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梅雨入りの件
天草
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どうしてこうなったのだろう。
早くも新三郎は川崎宿を通り抜けるあたりで頭痛のするこめかみをおさえていた。
「喜んで御同道致します」
伊勢行きの話を聞いた際、加也は二つ返事で同行を決めた。そもそも話したのは忠馬だ。新三郎は声をかける気などなかった。
その忠馬が話したのも、伊勢出張の準備を相談するために、二人して新三郎の寓居にやって来たことがきっかけだった。
「旦那、例の武士娘、また来てるよ」
木戸をくぐると、井戸端でいつものように内儀仲間で世間噺を楽しんでいたお富が振り返って、含みのある言い方をした。いつの間に顔見知りになったのか、忠馬にも声をかけたりしてなかなか気安い。
「荻野さん、もしかして武士娘というのは……」
好奇心にあふれた表情で忠馬が顔を寄せてきたので、その広い額をぴしゃりとやる。
深呼吸をして気を引き締めた新三郎は障子を開けて中の様子に目を瞠った。
「加也どの、何をしているのです」
袖を絡げた姿で、加也は畳をごしごしと雑巾で拭いているところだった。土間には何やら煮炊きをしている様子まである。
「ああ、新三郎様、おかえりなさいませ」
そう言って振り返った加也は真っ白な腕で額の汗を拭った。新三郎の背後にいる忠馬に気付いて会釈をすると、そちらはと目配せで言う。それに気が付いて忠馬は勢いよくお辞儀をした。まるで小僧のようである。
「私は森玄蕃様の家人で相良忠馬と申します。無外流を修めており、荻野さんとは兄弟弟子にあたりまする」
「ご丁寧に痛み入ります。宇和島藩剣術指南役、志賀加也と申します。新三郎様とはその、友人づきあいをして頂いております……」
こちらを上目遣いに見ながら言うので新三郎は言いたいことを一旦おいておくことにした。
「それで一体何をしているのですか」
「いやその、掃除をしておられぬようだったので少しばかり」
「はあ。ではこれは……」
今度は煮炊きをしている鍋を振り返る。なんとなく潮の匂いがするのは気のせいだろうか。加也は似合わぬ様子でもじもじと言う。
「てんぐさを煮ております」
「てんぐさ?」
忠馬が初めて聞いたという顔をして割って入ったので、新三郎はそれが海藻であることを教えてやった。乾燥させたものを煮て固めれば心太になる。新三郎ははっとなって加也を振り返った。
「まさか心太を?」
「……はい。あるお人にお好きだと伺ったもので」
そうか、てんぐさがあれば自分でも作ることができるのか。新三郎は夏になると、心太を売る露商を見つけては桶にいっぱい買って、黒糖を煮詰めた蜜で食うのが好きだった。酢や醤油で食うのが一般的だったが、断然甘い方が合う。思い出すと新三郎はごくりと咽を鳴らした。少し待てば心太が食えるのだ。
「これは黒蜜を用意しなくては……」
動転してそわそわし始める新三郎に、加也は「あります」と言って竹筒を見せた。もう一度新三郎ののどぼとけが大きく上下に動く。
「…………」
葛藤の挙句、新三郎は黙って囲炉裏の前に座った。擦りすぎてささくれた畳が、少しばかりちくちくしたが、もはや大したことではなかった。
そうして心太を待っている間に忠馬がべらべらと伊勢に出向く話をして、あまつさえ腕のたつ同行人を探しているがいかがですか、などと口を滑らせて今回の仕儀となった。
その日から二日の後に出発した一行だったが、加也には志賀家の家士が二人もついた上に、なんと時子まで一緒にやって来たのである。
「死ぬまでに一度お伊勢様に詣りとうございました」
しれっとした表情でそう言って、いつものようにつんとあらぬ方を見やる。相変わらず妙なお人だと新三郎は冨合溜息をついた。
費用は志賀家、もとい伊達家が持つということだったが、時子は馬に乗らないため駕籠が用意された。駕籠に乗った方が歩かれるよりは早く進むのでいいのだが、宿場ごとに時子が休憩を望むので一向に進まない。しかも休憩時間がすこぶる長い。
「これは、だいぶまずくないか」
「とにかく先触れだけでも出しましょう。私が先に参って諸事整えておくと言うことで」
新三郎が危ぶむと、そう答えてとっとと忠馬が行ってしまったので、ますます妙な一行になってしまった。
東海道を四日市まで歩くと十日から十二日ほどかかる。馬と駕籠なら二日か三日は短縮できると見ていたが、これではいつ到着するやら見当もつかない。水が出て川留めなんということになったら目も当てられない。せめて天候だけはどうにかもってもらいたいものだと、新三郎は珍しく神仏に祈る始末だった。
早くも新三郎は川崎宿を通り抜けるあたりで頭痛のするこめかみをおさえていた。
「喜んで御同道致します」
伊勢行きの話を聞いた際、加也は二つ返事で同行を決めた。そもそも話したのは忠馬だ。新三郎は声をかける気などなかった。
その忠馬が話したのも、伊勢出張の準備を相談するために、二人して新三郎の寓居にやって来たことがきっかけだった。
「旦那、例の武士娘、また来てるよ」
木戸をくぐると、井戸端でいつものように内儀仲間で世間噺を楽しんでいたお富が振り返って、含みのある言い方をした。いつの間に顔見知りになったのか、忠馬にも声をかけたりしてなかなか気安い。
「荻野さん、もしかして武士娘というのは……」
好奇心にあふれた表情で忠馬が顔を寄せてきたので、その広い額をぴしゃりとやる。
深呼吸をして気を引き締めた新三郎は障子を開けて中の様子に目を瞠った。
「加也どの、何をしているのです」
袖を絡げた姿で、加也は畳をごしごしと雑巾で拭いているところだった。土間には何やら煮炊きをしている様子まである。
「ああ、新三郎様、おかえりなさいませ」
そう言って振り返った加也は真っ白な腕で額の汗を拭った。新三郎の背後にいる忠馬に気付いて会釈をすると、そちらはと目配せで言う。それに気が付いて忠馬は勢いよくお辞儀をした。まるで小僧のようである。
「私は森玄蕃様の家人で相良忠馬と申します。無外流を修めており、荻野さんとは兄弟弟子にあたりまする」
「ご丁寧に痛み入ります。宇和島藩剣術指南役、志賀加也と申します。新三郎様とはその、友人づきあいをして頂いております……」
こちらを上目遣いに見ながら言うので新三郎は言いたいことを一旦おいておくことにした。
「それで一体何をしているのですか」
「いやその、掃除をしておられぬようだったので少しばかり」
「はあ。ではこれは……」
今度は煮炊きをしている鍋を振り返る。なんとなく潮の匂いがするのは気のせいだろうか。加也は似合わぬ様子でもじもじと言う。
「てんぐさを煮ております」
「てんぐさ?」
忠馬が初めて聞いたという顔をして割って入ったので、新三郎はそれが海藻であることを教えてやった。乾燥させたものを煮て固めれば心太になる。新三郎ははっとなって加也を振り返った。
「まさか心太を?」
「……はい。あるお人にお好きだと伺ったもので」
そうか、てんぐさがあれば自分でも作ることができるのか。新三郎は夏になると、心太を売る露商を見つけては桶にいっぱい買って、黒糖を煮詰めた蜜で食うのが好きだった。酢や醤油で食うのが一般的だったが、断然甘い方が合う。思い出すと新三郎はごくりと咽を鳴らした。少し待てば心太が食えるのだ。
「これは黒蜜を用意しなくては……」
動転してそわそわし始める新三郎に、加也は「あります」と言って竹筒を見せた。もう一度新三郎ののどぼとけが大きく上下に動く。
「…………」
葛藤の挙句、新三郎は黙って囲炉裏の前に座った。擦りすぎてささくれた畳が、少しばかりちくちくしたが、もはや大したことではなかった。
そうして心太を待っている間に忠馬がべらべらと伊勢に出向く話をして、あまつさえ腕のたつ同行人を探しているがいかがですか、などと口を滑らせて今回の仕儀となった。
その日から二日の後に出発した一行だったが、加也には志賀家の家士が二人もついた上に、なんと時子まで一緒にやって来たのである。
「死ぬまでに一度お伊勢様に詣りとうございました」
しれっとした表情でそう言って、いつものようにつんとあらぬ方を見やる。相変わらず妙なお人だと新三郎は冨合溜息をついた。
費用は志賀家、もとい伊達家が持つということだったが、時子は馬に乗らないため駕籠が用意された。駕籠に乗った方が歩かれるよりは早く進むのでいいのだが、宿場ごとに時子が休憩を望むので一向に進まない。しかも休憩時間がすこぶる長い。
「これは、だいぶまずくないか」
「とにかく先触れだけでも出しましょう。私が先に参って諸事整えておくと言うことで」
新三郎が危ぶむと、そう答えてとっとと忠馬が行ってしまったので、ますます妙な一行になってしまった。
東海道を四日市まで歩くと十日から十二日ほどかかる。馬と駕籠なら二日か三日は短縮できると見ていたが、これではいつ到着するやら見当もつかない。水が出て川留めなんということになったら目も当てられない。せめて天候だけはどうにかもってもらいたいものだと、新三郎は珍しく神仏に祈る始末だった。
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