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工藤家の件
事件
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その日新三郎は夜四ツを回ってから森玄蕃の使者を長屋に迎えた。
塔子が夕方に持ってきてくれた、甘く煮たカライモを頬張っていた時で、楽しみを邪魔された新三郎は精一杯の渋面を作って使者をもてなした。
使者は森家の家臣で相良忠馬という青年で、新三郎が差し出した白湯とカライモを神妙に口に運んだ。
「宵口のお呼び立て、誠に相すみませぬ。我が主の命にて荻野様を役宅まで案内仕ります」
「明日ではいかんのか。もう休むところだったのだがな」
迷惑を顔面に貼り付けて言ってみたが、相良は畳に額をこすりつけるほど低頭して「緊急の御用なれば」と嘆願した。
しぶしぶ承諾して表へ出ると、周到なことに駕籠がつけてある。断りにくい状況に追い込まれていくのを感じて新三郎はそっと溜息をついた。
玄蕃の屋敷に辿り着くと、夜半とも思えぬものものしさがそこかしこに漂っていた。忙しく立ち働く人間が多く、何人もの女中が忙しく表と奥を行き来している。
「遅くにすまんな。まだ起きていてくれて助かった」
玄蕃は書院に新三郎を迎えると友人の来訪を労った。
「……いや大したことではない」
心から言われると嫌味を口にする気も失せるものである。面倒がって駕籠の中でぶつぶつと文句を零していた自分を恥じる気持ちになった。尻の座りが悪いので慌ただしく呼び出しの理由を尋ねると、玄蕃は途端に深刻そうな表情になった。
「今日の夕刻に旗本同士の刃傷沙汰があったのだが、斬られたのが安藤様の股肱の者でな、残念ながら絶命してしまった」
「……なるほど。それで俺が呼ばれた理由は?」
旗本同士の刃傷沙汰は稀なことではあるが時々起こる。有名なところでは、元禄の頃に浅野内匠頭の事件がある。旗本同士の諍いであれば玄蕃の勤める目付の領分だから、彼が事件に関係するのは判る話だが、夜半に慌てて新三郎が呼び出される事情は本来はない。そもそも新三郎は単なる部屋住みの身分で玄蕃の家臣でもない。多少関係しているとすれば、玄蕃の遣いで版元見届け人を時々引き受けるくらいである。
「そうか。絶命した御方に後継ぎがおらぬのだな」
新三郎の言葉に玄蕃はこくりと頷いた。
「刃傷沙汰は両成敗が通例であるが、斬られた方は一方的に斬られている」
「佩刀は?」
「帯刀していなかった。門柱で預けて無手だったのだ」
そうであれば吉良上野介の例を持ち出すまでもない。これは私闘ではなくただの殺人ということになる。斬られた方の過失度合いは極めて低い。斬った方はこれはもうお取り潰しで間違いない。当人は切腹、悪ければ打ち首だ。家族もまた路頭に迷うことになるだろう。
「斬られたのはどなたか」
「安藤様の股肱の者でな、工藤又之丞という三百石取りだ。年は三十四で妻女はあるが子はまだおらぬ。世嗣の届もまだしておらなんだ」
「兄弟や親類はおらぬのか」
「……それで困っておる。安藤様は吾が子のように目をかけておられた故、身代わりになったような又之丞を不憫にお考えなのだ」
新三郎は少しだけ沈思した。
「堀田様の伝手を頼るわけにはいかぬか……」
「そうだな。堀田様のお力をもってすれば三百石ばかりの小身、何とでもできるが今は具合が悪い」
玄蕃の囁くような声に浮かんだのは兄の主馬の顔だった。安藤老中は同じく老中の座にある堀田相模守と幕政の主導権を争う立場にある。政敵に付け入る隙を与える訳にはいかないのだろう。くだらないことだと新三郎は思わないでもないが、そうした人たちの足元に庶民の暮らしがあるのは確かなことだ。おもねる必要は一切感じなかったが、慮る必要くらいはあるのだろうと思う。
「だが伝手があったところで、もう絶命しているのだろう」
「うん、だからまあ生きていることになっておる。遺骸をここへ運ばせて治療している、ということになっているからな」
「無体なことを……」
新三郎は呆れて言った。だがそんなことは驚くようなことではない。大名家ですら、いや大名家だからこそ、そのような強引なこともやる。
斬られたが何とか存命中に末期養子を届け、見届け人に検分させた上で届を承認する。その後まもなく絶命してしまった、という筋書きだった。
しかし肝心の養子に候補者すらいないとなると検分もできぬ。事実のないところを承認してしまえば安藤老中の体面に泥がつく。
「無理をいいなさるな……」
「難しいか。お主ならうまい解決策を思いつくのではないかと安藤様も考えられてのご手配なのだがな」
新三郎はじっとりとした視線を玄蕃に塗りたくった。当の玄蕃は神妙な顔つきをしている。最初から新三郎頼みだったわけだ。だが悪い気分ではなかった。股肱の臣とは言え、本来であれば、たかだか三百石取りの小身のためにしてやることではない。そのあたりに新三郎は安藤老中の心意気を感じた。
「いや待てよ。絶命した方は工藤と言ったか」
幕臣で工藤。新三郎の記憶にひっかかるものがあった。表情が冴え冴えとしてくる友人の顔を見て玄蕃は「何か思いついたか」と色めき立った。もう少し材料が欲しいところだ。そう言うと玄蕃は勢いよく立ち上がった。
「もうすぐ工藤の妻女がここへ着く。こんなこともあろうかと家譜など持ってくるように依頼してある」
新三郎はうんと頷くと「ところで」と水を差した。
「茶も出ておらぬぞ。ついでに団子か饅頭くらい寄越すんだな」
きょとんとするでもなく、玄蕃は「応」と答えるとすぐに用意させよう、と請負った。こいつは冗談も通じぬ、と新三郎は苦笑いをするばかりだった。
塔子が夕方に持ってきてくれた、甘く煮たカライモを頬張っていた時で、楽しみを邪魔された新三郎は精一杯の渋面を作って使者をもてなした。
使者は森家の家臣で相良忠馬という青年で、新三郎が差し出した白湯とカライモを神妙に口に運んだ。
「宵口のお呼び立て、誠に相すみませぬ。我が主の命にて荻野様を役宅まで案内仕ります」
「明日ではいかんのか。もう休むところだったのだがな」
迷惑を顔面に貼り付けて言ってみたが、相良は畳に額をこすりつけるほど低頭して「緊急の御用なれば」と嘆願した。
しぶしぶ承諾して表へ出ると、周到なことに駕籠がつけてある。断りにくい状況に追い込まれていくのを感じて新三郎はそっと溜息をついた。
玄蕃の屋敷に辿り着くと、夜半とも思えぬものものしさがそこかしこに漂っていた。忙しく立ち働く人間が多く、何人もの女中が忙しく表と奥を行き来している。
「遅くにすまんな。まだ起きていてくれて助かった」
玄蕃は書院に新三郎を迎えると友人の来訪を労った。
「……いや大したことではない」
心から言われると嫌味を口にする気も失せるものである。面倒がって駕籠の中でぶつぶつと文句を零していた自分を恥じる気持ちになった。尻の座りが悪いので慌ただしく呼び出しの理由を尋ねると、玄蕃は途端に深刻そうな表情になった。
「今日の夕刻に旗本同士の刃傷沙汰があったのだが、斬られたのが安藤様の股肱の者でな、残念ながら絶命してしまった」
「……なるほど。それで俺が呼ばれた理由は?」
旗本同士の刃傷沙汰は稀なことではあるが時々起こる。有名なところでは、元禄の頃に浅野内匠頭の事件がある。旗本同士の諍いであれば玄蕃の勤める目付の領分だから、彼が事件に関係するのは判る話だが、夜半に慌てて新三郎が呼び出される事情は本来はない。そもそも新三郎は単なる部屋住みの身分で玄蕃の家臣でもない。多少関係しているとすれば、玄蕃の遣いで版元見届け人を時々引き受けるくらいである。
「そうか。絶命した御方に後継ぎがおらぬのだな」
新三郎の言葉に玄蕃はこくりと頷いた。
「刃傷沙汰は両成敗が通例であるが、斬られた方は一方的に斬られている」
「佩刀は?」
「帯刀していなかった。門柱で預けて無手だったのだ」
そうであれば吉良上野介の例を持ち出すまでもない。これは私闘ではなくただの殺人ということになる。斬られた方の過失度合いは極めて低い。斬った方はこれはもうお取り潰しで間違いない。当人は切腹、悪ければ打ち首だ。家族もまた路頭に迷うことになるだろう。
「斬られたのはどなたか」
「安藤様の股肱の者でな、工藤又之丞という三百石取りだ。年は三十四で妻女はあるが子はまだおらぬ。世嗣の届もまだしておらなんだ」
「兄弟や親類はおらぬのか」
「……それで困っておる。安藤様は吾が子のように目をかけておられた故、身代わりになったような又之丞を不憫にお考えなのだ」
新三郎は少しだけ沈思した。
「堀田様の伝手を頼るわけにはいかぬか……」
「そうだな。堀田様のお力をもってすれば三百石ばかりの小身、何とでもできるが今は具合が悪い」
玄蕃の囁くような声に浮かんだのは兄の主馬の顔だった。安藤老中は同じく老中の座にある堀田相模守と幕政の主導権を争う立場にある。政敵に付け入る隙を与える訳にはいかないのだろう。くだらないことだと新三郎は思わないでもないが、そうした人たちの足元に庶民の暮らしがあるのは確かなことだ。おもねる必要は一切感じなかったが、慮る必要くらいはあるのだろうと思う。
「だが伝手があったところで、もう絶命しているのだろう」
「うん、だからまあ生きていることになっておる。遺骸をここへ運ばせて治療している、ということになっているからな」
「無体なことを……」
新三郎は呆れて言った。だがそんなことは驚くようなことではない。大名家ですら、いや大名家だからこそ、そのような強引なこともやる。
斬られたが何とか存命中に末期養子を届け、見届け人に検分させた上で届を承認する。その後まもなく絶命してしまった、という筋書きだった。
しかし肝心の養子に候補者すらいないとなると検分もできぬ。事実のないところを承認してしまえば安藤老中の体面に泥がつく。
「無理をいいなさるな……」
「難しいか。お主ならうまい解決策を思いつくのではないかと安藤様も考えられてのご手配なのだがな」
新三郎はじっとりとした視線を玄蕃に塗りたくった。当の玄蕃は神妙な顔つきをしている。最初から新三郎頼みだったわけだ。だが悪い気分ではなかった。股肱の臣とは言え、本来であれば、たかだか三百石取りの小身のためにしてやることではない。そのあたりに新三郎は安藤老中の心意気を感じた。
「いや待てよ。絶命した方は工藤と言ったか」
幕臣で工藤。新三郎の記憶にひっかかるものがあった。表情が冴え冴えとしてくる友人の顔を見て玄蕃は「何か思いついたか」と色めき立った。もう少し材料が欲しいところだ。そう言うと玄蕃は勢いよく立ち上がった。
「もうすぐ工藤の妻女がここへ着く。こんなこともあろうかと家譜など持ってくるように依頼してある」
新三郎はうんと頷くと「ところで」と水を差した。
「茶も出ておらぬぞ。ついでに団子か饅頭くらい寄越すんだな」
きょとんとするでもなく、玄蕃は「応」と答えるとすぐに用意させよう、と請負った。こいつは冗談も通じぬ、と新三郎は苦笑いをするばかりだった。
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