明治仕舞屋顛末記

祐*

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第一部 《鬼手》と《影虎》

《鬼手》の過去(一)

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 当時、九つになったばかりの隆二が、江戸の三田へとたどり着いたのは、まだ残暑も厳しい時期だった。
 たどり着いた、というのは、少々語弊がある。
 戦で早くに親を亡くし、たった一人の身内である姉も嫁に行くことになり、厄介者の自分は姿を眩ませた。幸せそうな、姉のお荷物にはなりたくなかった。
 物乞いをしながら、盗みをしながら、日々必死に生きてきた隆二は、遂に、そこでしまったのだ。
 暑さで目が回り、空腹で指先一つ動かせぬ。
 その時隆二は、道端で朽ちていく己の姿を想像しながら、ゆっくりと、その生を諦めようとしていた。

 どのくらいの時、そうしていただろうか。
 突然、ひた、と冷えたものが首筋に当たった。
 そして、怒号が聞こえたような気がした。
 抱え上げられ、ごつごつ、ゆさゆさと揺られ、胃が迫り上がるような気持ち悪さが募る。

 ——随分と荒い、極楽行きだなぁ

 そんなことを思いながら、ふかふかとした雲の上を漂うような心地に、隆二の意識は沈んでいった。

「ん……」

 心地よい微睡から浮上する感覚に、隆二は小さく呻いた。
 眩さに目を顰めて幾度か瞬きをすると、飛び込んできた光景は、煌びやかな極楽浄土などではなく、煤けた木枠の天井だった。

「おお、目を覚ましたぞ!」
「うわぁあああ!?」

 突如として野太い声が掛けられ、隆二は訳もわからず悲鳴を上げた。
 天女様やお釈迦様に迎えられると思ったのに、 大勢の男たちに覗き込まれるなんて、恐怖でしかない。
幾人かが笑いながら隆二を宥めて、死んだ、と思っていたのは間違いで、実のところ、ある屋敷に運び込まれて、介抱されていたことを教えられる。

 薩摩藩江戸藩邸。

 二度ほど聞き返して、聞き間違えではないと知ると、隆二は大層萎縮した。
 不良浪人や浪人もどきなら目にしたことがあるが、確りと本物の大名屋敷などに足を踏み入れることなど、生涯ないと思っていた。
 薩摩藩——九十万石をも持つ幕臣最大級の外様大名でありながら、尊攘派の長州と同盟し、事実上幕府に反旗を翻したという話は、まだ元服していない隆二でさえ耳にしたことがある。
 幼いながらも、ここが、この国の命運を左右する渦中だとわかって、泣きそうな顔で布団にくるまるしかなかった。
 
「おや……」

 芋虫の如く布団にこもってしまった隆二に、男たちが四苦八苦していると、若い浪士が粥が載った盆を片手に障子を開ける。
 柔和に微笑まれて、警戒心が少し解れ、隆二は勧められた粥を恐る恐る口に運ぶ。
 じんわりと、数日間空っぽだった胃が温まっていく。
 若い浪士は、微笑みを湛えながら黙ってそれを見ていた。
 少し眉尻が下がった笑顔はどこか翳があり、だが、そんな穏やかな顔を誰かに向けられたのは久しぶりで、粥を啜う隆二は静かに、やがてぼろぼろと大粒の涙を流した。

「坊主、お前、どこから来た」
「中村さん、今はまだ、待ちましょう」

 男はそう言って、嗚咽の合間にも懸命に胃を満たす隆二の頭を撫でる。
 中村、と呼ばれた中年の男は、ううむ、と唸りながら苦笑して、若い浪士と隆二を交互に見比べた。

「どこぞの外道が送り込んだ密偵というわけではないか」
「……貴方は、誰彼見境なく疑いすぎですよ。こんな子供に」
「お前のような若者にはわからんのだよ、相楽」

 今の世、誰が何を腹の底で企んでいるか。
 誰に言うでもなくそう溢して、中村は立ち上がる。

「その坊主の世話、任せていいな」

 もちろんです、と相楽と呼ばれた男は即答した。
 腹も涙も多少落ち着いた隆二は、自分の意志とは関係なく進む会話に、不安げに相楽を見る。
 それに気づいて、変わらず柔和な笑顔で相楽は応えた。

「私のところは、お前と年が近いものも多い。それに、丁度雑用の手が欲しいと思っていたのだ。うちの子ども達も、遊び相手が出来て喜ぶだろう」

 食べ終えたらまた道端に逆戻りだと思っていたので、隆二は目を丸くした。
 ああ、と相楽は付け加える。

「但し、仕事はきちんとやってもらう。それに剣の稽古も。ただ飯を食わらせるほど、余裕はないのでな」

 壊れた様にこくこくと頷く隆二に、周りの男達が笑い声をあげた。
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