上 下
4 / 40
工藤家の件

事件

しおりを挟む
 その日新三郎は夜四ツよるよつを回ってから森玄蕃げんばの使者を長屋に迎えた。
 塔子が夕方に持ってきてくれた、甘く煮たカライモを頬張っていた時で、楽しみを邪魔された新三郎は精一杯の渋面を作って使者をもてなした。
 使者は森家の家臣で相良さがら忠馬という青年で、新三郎が差し出した白湯とカライモを神妙に口に運んだ。

「宵口のお呼び立て、誠に相すみませぬ。我が主の命にて荻野様を役宅まで案内仕ります」
「明日ではいかんのか。もう休むところだったのだがな」

 迷惑を顔面に貼り付けて言ってみたが、相良は畳に額をこすりつけるほど低頭して「緊急の御用なれば」と嘆願した。
 しぶしぶ承諾して表へ出ると、周到なことに駕籠かごがつけてある。断りにくい状況に追い込まれていくのを感じて新三郎はそっと溜息をついた。


 玄蕃の屋敷に辿り着くと、夜半とも思えぬものものしさがそこかしこに漂っていた。忙しく立ち働く人間が多く、何人もの女中が忙しく表と奥を行き来している。

「遅くにすまんな。まだ起きていてくれて助かった」

 玄蕃は書院に新三郎を迎えると友人の来訪を労った。

「……いや大したことではない」

 心から言われると嫌味を口にする気も失せるものである。面倒がって駕籠の中でぶつぶつと文句をこぼしていた自分を恥じる気持ちになった。尻の座りが悪いので慌ただしく呼び出しの理由を尋ねると、玄蕃は途端に深刻そうな表情になった。

「今日の夕刻に旗本同士の刃傷沙汰があったのだが、斬られたのが安藤様の股肱の者でな、残念ながら絶命してしまった」
「……なるほど。それで俺が呼ばれた理由は?」

 旗本同士の刃傷沙汰にんじょうざたまれなことではあるが時々起こる。有名なところでは、元禄の頃に浅野内匠頭たくみおかみの事件がある。旗本同士の諍いであれば玄蕃の勤める目付めつけの領分だから、彼が事件に関係するのは判る話だが、夜半に慌てて新三郎が呼び出される事情は本来はない。そもそも新三郎は単なる部屋住みの身分で玄蕃の家臣でもない。多少関係しているとすれば、玄蕃の遣いで版元見届はんもとみとどけ人を時々引き受けるくらいである。

「そうか。絶命した御方に後継ぎがおらぬのだな」

 新三郎の言葉に玄蕃はこくりと頷いた。

「刃傷沙汰は両成敗が通例であるが、斬られた方は一方的に斬られている」
「佩刀は?」
「帯刀していなかった。門柱で預けて無手だったのだ」

 そうであれば吉良上野介きらこうずけのすけの例を持ち出すまでもない。これは私闘ではなくただの殺人ということになる。斬られた方の過失度合いは極めて低い。斬った方はこれはもうお取り潰しで間違いない。当人は切腹、悪ければ打ち首だ。家族もまた路頭に迷うことになるだろう。

「斬られたのはどなたか」
「安藤様の股肱の者でな、工藤又之丞という三百石取りだ。年は三十四で妻女はあるが子はまだおらぬ。世嗣の届もまだしておらなんだ」
「兄弟や親類はおらぬのか」
「……それで困っておる。安藤様は吾が子のように目をかけておられた故、身代わりになったような又之丞を不憫にお考えなのだ」

 新三郎は少しだけ沈思した。

「堀田様の伝手を頼るわけにはいかぬか……」
「そうだな。堀田様のお力をもってすれば三百石ばかりの小身、何とでもできるが今は具合が悪い」

 玄蕃の囁くような声に浮かんだのは兄の主馬しゅめの顔だった。安藤老中は同じく老中の座にある堀田相模守と幕政の主導権を争う立場にある。政敵に付け入る隙を与える訳にはいかないのだろう。くだらないことだと新三郎は思わないでもないが、そうした人たちの足元に庶民の暮らしがあるのは確かなことだ。おもねる必要は一切感じなかったが、慮る必要くらいはあるのだろうと思う。

「だが伝手があったところで、もう絶命しているのだろう」
「うん、だからまあ生きていることになっておる。遺骸をここへ運ばせて治療している、ということになっているからな」
「無体なことを……」

 新三郎は呆れて言った。だがそんなことは驚くようなことではない。大名家ですら、いや大名家だからこそ、そのような強引なこともやる。
 斬られたが何とか存命中に末期養子を届け、見届け人に検分させた上で届を承認する。その後まもなく絶命してしまった、という筋書きだった。
 しかし肝心の養子に候補者すらいないとなると検分もできぬ。事実のないところを承認してしまえば安藤老中の体面に泥がつく。

「無理をいいなさるな……」
「難しいか。お主ならうまい解決策を思いつくのではないかと安藤様も考えられてのご手配なのだがな」

 新三郎はじっとりとした視線を玄蕃に塗りたくった。当の玄蕃は神妙な顔つきをしている。最初から新三郎頼みだったわけだ。だが悪い気分ではなかった。股肱の臣とは言え、本来であれば、たかだか三百石取りの小身のためにしてやることではない。そのあたりに新三郎は安藤老中の心意気を感じた。

「いや待てよ。絶命した方は工藤と言ったか」

 幕臣で工藤。新三郎の記憶にひっかかるものがあった。表情が冴え冴えとしてくる友人の顔を見て玄蕃は「何か思いついたか」と色めき立った。もう少し材料が欲しいところだ。そう言うと玄蕃は勢いよく立ち上がった。

「もうすぐ工藤の妻女がここへ着く。こんなこともあろうかと家譜など持ってくるように依頼してある」

 新三郎はうんと頷くと「ところで」と水を差した。

「茶も出ておらぬぞ。ついでに団子か饅頭くらい寄越すんだな」

 きょとんとするでもなく、玄蕃は「応」と答えるとすぐに用意させよう、と請負った。こいつは冗談も通じぬ、と新三郎は苦笑いをするばかりだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

就職面接の感ドコロ!?

フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。 学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。 その業務ストレスのせいだろうか。 ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。

飛び込み営業の舎利弗さん

盤坂万
大衆娯楽
社会人の日常を淡々と描きたいと考えています。 オチなし、蘊蓄なし、ためになる話なし。 偏見に満ちた会社ってこんな感じ、を綴ります!

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

エロ・ファンタジー

フルーツパフェ
大衆娯楽
 物事は上手くいかない。  それは異世界でも同じこと。  夢と好奇心に溢れる異世界の少女達は、恥辱に塗れた現実を味わうことになる。

独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖

笹目いく子
歴史・時代
旧題:調べ、かき鳴らせ 第8回歴史·時代小説大賞、大賞受賞作品。本所松坂町の三味線師匠である岡安久弥は、三味線名手として名を馳せる一方で、一刀流の使い手でもある謎めいた浪人だった。 文政の己丑火事の最中、とある大名家の内紛の助太刀を頼まれた久弥は、神田で焼け出された少年を拾う。 出自に秘密を抱え、孤独に生きてきた久弥は、青馬と名付けた少年を育てはじめ、やがて彼に天賦の三味線の才能があることに気付く。 青馬に三味線を教え、密かに思いを寄せる柳橋芸者の真澄や、友人の医師橋倉らと青馬の成長を見守りながら、久弥は幸福な日々を過ごすのだが…… ある日その平穏な生活は暗転する。生家に政変が生じ、久弥は青馬や真澄から引き離され、後嗣争いの渦へと巻き込まれていく。彼は愛する人々の元へ戻れるのだろうか?(性描写はありませんが、暴力場面あり)

スケートリンクでバイトしてたら大惨事を目撃した件

フルーツパフェ
大衆娯楽
比較的気温の高い今年もようやく冬らしい気候になりました。 寒くなって本格的になるのがスケートリンク場。 プロもアマチュアも関係なしに氷上を滑る女の子達ですが、なぜかスカートを履いた女の子が多い? そんな格好していたら転んだ時に大変・・・・・・ほら、言わんこっちゃない! スケートリンクでアルバイトをする男性の些細な日常コメディです。

処理中です...