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第六章 境界線にて
6・知りたいけど、怖いよ。
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重くなった空気を換えるように、北寺は手をパチンと叩いた。
「はい、続きはリゾット食べた後にしようか。もうすぐできるから、ちょっと待ってて」
――それが北寺の判断のようだ。
「続きは――?」
「いや、ごめん。今日はやっぱりここまでにしない? あんまり一気に過去を聞くのって、なんだかよくない気がする」
そして北寺は、はっきりそう言って打ち切ろうとするのだった。
自分の開発したものとはいったいどのようなものだったのかとか、質問したいことは山のようにある。だがちゃんと向き合って聞くと律歌が宣言しても、北寺に却下されるほど、それは痛いことなのだと、言外に教えられた。そして、それを裏付けるように、中断しようと言われた途端に頭痛が引いていくのが分かった。
「はいおまちどお」
目の前に差し出された赤いトマトリゾット。みじん切りにしたパセリもちゃんと浮いていて、見た目もいい。さらに仕上げにササッと粉チーズを振りかけられる。
「おいしそう、ね……」
「だねー」
言葉とは裏腹に、食欲は湧かなかった。隠されている自分の過去の核心にはいったい何があるのだろう。何が待ち受けるのだろうか。でも、聞く勇気がしぼんでくる。
「そ、そのリゾット、トマトとお米と水で作っているのよね?」
律歌は恐怖心を紛らわせるように、そう水を向ける。北寺は大きく頷いた。
「そうだよ。あ、大きいトマトもついに自家製だよ!」
話題を変えたいと顔に書いてある。律歌も、それに乗っかってしまう。
「原子スキャンでそこに存在しているのよね?」
「そうだと思う。実際のトマトをスキャンして分子構造を読み取り、その構成分子をここで原子データを使って再現している。で、そのトマトをおれが包丁で切って、水と米と一緒に鍋に入れて、加熱した」
そう、水も米も原子データなのだろう。火力に合わせた温度変化も、データとして反映しているのだ。そう。うん。……ようやく少しお腹が減ってきた。外の世界での自分の過去の話を意図的にシャットアウトして、仮想世界の原子理論のことなんかを考えれば考えるほど、酸味のきいたトマトの香りと、粥がぐつぐつと煮立つ音が、空腹を刺激した。さあ、今のうちに食べてしまおう。「いただきます!」やけどしても構わない勢いで、ぐつぐつと沸き立っている器に木匙を挿し入れ、急いで口へと運んだ。入れる瞬間、あまりの熱さを予感し少し後悔したが、もう遅かった。勢いがよすぎた。今更口の中から戻すのもばつが悪い。えいやっと呑み込んでしまおうとする。
だが、
「あむ……あむむ」
「だ、大丈夫? りっか、すごい勢いだったけど……ほら、出しな」
目の前には、いまだにぐつぐつ煮えたぎるリゾットがあり、経験上、皮がべろんと剥がれても何らおかしくはないほどの熱さのはずで。しかし、
「ん、お、おいしい……うん……おい……しい」
熱いは熱いが、やけどまでしなかった。食べられる限界の熱さ。
「食べられるわよ。普通に」
「そう?」
とてもそうは思えないというような顔で、北寺もあつあつのトマトリゾットを口に運ぶ。しかし、
「ん……あふ、あ、ほんとだ。わりといけるな」
「でしょ?」
これは決して負けず嫌いの律歌のやせ我慢というわけではなかった。
北寺は、沸騰する粥をもう一度口に入れてみたりして確かめる。
「やっぱり適温だね。熱いは熱いけど、やけどまではしない。システム上、やけどしないようになってるのかな? 口に入れると適温だ。触るとどうだろう」
行儀悪くも、北寺は湯気を立てているリゾットの中に指を突っ込む。
「うわー! あちちちあち、あっつー!」
彼は目を見開き指を引くと、大慌てで流しへ駆け込み、冷水で冷やした。指が赤く染まっている。
「ひゃー。やけどやけど。もっとちょびっとにしておけばよかった……油断した……。やっぱ熱いじゃん……」
口の中は平気なのに?
「……なんかそれって、物理原則に反してない?」
「そうだね。うーん……?」
顎に手をやって考え込む。
「いろいろ検証してみる必要がありそうね」
律歌は椅子から立ち上がり言った。
「ちょっと北寺さん、その包丁で指を切り落としてみてくれる?」
「いやだよ! そこまでは試せないよ!」
「冗談よ」
律歌も痛いのは苦手だ。ふふっと少し笑うと元気が出てきたので、そのまま空元気をキープすることにした。それにしても、やはり原子から再現されているとするなら、口の中だけやけどしない、というのはおかしい。席に戻る北寺に、どういうことか意見を求める。
「人体内だけ特別仕様なんじゃない?」
人間による人間のための仮想空間なら、そういうこともあるのだろうか。それじゃあ、人間以外は?
「そういえば、うずらの卵はどうなの? ヒナ孵った?」
北寺が大事に温めていて、律歌も前に転卵をさせてもらったあの卵は、今一体どうなっているのだろうと思い、律歌が尋ねると、
「ああ、まだやってるんだけどね」
北寺はそう言いながら、奥の部屋に行って孵化箱を取ってくる。
「もう生まれてもいいころなんだけどさ」
律歌も箱を覗き込む。そこにはまだ、物言わぬ卵が並んでいた。指で触れると、ちゃんと温かい。
「心臓はちゃんと動いているんだよ。それなのにね、出てこないんだ」
これも、原子スキャンによる原子データなのだろうか。
「ここが仮想空間だとしたら……」
律歌は初めてロボットを作った日のことを思い返した。センサー、モーター、バッテリー、そしてマイクロコンピュータと、繋ぎ合わせていって、期待したとおりに動いてくれたときは、涙が出るほど感動した。
「生命はどうなってるの?」
原子スキャンで卵をコピーし、この仮想空間内に再現したとしたら、それを温めれば原子データ通りに生まれてくるのだろうか。生まれてきたそれは、いったいなんなのだろう? 生き物なのか? 原子データのシミュレーションにより再現された動く物体なのか?
「この卵の中で、うずらは生きているのかな」
答えは返ってこない。少なくとも温かいので、死んではいないだろう。いや、疑問を抱くべきは生きているのか死んでいるかではない。この卵の中に、果たして生命は誕生しているのか否か。いや……生命? 生命ってなんだ? その定義は?
「待って。ちょっと考えさせて……、あれ?」
律歌は頭の中が混乱してきた。理科の授業で習ったことを思い出す。生物と化学。
「原子スキャン原子スキャンって言うけど、原子っていうのはつまりあれでしょ? 物質の最小単位よね? 物体を小さく分けていって、もうこれ以上小さく分けられません、というところまで分けたときの小さな粒一個のことよね?」
「そうだね」
高校で習う範囲が含まれる気もするが、その辺りの記憶は問題なく蘇ってくれた。
「じゃ、私の体も原子でできているのよね?」
「そのはずだけど」
大人一人分として計算した場合の人体の構成成分を、水何リットル、炭素何キロ、リン何グラム、塩分とか、硫黄とか、それからその他少量のいくつかの元素、なんて、人体を生き返らせる錬金術師を描いた漫画で、昔読んだ気がする。
「この卵も」
「うん」
「原子という小さな粒一個一個の動きを、コンピュータ上でシミュレートして、その計算結果を感覚信号に変換して、私の実際の脳へ送り込んでいるのね?」
「その通りだと思うよ。Ⅰ通なら格段に性能のいい量子コンピュータの一つや二つ持っていて当然だし」
北寺に律歌は頷く。
「……それで生命まで完全に再現できるものなのかしら」
「生命って言ったって、おれたちの体だってDNAの塩基配列に基づいた分子構造で成り立っているに過ぎない」
細胞一つ一つに律歌なら律歌の、北寺なら北寺の体の設計図(すなわちDNA)があり、その設計図のおかげで細胞一つ一つが人体のうちのどの部分を構成するのかを迷うことなく認識して、「型崩れすることのない一つの人体」となってくれている。
「でも、この水一滴と、私の体に流れる血液一滴では、原子の情報量も違うでしょう? ほら、水一滴には水素原子と酸素原子がくっついた分子がただただ順番に並んでいるだけだけれど、私の血液一滴には、DNAの塩基配列を始めとした私個人だけの情報がたっぷり詰まってる」
「まあそうだけど、そんなこと言ったらトマトのDNA量なんて人間よりもっと多いよ」
「そうなの?」
北寺に言われ、目の前の赤い具を見つめる。このトマトが? 人間としてなんかくやしい。
「ま、量だけだけどね」
だとすれば気になることがある。原子データのシミュレーションがされているというが、コピー&ペーストされた植物のように、容量を軽くしたりもしていた。ずいぶんとカツカツな容量だなとも思った。
「前に、ミニトマトを育てたじゃない? あれ、見に行きたい」
「いいけど、今から?」
「うん」
「はい、続きはリゾット食べた後にしようか。もうすぐできるから、ちょっと待ってて」
――それが北寺の判断のようだ。
「続きは――?」
「いや、ごめん。今日はやっぱりここまでにしない? あんまり一気に過去を聞くのって、なんだかよくない気がする」
そして北寺は、はっきりそう言って打ち切ろうとするのだった。
自分の開発したものとはいったいどのようなものだったのかとか、質問したいことは山のようにある。だがちゃんと向き合って聞くと律歌が宣言しても、北寺に却下されるほど、それは痛いことなのだと、言外に教えられた。そして、それを裏付けるように、中断しようと言われた途端に頭痛が引いていくのが分かった。
「はいおまちどお」
目の前に差し出された赤いトマトリゾット。みじん切りにしたパセリもちゃんと浮いていて、見た目もいい。さらに仕上げにササッと粉チーズを振りかけられる。
「おいしそう、ね……」
「だねー」
言葉とは裏腹に、食欲は湧かなかった。隠されている自分の過去の核心にはいったい何があるのだろう。何が待ち受けるのだろうか。でも、聞く勇気がしぼんでくる。
「そ、そのリゾット、トマトとお米と水で作っているのよね?」
律歌は恐怖心を紛らわせるように、そう水を向ける。北寺は大きく頷いた。
「そうだよ。あ、大きいトマトもついに自家製だよ!」
話題を変えたいと顔に書いてある。律歌も、それに乗っかってしまう。
「原子スキャンでそこに存在しているのよね?」
「そうだと思う。実際のトマトをスキャンして分子構造を読み取り、その構成分子をここで原子データを使って再現している。で、そのトマトをおれが包丁で切って、水と米と一緒に鍋に入れて、加熱した」
そう、水も米も原子データなのだろう。火力に合わせた温度変化も、データとして反映しているのだ。そう。うん。……ようやく少しお腹が減ってきた。外の世界での自分の過去の話を意図的にシャットアウトして、仮想世界の原子理論のことなんかを考えれば考えるほど、酸味のきいたトマトの香りと、粥がぐつぐつと煮立つ音が、空腹を刺激した。さあ、今のうちに食べてしまおう。「いただきます!」やけどしても構わない勢いで、ぐつぐつと沸き立っている器に木匙を挿し入れ、急いで口へと運んだ。入れる瞬間、あまりの熱さを予感し少し後悔したが、もう遅かった。勢いがよすぎた。今更口の中から戻すのもばつが悪い。えいやっと呑み込んでしまおうとする。
だが、
「あむ……あむむ」
「だ、大丈夫? りっか、すごい勢いだったけど……ほら、出しな」
目の前には、いまだにぐつぐつ煮えたぎるリゾットがあり、経験上、皮がべろんと剥がれても何らおかしくはないほどの熱さのはずで。しかし、
「ん、お、おいしい……うん……おい……しい」
熱いは熱いが、やけどまでしなかった。食べられる限界の熱さ。
「食べられるわよ。普通に」
「そう?」
とてもそうは思えないというような顔で、北寺もあつあつのトマトリゾットを口に運ぶ。しかし、
「ん……あふ、あ、ほんとだ。わりといけるな」
「でしょ?」
これは決して負けず嫌いの律歌のやせ我慢というわけではなかった。
北寺は、沸騰する粥をもう一度口に入れてみたりして確かめる。
「やっぱり適温だね。熱いは熱いけど、やけどまではしない。システム上、やけどしないようになってるのかな? 口に入れると適温だ。触るとどうだろう」
行儀悪くも、北寺は湯気を立てているリゾットの中に指を突っ込む。
「うわー! あちちちあち、あっつー!」
彼は目を見開き指を引くと、大慌てで流しへ駆け込み、冷水で冷やした。指が赤く染まっている。
「ひゃー。やけどやけど。もっとちょびっとにしておけばよかった……油断した……。やっぱ熱いじゃん……」
口の中は平気なのに?
「……なんかそれって、物理原則に反してない?」
「そうだね。うーん……?」
顎に手をやって考え込む。
「いろいろ検証してみる必要がありそうね」
律歌は椅子から立ち上がり言った。
「ちょっと北寺さん、その包丁で指を切り落としてみてくれる?」
「いやだよ! そこまでは試せないよ!」
「冗談よ」
律歌も痛いのは苦手だ。ふふっと少し笑うと元気が出てきたので、そのまま空元気をキープすることにした。それにしても、やはり原子から再現されているとするなら、口の中だけやけどしない、というのはおかしい。席に戻る北寺に、どういうことか意見を求める。
「人体内だけ特別仕様なんじゃない?」
人間による人間のための仮想空間なら、そういうこともあるのだろうか。それじゃあ、人間以外は?
「そういえば、うずらの卵はどうなの? ヒナ孵った?」
北寺が大事に温めていて、律歌も前に転卵をさせてもらったあの卵は、今一体どうなっているのだろうと思い、律歌が尋ねると、
「ああ、まだやってるんだけどね」
北寺はそう言いながら、奥の部屋に行って孵化箱を取ってくる。
「もう生まれてもいいころなんだけどさ」
律歌も箱を覗き込む。そこにはまだ、物言わぬ卵が並んでいた。指で触れると、ちゃんと温かい。
「心臓はちゃんと動いているんだよ。それなのにね、出てこないんだ」
これも、原子スキャンによる原子データなのだろうか。
「ここが仮想空間だとしたら……」
律歌は初めてロボットを作った日のことを思い返した。センサー、モーター、バッテリー、そしてマイクロコンピュータと、繋ぎ合わせていって、期待したとおりに動いてくれたときは、涙が出るほど感動した。
「生命はどうなってるの?」
原子スキャンで卵をコピーし、この仮想空間内に再現したとしたら、それを温めれば原子データ通りに生まれてくるのだろうか。生まれてきたそれは、いったいなんなのだろう? 生き物なのか? 原子データのシミュレーションにより再現された動く物体なのか?
「この卵の中で、うずらは生きているのかな」
答えは返ってこない。少なくとも温かいので、死んではいないだろう。いや、疑問を抱くべきは生きているのか死んでいるかではない。この卵の中に、果たして生命は誕生しているのか否か。いや……生命? 生命ってなんだ? その定義は?
「待って。ちょっと考えさせて……、あれ?」
律歌は頭の中が混乱してきた。理科の授業で習ったことを思い出す。生物と化学。
「原子スキャン原子スキャンって言うけど、原子っていうのはつまりあれでしょ? 物質の最小単位よね? 物体を小さく分けていって、もうこれ以上小さく分けられません、というところまで分けたときの小さな粒一個のことよね?」
「そうだね」
高校で習う範囲が含まれる気もするが、その辺りの記憶は問題なく蘇ってくれた。
「じゃ、私の体も原子でできているのよね?」
「そのはずだけど」
大人一人分として計算した場合の人体の構成成分を、水何リットル、炭素何キロ、リン何グラム、塩分とか、硫黄とか、それからその他少量のいくつかの元素、なんて、人体を生き返らせる錬金術師を描いた漫画で、昔読んだ気がする。
「この卵も」
「うん」
「原子という小さな粒一個一個の動きを、コンピュータ上でシミュレートして、その計算結果を感覚信号に変換して、私の実際の脳へ送り込んでいるのね?」
「その通りだと思うよ。Ⅰ通なら格段に性能のいい量子コンピュータの一つや二つ持っていて当然だし」
北寺に律歌は頷く。
「……それで生命まで完全に再現できるものなのかしら」
「生命って言ったって、おれたちの体だってDNAの塩基配列に基づいた分子構造で成り立っているに過ぎない」
細胞一つ一つに律歌なら律歌の、北寺なら北寺の体の設計図(すなわちDNA)があり、その設計図のおかげで細胞一つ一つが人体のうちのどの部分を構成するのかを迷うことなく認識して、「型崩れすることのない一つの人体」となってくれている。
「でも、この水一滴と、私の体に流れる血液一滴では、原子の情報量も違うでしょう? ほら、水一滴には水素原子と酸素原子がくっついた分子がただただ順番に並んでいるだけだけれど、私の血液一滴には、DNAの塩基配列を始めとした私個人だけの情報がたっぷり詰まってる」
「まあそうだけど、そんなこと言ったらトマトのDNA量なんて人間よりもっと多いよ」
「そうなの?」
北寺に言われ、目の前の赤い具を見つめる。このトマトが? 人間としてなんかくやしい。
「ま、量だけだけどね」
だとすれば気になることがある。原子データのシミュレーションがされているというが、コピー&ペーストされた植物のように、容量を軽くしたりもしていた。ずいぶんとカツカツな容量だなとも思った。
「前に、ミニトマトを育てたじゃない? あれ、見に行きたい」
「いいけど、今から?」
「うん」
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