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梅雨入りの件
再び餅
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蕎麦屋で知り合った東条初太郎の勧めで、三人は蕎麦のあとに餡子でくるんだ餅を食った。
「なんと、この餡子は漉してあるのか」
新三郎は肌の滑らかな餡子を一目見て感心した。最近は江戸でも餡子や生地を練ったり漉したりといろいろ工夫して菓子にするが、野趣のある所謂あんころ餅に、これほどきめ細やかな餡子を使うとは、さぞ舌触りもよいだろうと口に入れる前から期待が高まった。
「ああ」箸でつまみ上げて口にするなり新三郎は嘆息した。「なんとのど越しも気持ちがよい」
ひょいひょいと三つばかり続けて食べる姿に、忠馬と加也は少し気持ちが引ける思いのようだ。
「いやこれは、甘いですねえ」
「私もちょっと、ひとつくらいなら良いですが……」
ひとつずつ口にした二人は早々に箸をおいてしまった。忠馬は立て続けに茶を飲んでは、空になった湯呑を小女に差し出してお代わりを注がせている。
「江戸の方々には少し行儀が良すぎたかね。あっちじゃ出る物出る物、しょっぱい食べ物ばかりだからな」
新三郎に負けず劣らずぱくつく初太郎が、とどめの一個を口に入れたまま言う。新三郎は初太郎の言葉に、おやと首をひねった。まるで江戸に縁があるような口ぶりだ。
諸国漫遊の素浪人であれば、江戸で暮らしたこともあるだろうが、方々を歩き回っているような風体ではない。どうやら別の正体があるな、と踏んだが関わり合いになることではないと思い直す。
「さて、この後のことだが」
ちらりと初太郎を見て新三郎が言うと、察しがいいのか、かの素浪人はすっと立つと自分の餅代を台の上に置いた。
「皆さんお忙しいご様子。俺はこのへんで失礼しますかね」
飄然とした口調でさっさと店を出て行った。初太郎は店を出るとすぐに通りの角を曲がって暗がりへと進む。どこからともなく堅い役人のような出で立ちの男が二人寄ってきて、何やらひそひそと話していたが、その様子を見る者は裏通りであくびをする野良猫だけだった。
「なかなか怪しい風采の男でしたね」
「え、そうですかね。どこにでもいる素浪人といった感じでしたが」
抜けている忠馬に比べて、なかなか加也は見る目があると新三郎は思った。普通、旅人を見かけて声をかけてくる輩にはろくな者がいない。詐欺師か置き引き、他には役人くらいのものだ。
「今晩はこのまま宿を取るとして、明日には名張へ入りたいが、どうだ」
新三郎が尋ねると、忠馬は「そうですねえ」と天井を見上げた。彼が言うには、近道なのは津へは寄らずに東海道をこのまま亀山まで行き、そこから鈴鹿川沿いに峠を越える経路とのことだ。ただ、明日のうちに加太を越えるのは難しいだろうから、手前の関で宿を取り、更にその翌日上野を経由して名張へ入るのが順当だろうと言った。
「ずいぶんかかりますね。母上はこのままお伊勢様詣りに行かせて、我らだけで名張へ急ぐ方がいいかもしれません」
「さて、当主は仮病だからな。陰謀の片棒を担がされるかもしれないわけだし、急いで行ってやる必要もないと思うがね」
この度の間に新三郎の口調は加也に対してだいぶ気安くなっている。忠馬は二人の意見を聞いたうえで「どちらでもよいのでは」と言い、それでどうするのだと催促した。
「この後の手筈は?」
新三郎の問いに姿勢を直した忠馬が答える。
「名張家の取次は家老の横田様という御方ですが、荻野さんたちが四日市まで来たら私が文を出すことになっております。どこを行くか伝えれば迎えを寄越すとのこと」
「そうだな。津まで行くと面倒くさそうだ。関経由で行くこととしよう」
そう言って新三郎が立ち上がると、他の二人も続いた。支払いをしようと懐の財布を探す。
「時子様に別行動の相談せねばなるまいし、それに蛤を手配しにいかねばならん……」
あちこちを探りながら言ったが、そのうち財布がないことに気付いた。袂にも懐にも背嚢にもない。最後に出したのは桑名宿を出たときだから、桑名からここまでの間に落としたか、すられたかである。
「荻野さん、どうしました?」
「いや、財布が見当たらんのだ」
路銀はいくつかに分けてしまってあるので、それほど慌てる必要もなかったが、いったいいつどこで。
「あいつ、さっきのあいつじゃないですか?!」
「東条初太郎……」
忠馬はあんにゃろめと吠えて店を飛び出したが、初太郎が去ってから結構な時が経っている。今さら追っても見つかるまい。だが財布には名札などが入っている。手形や重要なものは分けていたので大事ないが、番屋に届けておくことにした。
「四日市は柳沢様の領地です。治安がいいことで知られているし、落としたものなら中身はともかく財布は届くかもしれません」
加也の勧めに従い、一行は番屋に宿を知らせて時子の待つ旅籠へと向かった。
「なんと、この餡子は漉してあるのか」
新三郎は肌の滑らかな餡子を一目見て感心した。最近は江戸でも餡子や生地を練ったり漉したりといろいろ工夫して菓子にするが、野趣のある所謂あんころ餅に、これほどきめ細やかな餡子を使うとは、さぞ舌触りもよいだろうと口に入れる前から期待が高まった。
「ああ」箸でつまみ上げて口にするなり新三郎は嘆息した。「なんとのど越しも気持ちがよい」
ひょいひょいと三つばかり続けて食べる姿に、忠馬と加也は少し気持ちが引ける思いのようだ。
「いやこれは、甘いですねえ」
「私もちょっと、ひとつくらいなら良いですが……」
ひとつずつ口にした二人は早々に箸をおいてしまった。忠馬は立て続けに茶を飲んでは、空になった湯呑を小女に差し出してお代わりを注がせている。
「江戸の方々には少し行儀が良すぎたかね。あっちじゃ出る物出る物、しょっぱい食べ物ばかりだからな」
新三郎に負けず劣らずぱくつく初太郎が、とどめの一個を口に入れたまま言う。新三郎は初太郎の言葉に、おやと首をひねった。まるで江戸に縁があるような口ぶりだ。
諸国漫遊の素浪人であれば、江戸で暮らしたこともあるだろうが、方々を歩き回っているような風体ではない。どうやら別の正体があるな、と踏んだが関わり合いになることではないと思い直す。
「さて、この後のことだが」
ちらりと初太郎を見て新三郎が言うと、察しがいいのか、かの素浪人はすっと立つと自分の餅代を台の上に置いた。
「皆さんお忙しいご様子。俺はこのへんで失礼しますかね」
飄然とした口調でさっさと店を出て行った。初太郎は店を出るとすぐに通りの角を曲がって暗がりへと進む。どこからともなく堅い役人のような出で立ちの男が二人寄ってきて、何やらひそひそと話していたが、その様子を見る者は裏通りであくびをする野良猫だけだった。
「なかなか怪しい風采の男でしたね」
「え、そうですかね。どこにでもいる素浪人といった感じでしたが」
抜けている忠馬に比べて、なかなか加也は見る目があると新三郎は思った。普通、旅人を見かけて声をかけてくる輩にはろくな者がいない。詐欺師か置き引き、他には役人くらいのものだ。
「今晩はこのまま宿を取るとして、明日には名張へ入りたいが、どうだ」
新三郎が尋ねると、忠馬は「そうですねえ」と天井を見上げた。彼が言うには、近道なのは津へは寄らずに東海道をこのまま亀山まで行き、そこから鈴鹿川沿いに峠を越える経路とのことだ。ただ、明日のうちに加太を越えるのは難しいだろうから、手前の関で宿を取り、更にその翌日上野を経由して名張へ入るのが順当だろうと言った。
「ずいぶんかかりますね。母上はこのままお伊勢様詣りに行かせて、我らだけで名張へ急ぐ方がいいかもしれません」
「さて、当主は仮病だからな。陰謀の片棒を担がされるかもしれないわけだし、急いで行ってやる必要もないと思うがね」
この度の間に新三郎の口調は加也に対してだいぶ気安くなっている。忠馬は二人の意見を聞いたうえで「どちらでもよいのでは」と言い、それでどうするのだと催促した。
「この後の手筈は?」
新三郎の問いに姿勢を直した忠馬が答える。
「名張家の取次は家老の横田様という御方ですが、荻野さんたちが四日市まで来たら私が文を出すことになっております。どこを行くか伝えれば迎えを寄越すとのこと」
「そうだな。津まで行くと面倒くさそうだ。関経由で行くこととしよう」
そう言って新三郎が立ち上がると、他の二人も続いた。支払いをしようと懐の財布を探す。
「時子様に別行動の相談せねばなるまいし、それに蛤を手配しにいかねばならん……」
あちこちを探りながら言ったが、そのうち財布がないことに気付いた。袂にも懐にも背嚢にもない。最後に出したのは桑名宿を出たときだから、桑名からここまでの間に落としたか、すられたかである。
「荻野さん、どうしました?」
「いや、財布が見当たらんのだ」
路銀はいくつかに分けてしまってあるので、それほど慌てる必要もなかったが、いったいいつどこで。
「あいつ、さっきのあいつじゃないですか?!」
「東条初太郎……」
忠馬はあんにゃろめと吠えて店を飛び出したが、初太郎が去ってから結構な時が経っている。今さら追っても見つかるまい。だが財布には名札などが入っている。手形や重要なものは分けていたので大事ないが、番屋に届けておくことにした。
「四日市は柳沢様の領地です。治安がいいことで知られているし、落としたものなら中身はともかく財布は届くかもしれません」
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