7 / 40
工藤家の件
落着
しおりを挟む
清藏は尭子を娶ると三年ほどで家督した。家督を継ぐとほどなく男児が生まれたのだが、家譜によるとこれは夭折したことになっている。志津はすでに誕生しているから、存命していれば志津の弟として今頃は世嗣として成長しているはずだから、又之丞が婿に来ることはなく役目中に斬られて死ぬこともなかったのかもしれない。
「名は岩松とある」
新三郎は家譜のその部分を指で叩いた。
「つまりこの岩松が生きているということか?」
「ああ、その通りだ」
玄蕃は新三郎と家譜に交互に目をやった。
「岩松は生まれるなり伊達家に取り上げられたのだ。実は同じ生まれ年で岩松丸様、という御子が麻布の上屋敷にいる」
「それが清藏の交わしたもうひとつの約束だったわけか」
こくりと新三郎は頷いた。
「伊達家との関係を一切断つこと。しかし男児が生まれた場合は伊達家が引き取ると」
「何人生まれてもか?」
「岩松のあと子は生まれておらぬし、尭子が流行り病で死んでしまうしな。伊達家に引き取られた赤ん坊はいないが、そういう約束だったろうから、何にしても工藤家は養子を取らねばならなかったろう」
だが、と玄蕃は太い顎に手をやって首を傾げた。宇和島の伊達公は何代にも渡って子沢山だ。こんなやり方で跡取りを取らなくとも、血筋が絶えるような状況にはない。こんなのはただの嫌がらせのようではないか、と言う。
「その通り。だがまあ国主大名ともなれば俺たち風情には考えも及ばぬ事情があるのかもしれん」
「しかしそれならば、その岩松丸様をいまさら返せと言ったところで通らぬ話ではないのか」
玄蕃が困ったように言うので、新三郎はうんざりした表情で立てていた膝を投げ出した。そのまま畳の上に大の字になってしまう。
「その先のことは知らん! 俺の仕事はここまでだろう。仲人でもさせようってのか?」
「……まあ、そうだな。安藤様にご出馬頂ければそれほど難しいことでもないか。足労をかけた。礼はいずれ沙汰があるだろう」
玄蕃は立ち上がると、客間に布団を敷かせてあるから泊まっていけと言い残して板敷へと出る。
「そうだ、顛末は教えてくれよ。なるべく子細にな」
「それはいいが、芝居本などに売るなよ」
「なに、うまくやるさ」
新三郎の言葉を背に受け流しながら、玄蕃は手をひらひらとさせて自室へ引き取った。後には又之丞の遺骸と新三郎が残された部屋に、油の切れそうな行火が静かに揺らめている。
次の日昼近くに長屋へ戻ると、足の踏み場を探すのにも一苦労、という新三郎の部屋が塵ひとつなく掃き清められていた。畳はつややかに吹き上げられていて、囲炉裏の灰は搔き取られており新しい炭が積んである。
あまりの変わりように、障子を開いたきり呆然と部屋の中を眺めていると、背後から近づく人の気配がって振り向けば、なんと塔子がそこにいた。いつもの姉さんかぶりの下はにこにこと笑っている。
「おかえりなさいませ」
「あ、ああ、ただいま戻りました……」
新三郎の返事にもう一度会釈を返すと、塔子は新三郎の腕の下をくぐって長屋の中に入ってしまった。
「昨夜も森様の御屋敷に?」
「ええ、そうですが……」
たしか昨晩は宵四ツを聞いてから家を出から、朝一番にやってきて片付けをしたのだろう。あれほどあった書付や書物の類をこの短い時間でどこへ仕舞ったものか。もしや処分をしてしまったのでは、と新三郎は青くなった。あれらは新三郎が聞いたり取り寄せたり、古書屋で発掘したりしてかき集めた江戸中の噂話裏話だ。いまの新三郎を作り上げている血肉と言っていい。
「と、塔子どの、そのあの、このたりにあった書付や本の類はいったい……」
ああ、と言って振り向いた塔子は、作り付けたままただの物置になっていた書棚を指さした。
「本はあちらに。書付はこちらの葛籠に、判る限りですが書かれた内容から年代別に分けておきました。目録はこちらです」
そう言って帳面に仕立てたチリ紙を差し出した。武家の女らしい達筆で書かれたそれは、墨の香りがいまだほのかに漂う。この短時間に凄まじい処理能力だ。
「朝はお済ませですか。まだでしたら今からかかるので、簡単なものしかご用意できませんが」
「そ、それはかたじけないですが、塔子どの、いったいどういう仕儀ですか、これは……」
かつて婚約者同士であったのは事実だし、新三郎は今でも塔子のことを憎からず想っている。これまでもたびたび訪れては差し入れをくれたりしていたが、まさかこの間行き会ったときに交わした約束をこんなに早く実行するとは思わなかった。
いくら婚期を逃したと言っても年若い未婚の女子が、半分牢人者のような男の家へ出入りするのはまずくはないだろうか。塔子がどういうつもりでここへ通うのか、新三郎の頭の中はぐるぐると回り始る。
問われた塔子は姉さんかぶりを取ると、手ぬぐいを両手で握り締めて言った。
「世の中には、押しかけ女房なるお役目があると聞きました。新三郎様は森様のお手伝いなどでお忙しいご様子ですから、身の回りをお助けするくらいならできると、わたしも押しかけ女房なるものをやってみようと思い……」
新三郎はついにはくらくらしてくるのを感じて、思わず柱に寄り掛かった。
塔子の言う女房とは、城や屋敷で貴顕の人々に仕える女性の使用人のことを指しているに違いない。最近の江戸町民が使う、連れ合いのことを指す女房ではないようだが、いったい誰がそんな言葉を教えたのやら。
新三郎はゆっくりと丁重に、押しかけ女房とは何であるかを塔子に説明した。話を聞き終えた塔子は、両頬を押さえたまま駆けて出て行ってしまった。
だがしばらくすると戻ってきて「夕餉は何か食べたいものがありますか」と言ってバツが悪そうに笑う。新三郎は市場に鰹が出回り始めていたのを思い出し、「鰹などがあれば」と言って、塔子と一緒に笑った。
「名は岩松とある」
新三郎は家譜のその部分を指で叩いた。
「つまりこの岩松が生きているということか?」
「ああ、その通りだ」
玄蕃は新三郎と家譜に交互に目をやった。
「岩松は生まれるなり伊達家に取り上げられたのだ。実は同じ生まれ年で岩松丸様、という御子が麻布の上屋敷にいる」
「それが清藏の交わしたもうひとつの約束だったわけか」
こくりと新三郎は頷いた。
「伊達家との関係を一切断つこと。しかし男児が生まれた場合は伊達家が引き取ると」
「何人生まれてもか?」
「岩松のあと子は生まれておらぬし、尭子が流行り病で死んでしまうしな。伊達家に引き取られた赤ん坊はいないが、そういう約束だったろうから、何にしても工藤家は養子を取らねばならなかったろう」
だが、と玄蕃は太い顎に手をやって首を傾げた。宇和島の伊達公は何代にも渡って子沢山だ。こんなやり方で跡取りを取らなくとも、血筋が絶えるような状況にはない。こんなのはただの嫌がらせのようではないか、と言う。
「その通り。だがまあ国主大名ともなれば俺たち風情には考えも及ばぬ事情があるのかもしれん」
「しかしそれならば、その岩松丸様をいまさら返せと言ったところで通らぬ話ではないのか」
玄蕃が困ったように言うので、新三郎はうんざりした表情で立てていた膝を投げ出した。そのまま畳の上に大の字になってしまう。
「その先のことは知らん! 俺の仕事はここまでだろう。仲人でもさせようってのか?」
「……まあ、そうだな。安藤様にご出馬頂ければそれほど難しいことでもないか。足労をかけた。礼はいずれ沙汰があるだろう」
玄蕃は立ち上がると、客間に布団を敷かせてあるから泊まっていけと言い残して板敷へと出る。
「そうだ、顛末は教えてくれよ。なるべく子細にな」
「それはいいが、芝居本などに売るなよ」
「なに、うまくやるさ」
新三郎の言葉を背に受け流しながら、玄蕃は手をひらひらとさせて自室へ引き取った。後には又之丞の遺骸と新三郎が残された部屋に、油の切れそうな行火が静かに揺らめている。
次の日昼近くに長屋へ戻ると、足の踏み場を探すのにも一苦労、という新三郎の部屋が塵ひとつなく掃き清められていた。畳はつややかに吹き上げられていて、囲炉裏の灰は搔き取られており新しい炭が積んである。
あまりの変わりように、障子を開いたきり呆然と部屋の中を眺めていると、背後から近づく人の気配がって振り向けば、なんと塔子がそこにいた。いつもの姉さんかぶりの下はにこにこと笑っている。
「おかえりなさいませ」
「あ、ああ、ただいま戻りました……」
新三郎の返事にもう一度会釈を返すと、塔子は新三郎の腕の下をくぐって長屋の中に入ってしまった。
「昨夜も森様の御屋敷に?」
「ええ、そうですが……」
たしか昨晩は宵四ツを聞いてから家を出から、朝一番にやってきて片付けをしたのだろう。あれほどあった書付や書物の類をこの短い時間でどこへ仕舞ったものか。もしや処分をしてしまったのでは、と新三郎は青くなった。あれらは新三郎が聞いたり取り寄せたり、古書屋で発掘したりしてかき集めた江戸中の噂話裏話だ。いまの新三郎を作り上げている血肉と言っていい。
「と、塔子どの、そのあの、このたりにあった書付や本の類はいったい……」
ああ、と言って振り向いた塔子は、作り付けたままただの物置になっていた書棚を指さした。
「本はあちらに。書付はこちらの葛籠に、判る限りですが書かれた内容から年代別に分けておきました。目録はこちらです」
そう言って帳面に仕立てたチリ紙を差し出した。武家の女らしい達筆で書かれたそれは、墨の香りがいまだほのかに漂う。この短時間に凄まじい処理能力だ。
「朝はお済ませですか。まだでしたら今からかかるので、簡単なものしかご用意できませんが」
「そ、それはかたじけないですが、塔子どの、いったいどういう仕儀ですか、これは……」
かつて婚約者同士であったのは事実だし、新三郎は今でも塔子のことを憎からず想っている。これまでもたびたび訪れては差し入れをくれたりしていたが、まさかこの間行き会ったときに交わした約束をこんなに早く実行するとは思わなかった。
いくら婚期を逃したと言っても年若い未婚の女子が、半分牢人者のような男の家へ出入りするのはまずくはないだろうか。塔子がどういうつもりでここへ通うのか、新三郎の頭の中はぐるぐると回り始る。
問われた塔子は姉さんかぶりを取ると、手ぬぐいを両手で握り締めて言った。
「世の中には、押しかけ女房なるお役目があると聞きました。新三郎様は森様のお手伝いなどでお忙しいご様子ですから、身の回りをお助けするくらいならできると、わたしも押しかけ女房なるものをやってみようと思い……」
新三郎はついにはくらくらしてくるのを感じて、思わず柱に寄り掛かった。
塔子の言う女房とは、城や屋敷で貴顕の人々に仕える女性の使用人のことを指しているに違いない。最近の江戸町民が使う、連れ合いのことを指す女房ではないようだが、いったい誰がそんな言葉を教えたのやら。
新三郎はゆっくりと丁重に、押しかけ女房とは何であるかを塔子に説明した。話を聞き終えた塔子は、両頬を押さえたまま駆けて出て行ってしまった。
だがしばらくすると戻ってきて「夕餉は何か食べたいものがありますか」と言ってバツが悪そうに笑う。新三郎は市場に鰹が出回り始めていたのを思い出し、「鰹などがあれば」と言って、塔子と一緒に笑った。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説

軟弱絵師と堅物同心〜大江戸怪奇譚~
水葉
歴史・時代
江戸の町外れの長屋に暮らす生真面目すぎる同心・十兵衛はひょんな事に出会った謎の自称天才絵師である青年・与平を住まわせる事になった。そんな与平は人には見えないものが見えるがそれを絵にして売るのを生業にしており、何か秘密を持っているようで……町の人と交流をしながら少し不思議な日常を送る二人。懐かれてしまった不思議な黒猫の黒太郎と共に様々な事件?に向き合っていく
三十路を過ぎた堅物な同心と謎で軟弱な絵師の青年による日常と事件と珍道中
「ほんま相変わらず真面目やなぁ」
「そういう与平、お前は怠けすぎだ」
(やれやれ、また始まったよ……)
また二人と一匹の日常が始まる
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
狩野岑信 元禄二刀流絵巻
仁獅寺永雪
歴史・時代
狩野岑信は、江戸中期の幕府御用絵師である。竹川町狩野家の次男に生まれながら、特に分家を許された上、父や兄を差し置いて江戸画壇の頂点となる狩野派総上席の地位を与えられた。さらに、狩野派最初の奥絵師ともなった。
特筆すべき代表作もないことから、従来、時の将軍に気に入られて出世しただけの男と見られてきた。
しかし、彼は、主君が将軍になったその年に死んでいるのである。これはどういうことなのか。
彼の特異な点は、「松本友盛」という主君から賜った別名(むしろ本名)があったことだ。この名前で、土圭之間詰め番士という武官職をも務めていた。
舞台は、赤穂事件のあった元禄時代、生類憐れみの令に支配された江戸の町。主人公は、様々な歴史上の事件や人物とも関りながら成長して行く。
これは、絵師と武士、二つの名前と二つの役職を持ち、張り巡らされた陰謀から主君を守り、遂に六代将軍に押し上げた謎の男・狩野岑信の一生を読み解く物語である。
投稿二作目、最後までお楽しみいただければ幸いです。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
鷹の翼
那月
歴史・時代
時は江戸時代幕末。
新選組を目の敵にする、というほどでもないが日頃から敵対する1つの組織があった。
鷹の翼
これは、幕末を戦い抜いた新選組の史実とは全く関係ない鷹の翼との日々。
鷹の翼の日常。日課となっている嫌がらせ、思い出したかのようにやって来る不定期な新選組の奇襲、アホな理由で勃発する喧嘩騒動、町の騒ぎへの介入、それから恋愛事情。
そんな毎日を見届けた、とある少女のお話。
少女が鷹の翼の門扉を、めっちゃ叩いたその日から日常は一変。
新選組の屯所への侵入は失敗。鷹の翼に曲者疑惑。崩れる家族。鷹の翼崩壊の危機。そして――
複雑な秘密を抱え隠す少女は、鷹の翼で何を見た?
なお、本当に史実とは別次元の話なので容姿、性格、年齢、話の流れ等は完全オリジナルなのでそこはご了承ください。
よろしくお願いします。
慈童は果てなき道をめざす
尾方佐羽
歴史・時代
【連作です】室町時代、僧のなりでひとり旅をする青年のお話です。彼は何かを探しているのですが、それは見つかるのでしょうか。彼の旅は何を生み出すのでしょうか。彼の名は大和三郎、のちの世阿弥元清です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる