僕の名は。~my name~

バーニー

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第三章 【変われなかった者 変わり果てた者】

第三章 その⑯

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「お前…、こんなところに、こんな、痣、あったっけ?」
「………」
 痣? 何言ってんだ、こいつ…。
 ほんの少し明瞭になった視界の中、東条を仰ぐ。
 その時、僕のある部分を見て首を傾げる東条の背後に、皆月が立った。
 あ…って思う。
 次の瞬間、皆月は持っていた木刀を振り上げた。
 気配に気づいて、東条が振り返る。
 構わず、皆月は一閃した。
 木刀の切っ先が、東条のこめかみに激突する。
 ガンッ! と嫌な音がしたと思えば、東条は悲鳴をあげながら、床に倒れ込んだ。
 だが、あの一撃だけでは、東条の意識を奪うには至らなかったようで、彼は首を擡げると、唾をまき散らしながら叫んだ。
「このくそ女!」
 その口を塞ぐべく、皆月は追撃を叩き込む。
 顔面に、木刀の重い一撃が炸裂した。
 東条健斗が呻き、顔をのけぞらせた瞬間、欠けた歯と、血の雫が飛び散る。そして、仰向けになった彼は白目を剥き、ピクリとも動かなくなった。
「ざまあないわね…」
 そこでようやく、皆月は声を発した。
 血の付いた木刀を放り出し、天井を仰ぐ。
「…八つ当たりをすることもできない、価値のない人生で」
 皆月は、ぺっ! と唾を吐いた。それから、よろめきながら東条に近づく。
 彼が反撃をしてこないことを確かめると、余裕な風を醸し出すように、肩を回したり、足を揺すったり。そして次の瞬間、倒れている東条健斗の股間を、思い切り蹴りつけていた。
 気絶していた彼が、絹が裂けるような悲鳴を上げる。そして、浜に打ち上げられた魚のように、痙攣し始めた。
「あんたみたいなやつは、自殺する勇気も、社会の歯車に噛みつく覚悟も無く、一生、埃を舐めながら生きていくと良いよ。その方が良い。他の、どうしようもない人生を送っているやつが、ほんの少しだけ、輝くことが出来るからね…」
 東条健斗は返事をしない。ただ意識はあるようで、痙攣をしながら、意味わからない言葉を吐き続けていた。
「よし…」
 スッキリしたかのようにため息をついた皆月は、僕の方を振り返った。
 僕と皆月は、しばらくの間、見つめ合う。
 一秒、二秒、三秒、四秒、五秒…。十秒ほど経っただろうか? 皆月はにらめっこに耐えかねたように息を吐き、俯いた。
 顔を上げると、柔らかな笑みを浮かべ、紫色に染まった手首を見せる。
「ありがとうね。ナナシさんがこいつと雑談してくれたから、拘束を解く余裕ができた」
「い、いや…」
 まさか感謝されるとは思わず、僕は気まずくて俯いた。
 額から、血が滴り、床を濡らした。
 皆月は「あ…」と声をあげ、僕に歩み寄ると、身を屈め、珍しく頬を撫でてきた。
「大丈夫? 動けそう…?」
「まあ、何とか」
 木刀を強く握りしめていた彼女の手は、燃えるように熱かった。
「そう。じゃあ、逃げようか」
「うん、逃げたいんだけどさ…」
 僕は苦笑を浮かべ、身を捩った。
「その…、縛られてるから。しかも、足も…」
「へえ…」
 皆月は少し余裕を取り戻したように、憎たらしい笑みを浮かべた。
「男の股には、興味が無かったと」
「そう言うことに、なるな」
「女の子でよかった」
 彼女は踵を返すと、ゴミ袋の山の方に歩いて行った。
 傍に落ちていたのは、サバイバルナイフ。どうやら、東条が買ったもののようだ。
 皆月はそれを拾い上げると、僕に向かって投げる。
 空中で弧を描いたそれは、危うく僕の足を貫きそうになりつつ、床に突き刺さった。
「それで切りな。私も切った」
「ああ、うん」
「まったく、馬鹿で助かった」
「本当だよ」
 僕は手首が縛られた状態で、指を動かし、ナイフの柄を掴んだ。鋭利なそれを結束バンドに押し当てると、力を込める。なかなかてこずったが、バチンッ! と、いう音とともに切断された。
 自由になった腕を使い、足首に巻き付いたそれも切断する。
 そこでようやく、僕は解放された。
 それと同時に、東条の怒鳴り声が聞こえた。
「てめえっ! よくも!」
 はっとして振り返ると、目を覚ました彼が、唾をまき散らしながら首を擡げていた。
 すかさず、見張っていた皆月が脚を振り抜く。
 再び股間に走る激痛に、東条は断末魔のような叫びをあげ、丸くなってしまった。
「ナナシさん、切れた?」
「あ…、うん」
 自由の身になった僕は、床に手をついて立ち上がった。
 全身の皮膚に張り裂けそうな痛みが走り、よろめく。
 今に折れそうな足を使って何とか踏みとどまると、何とか、皆月の方まで歩いて行った。
 ボロボロな僕を見て、皆月はにやっと笑う。
「かわいそ」
「…帰るか」
「そうだね」
 二人で頷きあっていると、東条健斗が言葉を絞り出した。
「ま、待てよ。待ってくれ、頼むよ。悪かった…。酷いことをして、悪かった。目が覚めた…」
 何とも情けない声。
 それを聞いた皆月は鼻で笑い、彼の尻を蹴ることで追い打ちをかける。
「惨めだね。五年以上経っても更生しなかったやつのセリフが、信用できると思う?」
 痛みで言葉が出ないのか、それとも、返す言葉が無いのか、東条は何も言わず、皆月と僕を交互に睨んだ。
 まるで、捕まえたネズミをいたぶる様に、彼女はさらに続ける。
「欲求を満たしたいのなら、他人に優しくすることだね。暴力なんてもっての外。一与えたなら、十返ってくるもんだよ。あんたはどれだけナナシさんを傷つけたの? きっと多分、これから先の人生で、その分が返ってくる…」
 ギリリ…と東条が歯を食いしばる音が聴こえた。
「さっき、あんたは自分の人生が滅茶苦茶だって言ったね。ナナシさんを殺したら、自殺でもしようか…って言ってたね。すると良いよ。首吊りしたり、動脈を切ったり、電車に飛び込んだり…、やり方はいくらでもある」
 次の瞬間、東条が、獣のような雄叫びを上げ、皆月に飛び掛かった。
 だが、皆月は蚊を潰すが如く、彼の顎を蹴り上げる。
 東条はまたもや呻き声をあげ、床に伏してしまった。
「でもかわいそうだね」
 涼しい顔で言った彼女は、髪を耳に掛ける。
「本当なら、もっと楽しい人生が待っていたのかもしれないのにね。腹を割って話せる友達だとか、可愛い奥さんとか、趣味とかね…。そう言うのが楽しめたかもしれないのに、そう言うことが待っているかもしれないのに、捨てちゃうんだね。周りのみんな、人生謳歌してるのに…、自分だけできないなんて、可哀そう…」
 彼女はさも、彼だけが世界に取り残されているかのような言い方をした。
 まるで生きていた方がよっぽど楽しい…とでも言うような言い方をした。
 東条健斗の顔が、みるみる青くなっていくのが分かった。
「そ、そんなこと、ねえよ」
 否定する言葉も、覚束なかった。
「俺は死んだほうが、ましなんだ…」
「あらそう。じゃあ、死ねば? 私たちは生きるから」
 そう言うと、もう一度、彼の腹を蹴りつける。
 痛みに慣れたのか、彼は呻かなかった。もう、僕たちに襲い掛かってくることもなかった。
 皆月は作り笑いを浮かべると、伏して泣き始めた彼に手を振る。
「それじゃあね。人生楽しんで」
 これではどっちが悪役かわからないな。
「ほら、ナナシさん行くよ? とりあえず警察呼ぼう」
 パソコンが入った鞄を掴んだ皆月は、僕の手を取り、引っ張っていく。
 足を引きずりながら歩き、玄関まで歩いて行ったとき、東条健斗が叫んだ。
「てめえの方が惨めな人生だろうが!」
 その言葉に、ドアノブに触れかけていた手が止まる。
 振り返ると、彼は芋虫のように這いながら、必死に暴言を吐き散らしていた。
「人に殴られるばっかで! やり返す勇気もない! いっつも独りだった! 誰もてめえのことなんて気に掛けなかった!」
「ナナシさん、行くよ」
 僕の手に、皆月の手が重なった。
 そのまま、一緒にドアノブを握ると、捻る。
 今に出て行ってしまう二人に、東条はさらに捲し立てた。
「オレはてめえの名前を思い出せない!」
 扉が開く。冷たい風が吹き込んできて、血のにじむ傷口に染みこんだ。
「惨めな名前をしてはずだ! 情けない名前をしていたはずだ! そして、憶える価値も無い、しょうもない名前をしていたはずだ!」
 僕たちは、部屋から一歩、外に出る。
「教えろよ! お前の名前! お前、何て名前だっけか!」
 扉を閉めた時、その向こうから、下品な笑い声が聴こえた。
 ぎゃははははは…と、喉が切れそうな、頭が完全に狂ってしまったかのような、聞いていて悲しくなる、そんな笑い声だった。
「悪い! 忘れたあああああっ! ぎゃはははははっ!」
 笑い声がずっと聞こえていた。
 二人で肩を貸しあって通路を歩き、階段を降り、駐車場を横切っている時もずっと、空間を裂くように、僕たちの鼓膜を揺らし続けた。
 そのうち、他の部屋の住人が出てきて、その声が聴こえる部屋を訝し気に見ていた。
 一階の端に住む人が、ぼろぼろの僕たちに気づき、「何かあったんですか?」と聞いてきたので、僕は言った。
「…警察を呼んでください」
 言った後、首を横に振る。
「…いや、救急車で十分。それだけでいい」
「え…」
 隣の皆月が意外そうな顔をした。
「なんで?」
「いや、なんかもう、面倒くさくなったんだ…」
 僕はそう言うと、彼女の手を握り、引っ張る。
 何か言いたそうな住人を放って道路に出ると、足を速めた。
 血まみれ痣まみれの僕たちは、お互いに支えながら歩き、アパートを目指す。途中、けたたましいサイレンを鳴らしながら救急車が通り過ぎていった。
 そうして、泥の中を泳ぐようにして歩いた僕たちは、アパートに辿り着いた。
 鍵を使って扉を開けた瞬間、集中の糸が切れ、足の力が抜ける。
 僕は前のめりとなり、皆月を道連れにしながら玄関に倒れ込んだ。腹を打ち付けて、衝撃が胃に伝わる。もう、うんざりな痛みだった。
「ああ、もう…」
 皆月が身を捩り、僕の胸に挟まれていた腕を抜いた。そして、その手で僕の頭を撫でる。
「ナナシさん、せめて布団に行こうよ」
「もう疲れた…」
 僕は不貞腐れて言うと、ダンゴムシみたいに丸くなった。
 皆月だけが手をついて立ち上がり、僕を呆れた目で見下ろす。
「血生臭いし、汗臭いし、服も汚れてるし…」
「わかった…」
 僕は、頷きはしたが、動きはしなかった。
「元気を取り戻したら、動くことにするよ。君はもう帰れ…。君も休め…」
 また口の中に血が溢れてきたから、迷わずその場に吐き出す。
「悪かった」
 また鉄の味が込み上げてくる前に、彼女に謝罪した。
「面倒なことに巻き込んで、悪かったな…」
 期待なんてしていなかったよ。まあ、どうせ、こういう結末が待っているんだろうな…って思ってた。そうだ、期待なんてしていなかった。でも、もしかしたら…って思った自分がいたんだ。本当に、情けない話だよ。
「蹴られたところ、大丈夫か?」
「まあ、ナナシさんに比べたら」
「痛くないか…? 血は出てないか…?」
「頭が割れた」
「気分が悪いと思ったら、すぐに病院に行けよな」
「嫌よ大げさな」
「金は、僕のポケットに財布が入っているから、そこから抜け」
「何程も入ってなかったでしょ」
「もし足りなかったら、通帳のカードが入っているから、それを使え。暗証番号は…、なんだっけ?」
 ははっ…と笑う。
「わすれちゃったよ…。僕の名前も、カードの暗証番号も…」
 床に降り積もった埃を眺めながら、僕はぶつぶつ…とそう言った。
 そうして蕩けてしまい、その場に張り付いたように動かなくなった僕を見て、皆月は深いため息をついた。そして、僕の腰を軽く蹴ると、一言。
「めんどくさ」
 うん。そういう人間なんだよ、僕は。
 その言葉を発するのすらも、億劫に思えた。
 結果、僕は皆月の言葉を無視することなり、気まずさを紛らわすように目を逸らした。
 彼女は舌打ちをすると、また、僕の腰を蹴った。
「いい加減にしてよ。人生終わった馬鹿に何言われようが、気にしなかったらいいのに」
 僕もその馬鹿と同類ってことだよ。
「違うね。ナナシさんと、東条健斗は、全く違う」
 まるで僕の心を読んだかのように、皆月は言った。
「確かに救いようが無いものだったとしても、今のナナシさんを見ていたら…、多分、捨てるには惜しいものなんじゃないかって、思うんだ」
 なんだそれ、お前がそれを言うのか?
 僕のことを馬鹿にした、お前が言うのか?
「だから…」
「もういいよ」
 言葉が口を衝いて出て、皆月の声を遮っていた。
「もう要らない。必要ない。もう苦しいから、さっさと、新しい過去を書いてくれ…」
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