僕の名は。~my name~

バーニー

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第二章【青春盗掘】

第二章 その⑩

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 部屋を出た瞬間、冷たい空気が肺に流れ込み、全身の毛が逆立った。
 せめて、マフラーでも巻こうか? と思ったが、皆月の機嫌が悪くなるだろう…と思い、諦める。いや、彼女の機嫌はもうすでに悪いのだから、別に大丈夫か。
「ごめん、ちょっとマフラー取ってくる」
「ああ、うん」
 皆月はあまり怒らなかった。
 拍子抜けしながらマフラーを巻いて戻ると、改めて、極寒の路地を進み始めた。
 大学がある場所なんてわからない。でも、なんとなく右に進めばいい気がした。だから右に進んだ。まっすぐ進んで、次はどっちに曲がればいいかわからなかった。だからなんとなく、左に曲がった。またもや、どっちの方向に行けばいいかわからなくなったから、勘に任せて、右に曲がった。それはまるで、地面に引かれた薄い線をなぞっているようだった。
 そうして、大学に辿り着く。
「ええと…、一時間目の授業は…」
 学生手帳を取り出し、教室の場所を確認してから、歩き出した。
 だが、皆月がついて来ていないことに気づき、立ち止まる。
「え、何やってるの?」
「いや、私大学生じゃないから、教室入れないし」
「ええ…、じゃあなんで着いてきたの」
 投げやりな言葉に、僕は呆れるしかなかった。
「いや、そもそも、大学なんてその気になればモグリできるだろ」
「ほら、私、女子高生だから」
 二十歳を迎えている皆月は、そんなことを恥ずかしげも無く言い、己のスカートをひらりと舞わせた。
「この格好の方が、都合が良いんだよ」
「いや、都合悪くなってるだろ」
 校門の前で立ち止まっているブレザーの少女を、キャンパスへと向かう学生らは怪訝な目で見ていた。
「うーん…、まあ確かに、この格好で講義室に入ったら目立つか」
 胸を、ざらりとしたものが撫でた気がして、僕は頷いた。
「わかったよ。じゃあ、僕一人で行ってくるよ」
 その言葉に、皆月舞子は至って真面目な様子で頷く。
「うん。私は図書館で時間潰してるから、あんたは普通に講義を受けて、もし何か思いだしたら、私のところに来て報告して」
 冷たい風が吹きつける。皆月の髪を揺らす。
「何度でも言うけど、今のあんたには名前と過去が無い。でも、記憶はちゃんと残っているから、きっとあんたの顔を見て話しかけてくる人がいると思うんだ」
「そうだと良いけどね」
「もしそういう人がいたら、絶対に、自分の情報を聞き出すんだよ」
 捲し立てるように言った皆月は、それから半歩下がり、僕に親指を立てた。
「じゃあ、頑張って」
 皆月はそう簡単に言うけれど、記憶を認識できていない僕にとって、他の生徒らと顔を合わせたとしても、全員が全員「初めまして」の状態だ。そんな中で情報を聞き出すのなんて、困難に等しいだろう。鮫が蠢く深海に放り込まれた蚯蚓になった気分だ。
「まあ、やってみるよ」
 だが、四の五の言っていても仕方がない。苦い薬を飲みこむように、僕は頷いた。
「あ、そうだ」
 皆月は思い出したように言い、僕に歩み寄った。
 僕の手から、学生手帳をひったくる。
「これ、借りていくね」
「え…」
「これ、生徒手帳でしょう? 時間割とか、スケジュールをメモできる奴」
「ああ、そうだね」
「これもナナシさんの過去を復元する上で参考になるから、ナナシさんを待っている間にじっくり読ませてもらうよ」
 それじゃあね。
 皆月はそう言うと、踵を返し、図書館がある方へと駆けて行った。
 僕は立ち尽くし、皆月の背中が小さくなっていくのを見ていた。
 そう言えば、図書館って、大学が運営してる奴だよな。一般公開ってしてるのか? まあ、例え閉まっていたとしても、あいつのことだから、のらりくらりと時間を潰すだろうな…。
 彼女の心配をすることを止めた僕は、キャンパスの方へと踵を返し、自動ドアを潜った。
 中は、火照るくらい暖房が効いていた。
 温い空気の壁を押しやりながら廊下を進み、登録している授業が行われる講義室に向かう。
 重い扉を開けた時、一瞬、周りにいた者たちの視線がこちらに集中した気がした。だが、すぐに他を向いた。
 心臓が逸るのを感じながら、僕はそそくさと通路を横切って、席に着く。そして、なんてことの無いように、鞄から教科書ノートを取り出し、準備を開始した。
「…………」
 講義開始まであと五分。皆、席を確保して予習復習に励んでいるのかと思いきや、そんなことは無く、各々集まって話に興じていた。
 なんとなく耳を澄ましてみたけど、聞こえるのは、新しくできたカフェがどうだった…とか、バイトの面接がどうだった…、彼女がどうのこうの…と、僕には関係の無い事ばかり。
 それからも僕は、勉強道具を整理するふりをしながら、意識を半径三十メートルに集中させて時間が過ぎるのを待った。
 そして、講義開始まであと三分となった。
 未だに、たむろしている者たちが各々の席に戻っていく気配はない。まともに席について授業の準備をしている者と言えば、僕くらいだった。
 僕はため息をつき、唾を飲みこんだ。
 期待していたわけではない。まあ、こんなことだろうな…とは思っていた。でも、一人くらいは居てもいいんじゃないだろうか? 僕のことを見て、「よお、最近どうよ」なんて話しかけてくれる友人が。
 まあ、まだ一時限目だからな。他の講義にはいるかもしれない。僕の肩を叩いて、「心配したよ。しばらく音沙汰無しだったから」って言ってくれるような人が。
 もしいなくても構わないさ。
 過去を復元するうえで、「僕に友達は居ない」ということがわかるのだから。
 そんな、辛気臭いことを考えていた時だった。
 バチンッ! と、背中に痺れるような痛みが走った。
「うわ…」
 唐突だったために、変な声が洩れる。それから、叩かれたのだと気づいた。
 背中が痺れるのを感じながら、恐る恐る振り返る。
「うわ…」
 そしてまた、間抜けな声をあげた。
 そこに立っていたのは、がたいのいい男だった。
 耳のピアスをぎらつかせ、真冬だというのに、今にはち切れそうなTシャツを身に纏っている。目は三日月のように歪んでいて、ひび割れた唇の隙間から、黄色い歯が覗いていた。
「え…」
 誰だ…こいつ?
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