を見せた。
 ふつふつふつ、小さく泡立ちながら薄白色の水面が揺れている。
 間違いない。先ほどの惹かれる香りの源はコレだ。

「腹減ってないかもしれないけど、体の中からあったまると良いと思って。……てかお前その尻尾、湯船入ってないだろ?」
「うぐ……」

 半目の平安に、図星を突かれた詩瑠は一歩下がるしかない。
 が、すぐに平安は苦笑して詩瑠の肩を叩いてやる。
 ――よかった。少しだけ表情を取り戻しているじゃないか、と。

「まぁ別に入りたくなきゃ良いよ。俺はお前の親じゃないんだからさ」
「……うん」
「でもそれより、まずは!」

 そう言って、肩をぐいぐい押す平安。
 押されるまま詩瑠は部屋を進んで、体はベッドへ。尻もちをつく勢いで座らされる。

「もう我慢できない」
「なに、を」
「ずっと気になってしょうがなかったんだ。駅で見てからもう……ずっと」
「ヘイ、兄ちゃ」

 詩瑠は思わずぎゅっと目を瞑る。
 その前で平安が姿勢を落とす。
 ミシ、とベッドが小さく軋む。
 彼の温かくて大きな手が、柿渋色の髪に優しく触れて――。

「お前、いつもどんっだけテキトーなブローしてんだ! ボサボサじゃねぇか! 俺がせっかく綺麗に切ってやって、ケアも教えただろ! 今日は徹底的にプロの技で乾かしてやるからな! 動くんじゃねぇぞ!」
「は、はいぃぃ」

 少女のか弱い声は、ドライヤーの風音ですぐに聞こえなくなった。
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