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序・月の輝く夜に
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しおりを挟む本来なら、ここで二つに分かれた胴が地面に転がるハズだった。
しかし、獣は刃の切っ先をすり抜けアースの背後に廻る。
本気で攻撃をはじめた相手に興奮したのか、紅く光る目が更に赤みを増し、威嚇の泣き声が荒くなる。
「な…… 」
剣を交わし、またしても突進して来ようとしている獣を目に、アースは言葉を失った。
刃は確かに獣の胴を切り裂いたはずだ。
あの距離であの位置関係で仕損じるはずなどない。
焦りのせいか汗が額に浮かぶ。
その汗を拭う隙さえ与えぬとでも言うように、間を置かずに獣は再びアースに突進してきた。
今度は確実にやる。
相手を見定めてアースは奥歯を噛み締める。
距離もタイミングもこの状態で確実だと思える場所に、正確に刃を滑らせた。
しかし、またしてもアースの剣は空を切る。
「 !
ヴレイ! 」
その状況にアースは声を張り上げる。
「ああ、どうやら、こいつは違うようだな」
納得したように呟くと、ヴレイがゆっくりと腰を上げた。
「こいつまだ妖魔になっていないんだろ? 」
「その剣で切れないということは、そうなんだろうな」
「わかってんなら暢気なこと言っていないで何とかしろよな。
これじゃ俺の手に負えないぜ」
諦めることなく加えられる獣の攻撃をよけながら、アースは苛立ちを募らせた声で叫ぶ。
「だから言ったよな?
あの時。
あの剣を売るのは反対だって」
「宿代がなかったんだから仕方がないだろう」
「宿なんて野宿でいいって言った筈だ」
「それではアイツが納得しない」
「そもそもはみんなあんたがわりぃんだからな。
あんたがアイツを監視しておかないからあいつは浪費をやめないんだろ? 」
「他人事のように言うなよ。
全てお前自身のことだろうが」
「どうしてヴレイはアレの肩ばかり持つんだよ? 」
怒りで半ば言いたい放題を口にしながら、アースは獣の攻撃から身を交わすことに余念がない。
「私はお前の意見も尊重したはずだ。
その剣と普通の剣のどちらを手放すのか決めたのはお前だろ? 」
「無茶、言うなよ。
普通の剣なら金さえあれば何時でも手に入るが、こいつは別格だ。
そんじょそこらで手に入る代物でないことはあんたが一番よく知っているだろう。
どうでもいいから何とかしてくれ」
さすがにそろそろ切れてきた息の下でアースは懇願する。
「それとも俺に素手で何とかしろって事か?」
いくら大きいとは言っても人間の手で抱えられる程度のネズミ、ペットなら何とかなりそうだ。
しかし相手は野生の生き物。
しかも興奮して敵意を剥き出しにしている。
この状態では鋭い牙も爪も持たず、鎧になる分厚い皮膚も持たない脆弱な人間の体の方が圧倒的に不利だ。
「わかったら、暫く口を噤め」
ひっきりなしに不満を吐き出すアースの口を押さえると、ヴレイは吸い込んだ息をゆっくりと吐き出しに掛かる。
その息と同時に声にならない音韻がヴレイの口から流れ出す。
昨夜、街中で倒した人に化けたネズミを縛った鎖と同じもの。
それがなんだかわからない相手が戸惑っている間にその音は獲物の周囲を取り巻き、鎖となって実体化し、身体を締め上げる。
気が付いた時には身動きが取れなくなっている。
「ギッ、ギギギィ! 」
ネズミは地面に横たわり、威嚇の声を発しながら身体を縛る鎖から逃れようと身を捻るが、もがけばもがくほどその鎖は身体に食い込んで行く。
終には呼吸ができなくなり更に身体を巡る血流が止り、程なくネズミは息絶えた。
「こいつ妖魔じゃなかったんだな? 」
足元に転がるそれを冷ややかな目で見つめながらアースは呟いた。
「妖魔しか切れないお前の剣で切れなかったって事はそうなんだろう。
それは妖気を纏ったものなら切れるが妖気をもたぬものには空気も一緒だ。
傷一つつけられないんだからな」
傍らで地面を掘りながらヴレイが答える。
「な? 今朝の奴とどう違う訳?
俺にはどっちも同じに見えるんだけど」
「確かに、異常なほど年齢を食ったヘンゲネズミなのは同じだな。
要は妖力を身につけていたか、いなかったかってことだ」
「だったらさ、こいつが俺を襲ったのって番を殺した相手が俺だってなんとなくわかったからじゃないのか?
何も殺さなくったって良かったってことだろ? 」
「今はな。
ただこの大きさだ。相当年齢がいっていると思っていい。
おまけにあの番を通して攫ってきた人間の精気を摂取していた可能性がある。
本来ならその場で人間の精気を吸い取ればいいものをわざわざ攫ってここまで連れてきていたっってことは、そのためだと思っていい。
妖魔に転じるのは時間の問題だっただろう」
掘り終えた穴にネズミの骸を横たえると、ヴレイはそっと土を被せた。
アースはそれを黙って見つめる。
いつものことだ。
妖魔でない物を殺めた時、ヴレイは常にこうして弔う。
出来上がった小さな土の丘に向かい、神殿の神官達の使うごくありふれた葬送の祈りを捧げるとヴレイはようやく立ち上がった。
「行くぞ」
それ以上は何も使用とはせず、ヴレイはその場を立ち去ろうとする。
「ちょっと待て、いいのかよ? 」
その後ろ姿をアースは慌てて呼び止めた。
「何がだ? 」
「結界、張らなくて。
街のおっさん達と契約したよな」
ついでに代金も受け取った筈だ。
何もしないでいいわけがない。
非難を込めてアースはヴレイを睨みつける。
「いいだろう。
ここには他に妖力を持った物はいなさそうだし。
何もない場所に無闇に結界を張るのは後々空気がねじれて厄介なことになる」
答えながらもヴレイは先に進む。
その足取りは先ほどの街ではない別の方向に向かっていた。
明らかに報酬を持ち逃げするつもりだろう。
かといってそれを咎めるのは得策ではないことはアース自体も充分承知していた。
男二人の旅は行く先々で豪遊するわけでもないのに、常に金欠だ。
もらえるものは黙ってもらっておいたほうがいい。
そう切り替えて、アースは口にでかかった言葉を飲み込んだ。
「ん?
何だ? 」
何かを言いかけた様子を目に、ヴレイが訊いてくる。
「いや、何でも。
ってか、ほら街にでた奴。
街長のおっさんの話に若い娘ばかり攫われるって言ってただろ?
どうしてなんだ?
どうせ精気を貰うんだったら、女より若い男のほうが充実してるだろ?
華奢な女や子供三回かどわかすんなら男なら二人、下手すりゃ一人で間に合うんじゃないのか? 」
「それは運ぶのが大変だからだろう。
男のほうが体重も力もある。
ついでに、アース。
お前だったらむさい男と可愛い女の子、キスするんならどっちがいい? 」
「そりゃ、女だろう」
「そう言うものだ。
人間の持っている精気を奪うには口からが一番効率がいい」
苦笑いを浮かべながらヴレイは言う。
「あー! もしかして。
ヴレイ、アイツとっ! 」
ふと思い立ったかのように声をあげるとアースはヴレィの胸元に掴みかかった。
「心配か?
安心しろ。まだ未遂で済んでいる」
今にも噛み付かれそうな程に近づいたアースの顔を徐に避けながら男は真顔で言った。
「本当だろうな」
時折ヴレィは表情を変えず真顔で嘘を言う。
だからその言葉を鵜呑みにできなくて、アースはヴレイのマントの喉元を握り締めたまま放さずになお言いつのった。
「多分な。
私もまだ、お前に首を掻き切られたくはないしな」
男は相変わらず表情を変えずに答える。
「頼むぜ。
アイツと何かあったら冗談抜きでお前なんか叩っ切ってやるからな」
言い置いてようやくアースは男のマントを放した。
「言いたいことはそれだけか? 」
冷めた目でアースを眺めヴレィは聞く。
先ほど言おうとしたことなど既に承知の上のようだ。
「他に何かあるのかよ? 」
とりあえず他のことで言い合いはしたくないとアースはとぼける。
「いや、ただ。相変わらず進歩のない奴だと…… 」
ようやく解放された乱れた胸元を整えながらヴレィは言うと歩き出す。
「行くぞ。ぐずぐずしていると町につく前に月が出る」
「ああ」
言われるまでもないと、アースは慌てて男を追いかけた。
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