32 / 40
梅雨入りの件
加太峠
しおりを挟む
翌日、新三郎らは番屋の調べで半日ばかり足止めされた。
四日市の番屋では、旅籠を狙った単なる押し込みだとみているようで、昨晩の宿泊客はすべて留め置かれたが、実際に何かを盗られたという者はなく、また賊と遭遇した者も他になかったので、自然調べは新三郎たちへの聞き込みに終始した。
「でも、いったいなんだったのでしょうか。なんだか時間稼ぎをされたような気分です」
加也が新三郎の考えていることを代弁するように言った。賊と実際に切り結んだ高弟の二人も、技量はあったが害意を感じなかったと言い、加也と三人で頷き合う。眠りこけていた忠馬だけが緊張感なくあくびなぞして呑気な様子だ。
「殺気があればさすがに私も目覚めたでしょうからね」
「相良さんは今後剣士を名乗るならお酒を控えるべきでしょう。若いのにみっともないです」
加也にぴしゃりと言われて、忠馬はぐうとだけ言って黙ってしまった。
「しかし今から出ては、夕暮れまでに関は難しいだろうな」
新三郎は中天の太陽を見上げて嘆息した。ただでさえ遅れている旅程が、この大詰めでさらに遅くなるのは避けえぬようだ。財布の紛失からの続けての不運、たまたま宿泊した宿が盗人に襲われるとは。だが、それは本当にたまたま起こったことなのだろうか。
いずれにしても関までは辿りつけぬ。手前の庄野宿か、気張ればなんとか亀山まで行けるだろうか。行程のことを考えると亀山までは何としてでも押し進んで、明日の内に加太峠を越えてしまいたい考えだった。
「すぐに出発するぞ」
新三郎は一行を焦れた様子で振り返った。
時子が何か困ったことを言うのではないかと危惧したが、大人しく駕籠に乗ると小窓の御簾を上げて、傍に付く加也に小さいがはっきりした声で「行きますよ」と言う。
「意外なこともあるもんですねえ」
忠馬の軽口に新三郎は「お前は先頭だ」と少し怖い声を出して、手刀でびしっと額を打った。
その後黙々と歩みを進めた成果があって、亀山に届くまで距離を稼げた。だが宿に着くころには日はとっぷりと暮れてしまい、時子の手形が無ければ旅籠に部屋は取れなかっただろう。その時子もこの晩は大した我儘も言わず、湯と食事をとるとすぐに床に就いてくれた。
「やれやれ、聞き分けがいいと後が怖いな」
不寝番に立つ小助と市兵衛が挨拶を済ませて下がると、閉められた襖を見つめながら新三郎が言った。それにしても二人はずいぶん甲斐甲斐しい。我儘を言うと言っても世話がかかるくらいで無理難題がある訳ではないが、こまごまとしたことを嫌がりもせず、実によくこなす。時子に対して忠義があるように見えるのは、伊達家から扶持でも出ているのか。
新三郎がそのことを口にすると、それもありますが、と加也はほのかに笑った。
「確かに二人には扶持が母の実家より出ておりますが、それは剣士の腕を買われてのこと。指南役の助役として抱えられているだけですので、本来わが家にあのように尽くす必要はありません。亡き父の遺功もあるでしょうが、みなよく母上に懐いているといいますか……」
主従の機微は窺い知るばかりだが、小助と市兵衛が心から時子と加也の母娘に仕えているのは、傍目にも心地の良いものだった。
「ところで」新三郎は視線を今一人の随員に向けた。「先方との繋ぎはどうなっている?」
忠馬は問われて不貞腐れた目を新三郎に向けた。昨日の今日で酒を呑ませてもらえずにいるのを恨みに思っているようだ。
「予定が狂ったことは文を出しましたが、相手方に伝わっているかは判りません。本当なら今頃は関で合流しているはずでしたから」
「まあ仕方ない。落ち合えなかった場合は繋ぎを待たずに上野城下まで足を延ばそう」
そう締めくくってこの日は銘々の部屋へと落ち着いた。
その頃、関宿の郊外では小集団同士の暗闘が繰り広げられていた。死体こそ出なかったが、激しく争った跡は明らかだった。乾いた土の上には赤黒い染みがそこかしこにあって、毀れた物がそこらじゅうに散乱しており、まるで台風でも通り過ぎたかのような有様だったという。
その日の夕方頃に、名張領の侍らが関に逗留しにやって来ていたはずだが、翌朝には宿はもぬけの殻だったらしい。暗闘の主の片方は名張衆では、と関の人たちは噂したが、先を急ぎ足も止めずに通過した新三郎らには知る由もない。無論、聞いたところで別段不審に思うような話でもなかったが……。
とにかく先を急ぐ必要があった。昼飯さえも朝に宿で詰めさせた弁当を慌ただしく済ませての道行きである。そしてそれは、一行が加太峠の頂きを越えようという時だった。頂上に立ってこちらを見ている男に気付いて新三郎は思わず目を細めた。
四日市でほんの一時行き会った東条初太郎が、そこに待ち構えていたのである。
四日市の番屋では、旅籠を狙った単なる押し込みだとみているようで、昨晩の宿泊客はすべて留め置かれたが、実際に何かを盗られたという者はなく、また賊と遭遇した者も他になかったので、自然調べは新三郎たちへの聞き込みに終始した。
「でも、いったいなんだったのでしょうか。なんだか時間稼ぎをされたような気分です」
加也が新三郎の考えていることを代弁するように言った。賊と実際に切り結んだ高弟の二人も、技量はあったが害意を感じなかったと言い、加也と三人で頷き合う。眠りこけていた忠馬だけが緊張感なくあくびなぞして呑気な様子だ。
「殺気があればさすがに私も目覚めたでしょうからね」
「相良さんは今後剣士を名乗るならお酒を控えるべきでしょう。若いのにみっともないです」
加也にぴしゃりと言われて、忠馬はぐうとだけ言って黙ってしまった。
「しかし今から出ては、夕暮れまでに関は難しいだろうな」
新三郎は中天の太陽を見上げて嘆息した。ただでさえ遅れている旅程が、この大詰めでさらに遅くなるのは避けえぬようだ。財布の紛失からの続けての不運、たまたま宿泊した宿が盗人に襲われるとは。だが、それは本当にたまたま起こったことなのだろうか。
いずれにしても関までは辿りつけぬ。手前の庄野宿か、気張ればなんとか亀山まで行けるだろうか。行程のことを考えると亀山までは何としてでも押し進んで、明日の内に加太峠を越えてしまいたい考えだった。
「すぐに出発するぞ」
新三郎は一行を焦れた様子で振り返った。
時子が何か困ったことを言うのではないかと危惧したが、大人しく駕籠に乗ると小窓の御簾を上げて、傍に付く加也に小さいがはっきりした声で「行きますよ」と言う。
「意外なこともあるもんですねえ」
忠馬の軽口に新三郎は「お前は先頭だ」と少し怖い声を出して、手刀でびしっと額を打った。
その後黙々と歩みを進めた成果があって、亀山に届くまで距離を稼げた。だが宿に着くころには日はとっぷりと暮れてしまい、時子の手形が無ければ旅籠に部屋は取れなかっただろう。その時子もこの晩は大した我儘も言わず、湯と食事をとるとすぐに床に就いてくれた。
「やれやれ、聞き分けがいいと後が怖いな」
不寝番に立つ小助と市兵衛が挨拶を済ませて下がると、閉められた襖を見つめながら新三郎が言った。それにしても二人はずいぶん甲斐甲斐しい。我儘を言うと言っても世話がかかるくらいで無理難題がある訳ではないが、こまごまとしたことを嫌がりもせず、実によくこなす。時子に対して忠義があるように見えるのは、伊達家から扶持でも出ているのか。
新三郎がそのことを口にすると、それもありますが、と加也はほのかに笑った。
「確かに二人には扶持が母の実家より出ておりますが、それは剣士の腕を買われてのこと。指南役の助役として抱えられているだけですので、本来わが家にあのように尽くす必要はありません。亡き父の遺功もあるでしょうが、みなよく母上に懐いているといいますか……」
主従の機微は窺い知るばかりだが、小助と市兵衛が心から時子と加也の母娘に仕えているのは、傍目にも心地の良いものだった。
「ところで」新三郎は視線を今一人の随員に向けた。「先方との繋ぎはどうなっている?」
忠馬は問われて不貞腐れた目を新三郎に向けた。昨日の今日で酒を呑ませてもらえずにいるのを恨みに思っているようだ。
「予定が狂ったことは文を出しましたが、相手方に伝わっているかは判りません。本当なら今頃は関で合流しているはずでしたから」
「まあ仕方ない。落ち合えなかった場合は繋ぎを待たずに上野城下まで足を延ばそう」
そう締めくくってこの日は銘々の部屋へと落ち着いた。
その頃、関宿の郊外では小集団同士の暗闘が繰り広げられていた。死体こそ出なかったが、激しく争った跡は明らかだった。乾いた土の上には赤黒い染みがそこかしこにあって、毀れた物がそこらじゅうに散乱しており、まるで台風でも通り過ぎたかのような有様だったという。
その日の夕方頃に、名張領の侍らが関に逗留しにやって来ていたはずだが、翌朝には宿はもぬけの殻だったらしい。暗闘の主の片方は名張衆では、と関の人たちは噂したが、先を急ぎ足も止めずに通過した新三郎らには知る由もない。無論、聞いたところで別段不審に思うような話でもなかったが……。
とにかく先を急ぐ必要があった。昼飯さえも朝に宿で詰めさせた弁当を慌ただしく済ませての道行きである。そしてそれは、一行が加太峠の頂きを越えようという時だった。頂上に立ってこちらを見ている男に気付いて新三郎は思わず目を細めた。
四日市でほんの一時行き会った東条初太郎が、そこに待ち構えていたのである。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

軟弱絵師と堅物同心〜大江戸怪奇譚~
水葉
歴史・時代
江戸の町外れの長屋に暮らす生真面目すぎる同心・十兵衛はひょんな事に出会った謎の自称天才絵師である青年・与平を住まわせる事になった。そんな与平は人には見えないものが見えるがそれを絵にして売るのを生業にしており、何か秘密を持っているようで……町の人と交流をしながら少し不思議な日常を送る二人。懐かれてしまった不思議な黒猫の黒太郎と共に様々な事件?に向き合っていく
三十路を過ぎた堅物な同心と謎で軟弱な絵師の青年による日常と事件と珍道中
「ほんま相変わらず真面目やなぁ」
「そういう与平、お前は怠けすぎだ」
(やれやれ、また始まったよ……)
また二人と一匹の日常が始まる
返歌 ~酒井抱一(さかいほういつ)、その光芒~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
江戸後期。姫路藩藩主の叔父、酒井抱一(さかいほういつ)は画に熱中していた。
憧れの尾形光琳(おがたこうりん)の風神雷神図屏風を目指し、それを越える画を描くために。
そこへ訪れた姫路藩重役・河合寸翁(かわいすんおう)は、抱一に、風神雷神図屏風が一橋家にあると告げた。
その屏風は、無感動な一橋家当主、徳川斉礼(とくがわなりのり)により、厄除け、魔除けとしてぞんざいに置かれている――と。
そして寸翁は、ある目論見のために、斉礼を感動させる画を描いて欲しいと抱一に依頼する。
抱一は、名画をぞんざいに扱う無感動な男を、感動させられるのか。
のちに江戸琳派の祖として名をはせる絵師――酒井抱一、その筆が走る!
【表紙画像】
「ぐったりにゃんこのホームページ」様より
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
狩野岑信 元禄二刀流絵巻
仁獅寺永雪
歴史・時代
狩野岑信は、江戸中期の幕府御用絵師である。竹川町狩野家の次男に生まれながら、特に分家を許された上、父や兄を差し置いて江戸画壇の頂点となる狩野派総上席の地位を与えられた。さらに、狩野派最初の奥絵師ともなった。
特筆すべき代表作もないことから、従来、時の将軍に気に入られて出世しただけの男と見られてきた。
しかし、彼は、主君が将軍になったその年に死んでいるのである。これはどういうことなのか。
彼の特異な点は、「松本友盛」という主君から賜った別名(むしろ本名)があったことだ。この名前で、土圭之間詰め番士という武官職をも務めていた。
舞台は、赤穂事件のあった元禄時代、生類憐れみの令に支配された江戸の町。主人公は、様々な歴史上の事件や人物とも関りながら成長して行く。
これは、絵師と武士、二つの名前と二つの役職を持ち、張り巡らされた陰謀から主君を守り、遂に六代将軍に押し上げた謎の男・狩野岑信の一生を読み解く物語である。
投稿二作目、最後までお楽しみいただければ幸いです。
黄金の檻の高貴な囚人
せりもも
歴史・時代
短編集。ナポレオンの息子、ライヒシュタット公フランツを囲む人々の、群像劇。
ナポレオンと、敗戦国オーストリアの皇女マリー・ルイーゼの間に生まれた、少年。彼は、父ナポレオンが没落すると、母の実家であるハプスブルク宮廷に引き取られた。やがて、母とも引き離され、一人、ウィーンに幽閉される。
仇敵ナポレオンの息子(だが彼は、オーストリア皇帝の孫だった)に戸惑う、周囲の人々。父への敵意から、懸命に自我を守ろうとする、幼いフランツ。しかしオーストリアには、敵ばかりではなかった……。
ナポレオンの絶頂期から、ウィーン3月革命までを描く。
※カクヨムさんで完結している「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」のスピンオフ短編集です
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129
※星海社さんの座談会(2023.冬)で取り上げて頂いた作品は、こちらではありません。本編に含まれるミステリのひとつを抽出してまとめたもので、公開はしていません
https://sai-zen-sen.jp/works/extras/sfa037/01/01.html
※断りのない画像は、全て、wikiからのパブリック・ドメイン作品です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる