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宇津領の件

縁談

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「で、逃げ帰ってきたと」

 着流しで出迎えた玄蕃げんばは新三郎の話を聞くと半ば驚き半ば呆れた。

「逃げてなどおらん。日を改めると断っただけだ」

 根岸から休まず駆けてやってきた新三郎は、門番の中間ちゅうげんに取次よりも先に水を要求した。庭先に案内された新三郎は、手ずから井戸の水を汲んで、桶から直接水をかぶかぶとやったところだ。

「最近のお主の話で一番面白い。子細を聞かせろ」

 中庭に張り出した濡れ縁に、どっかり座って玄蕃がにやにやと笑う。井戸端から這うようにして、新三郎は屋敷の主の隣に座りこんだ。
 つい半刻はんときほど前まで新三郎は白銀しろかねの女隠居の用事で、根岸まで金包みを届けるお使いに行っていた。中身を改めた訳ではないが、おそらく三十両ほどは包まれていただろう。届け先は隠居の孫娘で、それを「ほい」と渡して帰ってくる。それだけの仕事だった。
 ところが着くなりその孫娘、加也と木剣で仕合いをすることになった。立ち会って、それなりに打ち合って実力通りに敗けて終了、と筋書きをたてたが、加也は打ち込む気配を見せたものの寸での処で手を止め、結構だと言った。あまりに実力差があるので手を引いたのだろう、と新三郎は思っていたが、その想像は「遠からずといえども当たらず」で、確かに実力差は明白だったが剣を止めた理由は別にあった。

「なんだ、さっぱりわからんな。どういう訳で剣を止めたのだ?」

 相変わらずにやにやしたまま玄蕃が先を促す。そのうちにさっきの若い中間が玄蕃に言われて茶を持ってきた。今日は忠馬は休みのようで姿は見えなかった。
 茶の添え物は今でいう桜餅で、この頃は”長命寺ちょうめいじ”などと呼ばれている。遠くから駆けてきた新三郎は、四肢がすっかり疲労していて、長命寺を目にするなり脳天に雷が落ちるような衝動を感じた。早く寄越せと目と手で訴えると、玄蕃は長命寺の乗った盆を持ち上げて邪魔をする。

「食わせてやるから、さあ続きを話せ」
「話してやるから先に食わせろ」
「……仕方ねえなあ」

 根負けした玄蕃はやっと素直に盆を寄越す。新三郎は両手に一つずつ長命寺を持ってかぶりついた。
 ところで桜餅は桜色をしているから桜餅、ではないらしい。塩漬けした桜の葉で包むから桜餅ともいうようになったようである。餡子の甘みを、葛粉くずここしらえた薄い餅でくるみ、仕上げに塩味えんみの利いた桜葉で包む。甘味と塩気の絶妙な塩梅あんばいが身分の高低に関わらず江戸市民に人気があった。

「それで?」

 盆に積んであった四つばかりをぺろりと平らげて、湯呑を片手に落ち着く新三郎を玄蕃がせっついた。満足げにしていた新三郎は嫌な顔をしたが、そもそも相談しにきたのだから話さぬわけにもいかない。長い溜息をついてから、順を追って説明をすることにした。



「私を婿にとは、いったい何がどうなったらそうした話になるのです」

 度肝を抜かれて目を白黒させている新三郎に、むしろ加也は何を言っているのだと怪訝けげんな様子である。

「御祖母様に差し向けられて当方へ参られたのでしょう?」
「確かに、伊達様の松の方様より言付かって参りました」
「では、当家の当主、志賀善弥が亡くなり、娘で師範代を頂いている自分が跡を継ぐということについては……」
「はあ、確かにそのよう伺っております。御母上は反対でらっしゃるという話も」

 新三郎が言うと、二人の視線が時子に向く。時子は二人の視線を受けると、またしてもつんとあらぬ方に視線をやった。

「この母が、婿を取るなら構わぬと言ったので、これまで都合十人ばかりの方と立ち合いを致しました」
「立ち合いですか。見合いではなく?」

 なんだかうまいことを言ったような気がしたが、新三郎は文字通り必死だった。この母娘は何か変な感じがする。

「ええ、ですから必ず立ち会うとも先ほど申し上げたはずです」
「……確かにそのように聞きましたね」
「ここにいらしたと言うことは、新三郎様もそうした御心積りであったのでしょう?」

 え、と新三郎は心臓が止まるような気分になった。これは、松の方にしてやられたのか……。しかし松の方にどんな益があるというのか、まったくもって不明である。

「私がここに参ったのは、松の方様にこの包みを届けるように言付かったからで……」

 そう言って懐からようやく包みを取り出す。それを差し出すと脇から時子がすっと寄ってきて、さっと取り上げ自分のたもとに仕舞ってしまった。

「御用は判りました。御祖母様が差し向けられた方の中から婿殿を選ぶというのがこの度の決まりなのです。御祖母様が差し向けられたと言うことは、家柄はもちろん人品にも問題なしと太鼓判を押されたということ。それで私は立ち会って、新三郎様を大層気に入りました」

 つまり用件は建前で、真の目的は孫娘との見合いだったということだったのだ。

「気に入ったと申されても……」

 なぜなのだ。まったくもって理由がわからない。立ち会ってみてわかったはずである。自分には剣術道場の婿に入るような実力はない。そんな自分が婿に入って道場が立ち行くはずもなく、婿としては失格もいいところだ。
 そのように断じると、加也は真っすぐな視線で新三郎を見据えた。

「殿方というのは、女子が相手だと、たとえ力量差があったとしても打ち負かそうとするものなのです。実際に私を侮る者もありましたし、敗けて気分を害する者もいました。私はそうした方に添える気がまるでしないのです。その点新三郎様ははじめから打たれるおつもりであった。諦めたり手を抜いたりする素振りもなかった。だから気に入ったと申したのです」

 そう言って加也は自分の膝の上に視線を落とす。新三郎はなんとかこの窮地を脱しなければと無様にあらがった。

「じ、自分には心に決めた女性にょしょうがあるのです」
「では、その方にお話をつけに参ります。もし承知して頂けるのでしたら側室に入って頂いても構いません」

「いまどき大身の旗本でも側室なぞ置きませぬぞ」
「ではどうすれば承知していただけますか」

「と、とにかく一度しかるべき筋に相談せねばなりますまい」
「そ、そうですね。それがよろしいでしょう。では後日改めて段取りをさせていただきます」

 新三郎は、加也の親族にも相談が必要だろうと言ったつもりだったが、どうやら新三郎が自分の実家と相談すると勘違いされたらしい、と気付いたのは志賀道場を辞去してからだった。
 それで慌てて玄蕃の屋敷まで走ってやってきたのだ。



「ははあ、難儀だなそれは」

 あらましを聞いて玄蕃はますますにやにやと笑み崩れた。

「笑い事ではないのだが……」
「それで?」
「なんだ……?」

 玄蕃の問いかけの意図が判らず新三郎は間抜けな表情で問い返した。

「心に決めた女性とはどこのどなただ」
「…………」

 新三郎の脳裏には明確に一人の女子が浮かんでいるが、これはただの未練だ。そんなことは判っているから、口に出してなど言えない。そう自分自身に言い聞かせる。

「まあよい。だがいずれにしても松の方に相談するのが筋だろうな。だまし討ちのようなものだし、取り合ってくださるだろう。そのまま収まると言うのも悪い話ではないと思うが……」
「冗談ではない。宇和島公の従妹など手におえるか」

 自分の分まで長命寺を食べてしまった友人に、玄蕃は同情とも呆れともつかぬ視線を送る。新三郎は濡れ縁に大の字になると、近所迷惑を憚ることもなく大声をあげて憂さを晴らした。応えるようにピーヨと大きな声で鳴いたのは、梅雨もまだ来ぬ江戸に夏の訪れを告げるヒヨドリの声だった。
 
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