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第六章 境界線にて

7・死ぬまで生きなくてはならないという絶望を煮詰めたような

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 北寺に連れられ裏庭へ回ると小さな畑があった。律歌はほとんど入ることはないが、北寺はちょくちょく世話をしているようだ。ミニトマト、トマト、キュウリ、ジャガイモ、カブ。
「天蔵から野菜を買うごとに、種をここへ植えているんだ。んでね、不思議なくらいよく育つんだよ。けっこう楽しい」
 ハマるよ、と教えてくれる。
「不思議なくらい良く育つ?」
 律歌は首を傾げた。
「うん。すくすくと」
 子供のころ、学童保育で育った律歌は、野菜を育てる機会が多かった。だが、どれも綺麗な形になるのはなかなか難しく、農家の人はどうしてあんなに上手に育てられるのか不思議だった。
「北寺さん、栽培とかも得意なの?」
「いや、苦手だったよ。でも、ここは期待通りに立派な実がなってくれるんだ。嬉しくなっちゃう。あ、気候と照らし合わせて、種蒔き時期はちゃんとみないといけないけどね。そうしないと芽が出ないから」
 なんだかゲームを楽しむかのようにそう付け足す。
「ねえ、これって、物理的現象じゃないんじゃない?」
「え?」
「さっきやけどしなかったときも思ったんだけど、部分部分で物理原則を無視してる気がする」
「まあ、そう言われてみると……」
 二人、じっと畑を見つめる。実が大きくなったもの、まだ青いもの、段階は様々だが、同じくらいの大きさの実を比較してみると、
「これ、見て。まったく同じ形をしてるわ。こんなことある?」
 同じ曲がり方をしたキュウリが、三本つり下がっている。角度、大きさ、色味。どれをとっても、まったく同じ。それこそ、コピー&ペーストしたように。律歌はまだ青いトマトを一つ手に取ると、「ごめん」と一言もぎ取る。そしてがぶっとかじりつく。
「ん!!」
 かじりかけのそれを、北寺に差し出す。
「バグを見つけちゃった」
 それはどんな味がするかと思えば、完熟トマトと同じ味。こんな青いトマトなのに? 原子通りなら、もっとうーんと苦い味がするはずだ。北寺も受け取ってかじり、目を見開いている。
「おかしい……」
「ええ」
 律歌は頷きながら、仮説を立てる。
「味覚は、原子シミュレーションで実行されているわけじゃないんじゃないかしら」
「それは……どういうこと? りっか」
 青いトマトの残りをおいしく食べた北寺は、じっと耳を傾ける。
「味覚、というか、生体って、原子データでシミュレートなんかできるものなのかしら? って思ったのよ。」
 原子スキャン、というが、水(H2О)をスキャンするのと、細胞、遺伝子情報まで人体をスキャンするのでは情報量が違う。しかも、中途半端にスキャンするだけでは、神秘に満ちた「生命」など成り立たない。そのために、対象によって、再現方法を使い分けているのではないかと律歌は思った。原子スキャンで再現できるものと、別の方法で再現するもの。たとえば脳内に電子データを送ることで味覚を再現する、とか。
「おそらく、口に入れた瞬間から、原子シミュレーションは味覚再現に切り替わる。生き物の成長までを原子単位でシミュレートするには量子コンピュータといえどもメモリが足りないのよ。だから、口の中に入れたと判定した時点から、原子なんて概念は無くなって、私の元の脳にトマトリゾットの味覚データを送り込んでいるだけ。さっき、やけどをしなかったのは、高温調理されたもので口の中をやけどする演出が用意されていなかったからね。食べても満腹感データが送られるだけで、この世界での私や北寺さんの肉体内には原子シミュレーションは実装されていないんだわ」
 それがなぜかと言えば、きっと原子シミュレートの限界があるからだ。
「生物の成長までは、シミュレートできない。でもそれじゃ、味気ないでしょ? だから、人が欲しがりそうなものは一通り、原子なんて無関係のミニゲームとして、単独で用意されているのよ! 種を植えて育てる、とかね」
 仮想空間創造主が我々住民に与えし、娯楽の一つとして。ただし、誤混入していたうずらの有精卵を孵らせるなどという逸脱行為は、ミニゲームとしてプログラムされていない。それはただの原子シミュレートの限界値で可能な限り再現されるだけだ。
「つまり、残念だけど北寺さん、うずらの卵は孵らない。生命体の分子構造と反応の再現までは処理できないと思うの。あれは、この世界の神様が用意したキャラクターじゃないから。元の現実世界にあった卵を、量子コンピュータの限界値でスキャンした結果の産物。原子シミュレートの限界。複雑すぎる分子構造の反応を、心臓が動くところまで、よくシミュレートできたと思う。でも、おそらくその辺が限界ね。所詮この世界の創造主は人間でしかない。私達人間そのものを造った本物の神には遠く及ばないわ。生命誕生の奇跡を再現するには、シミュレート精度が粗すぎるの」
 人間に用意された情報処理の中で生きているに過ぎない。良くも悪くも。「悪い」ものが排除された代わりに、「良さ」には限界が設けられている。そのことに気付いてしまった。
 さあ、満足してください、と用意されたものをなぞる楽しみから、自転車を走らせて北の果てまで冒険したり、基地局を作ったり、それから、気球に乗って調査をしたり、そして、こんな風に謎を解き明かしている今の楽しさは、終わりを迎えようとしている。
「仮想空間? ねえ、出ましょう、北寺さん! たかだか人間が神様で、人間の作った世界よこんなの。原子シミュレートの限界まであって、卵さえ孵らない。ってことは、子供だって生まれないじゃない。なんでこんな風に、わざわざ単純化されなくちゃいけないのよ。もっと精密で自由な世界が向こうにあるっていうのに。こんなところ、つまらないわ」
「いや、そんなことはないよりっか」
 おびえたような、疲れたような目で、北寺は強い口調で否定する。
「この外に、どんな現実が待ち受けているかを知らないから、そんな風に言えるんだ」
 彼からにじみ出ている深刻さに、律歌は押し黙るしかなかった。
「現実世界は、そんなに楽しいものじゃない。酷いもんだ。あんなところ、好き好んでいく人はいないよ。この仮想空間だって、現実世界があんな風になってしまったから、逃げ場としてきっと開発を進められている。これほどの仮想現実、国を挙げたプロジェクトでなきゃ実現しないはずだからね。幸運なんだよおれたちは……っ! 真っ先にここに来ることができて! たぶん、おれなんか本来こんな風に入れてもらえるような身分じゃないのに……」
 心底厭気がさしている、彼のそんな顔、律歌はこれまで見たことがなかった。
「おれは知ってる。一度コースアウトした者が、どんな人生を送るのかを」
 ラジコンを改造しているときに少しだけ聞かせてもらった、北寺の半生。
「平成時代くらい昔から、 “社畜 ”って俗語があるけど、まさしくね、家畜だよ。一定ライン以下の人間は、上層部のために消費されるだけの家畜。人工知能に管理され、二十四時間働いても、労働力が満たない者は生きることも許されない。他にいくらでも替えはいるから。派遣会社から派遣された先で、毎日毎日必死に働き続けなくちゃ生活費なんて足りないし、働き方を間違えたら病気になってそれでおしまい。おかしくなっちゃったんだ日本は。過労が問題視されていた二十年前の比じゃない。今は、精神的な病気にならない方が稀な時代だ。ロボットが人間よりずっと効率よく仕事をするから、人件費はすごく安くなって、ストレス耐性の高い、精神力の強い人だけが生き残ることができる。そういう人だけがそもそも子供を産む余裕を持てる。そうして少子化は歯止めが利かなくなっている。……でもおそらく使えない人種を減らすつもりなんだと思う。これもある種、自然淘汰だ」
 死に向かって生きていくのが人生としても、そこには生きている喜びが存在する。だが彼のその表情には、死ぬまで生きなくてはならないという絶望を煮詰めたような、より濃い死が浮かんでいた。
「……そんなことってある?」
 まさか、自分の両親よりもさらに過酷な労働社会になっているというのだろうか?
「まあ……うん。そうなんだよ。そう、なっちゃったんだよ」
 北寺は、そこで話を止めた。
「わかっただろう? りっか。だから、おれたちがここにこうして入れてもらえているのは、幸運なことなんだよ。このまま、ここで暮らそう。それがいいと思う」
 この見せかけの世界から目覚めれば、人工知能に使役される家畜のような労働者になるのか? ここが仮想空間だとして、現実の世界が別にあるとして、そしてその現実の世界が、悲惨な世界だとしたら?
 それでもここを、出る……べきなのだろうか。
 北寺は、この安全で気楽な世界にずっといるべきだという。夢の国にずっといてもいいと言われているのだから、出るべきではないのだと。
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