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第六章 境界線にて

4・声を上げる力さえ奪われた弱者の味方

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 家で話そう、と言われ黙々と歩き続けた。五分ほどで到着した。北寺が香りのいいお茶を用意してくれた。温かいご飯もこれから作ってくれるという。律歌はテーブルについて、じっと待った。
 北寺はエプロンをかけると、キッチンに立った。
「……りっかはね、SIerエスアイアーだったんだよ」
 トン、トンと、包丁がまな板をたたく音と共に、北寺は静かにそう言った。律歌はその単語に聞き覚えがあるような気がして、口に出して発音してみた。
「え、えすあい……あー? なんだっけそれ?」
 カタカナ日本語? それとも英語? 聞いたことあるような、やっぱりないような。なんだっけ? 集中して思い出そうとすると、瞬間、耐えがたい頭痛が起きた。
「い、痛い!! いたた……」
「大丈夫?」はっとしたように北寺は炊事を中断して律歌の元へ駆け寄り、顔を覗き込む。「この話は、律歌の負荷になるんだろうか? まずいな」
 だが、
「構わないわ!! 続けてよ……」
「じゃあ、無理だったら言ってね」
 律歌は頭を揺らさぬよう注意しながら頷いた。北寺はキッチンに戻ると、カウンター越しにこちらを窺いながら続きを話す。
「SIerは、システムインテグレータの略語。I通もシステムインテグレータの会社だよ。最大手のね。ITの業種だけど、一般にはあんまりなじみがないと思う。建設業界でいえば、ゼネコンみたいなもんだね」
「ゼネコン?」
 そう言われてもまだよくわからない。ゼネコンだって名前くらいしか聞いたことのない業種だ。
「んー。わかりやすいから建築の喩えをもう少しするとね、そうだなあ。たとえばさ、レインボーブリッジってあるじゃん?」
「東京にある、白くて大きい橋のこと?」
「そそ。そのレインボーブリッジを作ったのって、誰だと思う?」
「知らないわ。東京都知事の誰かとか?」
「まあ、都知事も関係してるね。でも、知事が作ると言ったって、実際に知事がヘルメットかぶって一人でトンカチで釘打って橋を架けるわけじゃないだろう?」
 謎かけのようなことを返された。
「そりゃそうね。大工さんとか雇って、何日もかけていっぱい工事するんじゃない? お金も、何億とかけて」
「その通り。でも、知事が橋を架けますと言って、日本中の大工が集結するだけではまだ橋はつくれない。誰が何をするか、いつやるかも決めないといけないし。だから知事は大工一人一人に依頼するんじゃなく、大手のゼネコンに一括で発注するんだよ。 “ここに橋を架けろ ”ってね。そこからは依頼を受けたゼネコンが、その注文を実現するために建築デザイナーにデザインを依頼したり、地主と折衝したり、大工を大量にかき集めてスケジュール管理をしたりして、最初から最後まで責任もってその大仕事を完遂させる。だからどんなに大きな橋でも、建物でも、企画倒れになるなんてことはなく、きちんと実現するんだ。どんな大仕事も実現させる、それが大手ゼネコンの社会的役割だね」
「へえー、そうなの」
「うん。そしてそれはIT業界でも同じなんだよ。建築で言うゼネコンを、IT業界ではシステムインテグレータ、通称SIerエスアイアーと呼ぶんだ」
 それこそが、律歌が以前していた仕事だと北寺は言う。SIer最大手、ICHIJO通信株式会社にて。北寺はカウンターに置いたお茶を一口、口に含むと、
「律歌はね、労働者を守るために上に立つことを選んだんだ。SIerとして地道に生きていたよ」
 きっちりと仕様を決めて、適切な負荷ロードになるようスケジュール管理をし、質を保って過重労働デスマーチは起こさない。SIerとしての評価は概ね高かったと北寺は律歌に語ってくれた。
 労働が人からロボットへと移行しているまさに過渡期で、あらゆるものが電子の力に置き換えられていく――IT業界はもはやIT帝国と呼ぶにふさわしい時代だったという。ITゼネコンとして頂点に君臨するエリートが、これまで築き上げてきた高度文明の元、人の情を排した人工知能を携えて、PGプログラマーを奴隷のように、いや部品のように消費して、さらなる便利を作っていく――そんな帝国。便利さは、それを享受することもなく過労死していくPGのためではない。人一人の価値が暴落した世界。律歌は、声を上げる力さえ奪われた弱い人の側に立てる、良きSIerになろうとしていたのだと。
「そうなんだ……。私の両親、二人ともPGで、過労死してるもの。私がそう言うのは、納得いくわね」
 先ほどから続く頭の痛みが、少し和らいだ気がする。
「うん。働いていたころね、りっかもそう言ってたよ」
 律歌には幼いころ、手に入らなかったものがあった。
 時間いっぱいまで学童保育に入れられていて、家に帰って一人でご飯を食べて、見たいテレビも終わって十時を過ぎてもまだ一人だったあの頃。そうした子供はたくさんいたし、学童も楽しかったけれど……寝る間際、眠りにつくまでに、お父さんかお母さん、どちらかが布団に入ってくれたら、幸せな気持ちで夢の中に入っていけた。この仕事を辞めたら生きていけないからって言うから、ずっと我慢していた。自分にも何かできないだろうかって、考えながら。
「もっと、甘えたかったから」
 もう叶うことのない願い。
「両親がね、口癖のように「ごめんね律歌。お父さんとお母さんは、お仕事があるから、おうちに帰れないんだよ」って、言うの。家には、飽きもせずおんなじことしかしゃべんないポンコツ子守りロボットしかいなくって。私が、「お父さんとお母さんのお仕事、アンタが代わりにやってきなさいよ」って言うと、「働かざるもの食うべからず」だって、知った風に繰り返すのよ」
「ふうん」
「でも、ロボットが働けばいいのに、って小学生のころから思ってた。わりと真剣に」
 律歌は古い記憶と、ここへ来る直前の知らない自分が、ちゃんと繋がったような気がした。
「それで、中学生になると、独学でコンピュータの勉強を始めたわ。どっから手を付けたらいいのかよくわからなくて、プログラミングを学んでみたり、電子回路にチャレンジしたり、ラジオ作ってみたり。手当たり次第ぶつかって、暗中模索って感じ」
 人に代わって働くロボットを作るため、とにかく学び続けた。興味がわいたことから片っ端に。知的好奇心のままに触れていくことは楽しくて、時間が経つのを忘れた。
「人間がロボットを作るってね、神様が人を作るのに似ているの。ロマンを感じない?」
 バッテリーがごはんで、センサーが目や耳などの感覚器官、フレームが骨格、モーターが筋肉で、マイクロコンピュータが脳みそ。
「そうだね。そう言われてみると、うん、壮大だよね。ロマンだね」
 北寺は目を細めた。その温い共感に甘えてしまいそうになる弱い自分の本能を断ち切って律歌は叫ぶ。
「でも本当はロマンなんて感じている場合じゃなかったの!」
「うん?」
 立ち上がり、目を丸くする北寺の前に出る。
「お母さんが過労で死んじゃって、ほとんど同じころにお父さんまで精神的におかしくなってきちゃって、ああ、このままじゃだめ、私は何を楽しんで遊んでいたんだろう、ってはっとしたの。娯楽がほしかったわけじゃないのに。ロマンなんて感じている場合じゃない、結果を出さなきゃだめだ、って……。だって私は本気で、ロボットに仕事を肩代わりさせようと思っていたのよ。夢を見ているんじゃなくて、現実にそうしてみせようと思っていたの。お父さんもお母さんも、ついでに日本国民全員の分も、ぜーんぶ。それなのに、自分はいったい何をちんたらやっていたんだろう、そんなんだからお母さんとうとう死んじゃったじゃないの!!」
 胸の内にあふれ出る自己嫌悪と絶望感が言葉になって止まらない。
「落ち着いて、りっか」
 心配そうな北寺の声に、律歌は呼吸を整えて、椅子に座りなおす。北寺が、なだめるように、
「だって……りっかはその時まだ中学生だったんだよね?」
「そうよ? でもそんなの関係ないじゃない」
 反発するように言うと、北寺は観念して先を促した。律歌は続けた。
「私は必死になって調べたわ。ロボットに仕事を肩代わりしてもらって、お父さんだけでも助かりますようにって。まあ、でも今思えばバカよね。中学生にしたって、そんなことしか考えられないなんてね。もう少しましなやり方いくらでもあったんでしょうけど、でもね、小さいころから手当たり次第にロボット関係の世界にぶつかっていっただけあって、その頃はちょっとした専門家気取りで、勉強家の神童だなんて周りもちやほやしてくれるし、だから、私ならきっとできるって思ってたのよ。私が開発したロボットで、この国の労働者全員を助けることができるって!」
「やれやれ、そんなことを考えてロボット工作やってたんだね。いやはや」
「思想上はね」
「そっか。大物になるわけだ」
 皮肉を言ってからかわれているのかと思ったが、律歌が顔を向けると、案外まじまじと考え込んでいる北寺の顔があった。
「結局、そんなことできるわけもなく、お父さんもすぐに死んじゃったけど……高校生の頃からの記憶は、あまりないの」
 それから自分は何をしていたのだろう。それから何があって何を思ってどうして、SIerのI通に入社したのだろうか。
「それでSIerになったとしたら、なかなか現実的な手段を選んだよね」
「そうなの?」
 北寺の相槌に、律歌は聞き返す。
「うん。SIerがゼネコンならPGは大工だからね。無理なスケジュールで働かされると、わかるとおもうけど……体を壊すんだよ。事故が起こる。死者が出る。下請けで仕事がなくなれば路頭に迷うし立場も弱いから、PGは何も言えず、無理をせざるを得なくて」
「両親も……うん、そんなPGだったわ」
 そうして働かされすぎた挙句殺されてしまった。SIerは、つまりは親の仇だ。自分は世の中の仕組みを知れば知るほどにその存在を憎んでいたはず。よくもそんな敵の懐に飛び込んだものだなと思う。
 北寺は律歌に優しく微笑みかけ、
「だから、りっかは立派なSIerになって労働者を守ろうとしたんじゃないかな」
 その答えをくれた。
「普通はそうそうなれないと思うよ。最大手のSIerなんて、なるにはすごい難しいんだよ。きっとよっぽど頑張ったんだよ」
「そうかな……」
「うん」
 そうなのだろうか。
 でも、もしSIerになったとしたら、PGにそんな過労死を起こさせるような立場に今度は自分がなるということだ。自分自身ではいくら良きSIerであろうとしたって、歴史作られてきた世の中の仕組みや流れは、時に人一人の意志など簡単に捻じ曲げてしまうだろうとも思う。どれほどのストレスだろう。想像もできない。そのことを苦に、記憶を封じてしまったのだろうか。
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