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第一部 《鬼手》と《影虎》
求めたもの
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どかん、と力任せに戸口を開ける音に、長屋中から怒声が上がる。
「ちょっと、隆さん! うちの棚が歪んじまったよ!」
「うるせぇ! 空き家にでも移っとけ!」
二軒隣の女房が怒鳴るのに、隆二も負けじと声を張り上げる。最悪の機嫌で、取り繕う愛想すら振りまけない。
転がった徳利の中から、比較的残りが多そうなものを探し出して、一気に呷る。
そして、内に登りってくる感情に、言葉にもならない咆哮を上げる。
「た、多恵ぇ、黙ってろ! ああなったら、隆さん、一棟倒壊させる勢いで暴れんだ」
「ちっ、知るかってんだ。 機嫌直ったら、棚ぁ直しとくれよ!」
「だから、黙れって!」
ぎゃあぎゃあと夫婦喧嘩を始めた住人を尻目に、隆二は乱暴に煙草盆を引き寄せて、煙管に火を点けた。その眉間には、深々とした皺が刻まれ、爛々と、それでいて胡乱な光を湛える瞳が空虚を睨みつける。
——《影虎》
先刻聞かされたその名前が、隆二の心をかき乱していた。
勘兵衛を叩きつけるように解放したのち、この感情に任せて真っ直ぐに長屋へ戻ってきたのだろうが、それすらもあまり覚えていない。
幼少の時分、世話になった男たちから聞いたことのある名前。
あの人たちを、あそこまで狂わせる後押しをした名前。
自分の不甲斐なさを、ありありと見せつけられた名前。
上手く火の点かない煙管を、壁に向かって投げ付ける。激しい音を立てて突き刺さるそれを一瞥して、隆二は荒れ狂う思考を落ち着かせようと、ゆっくりと息を吐く。
そして、あの男を目にした時の高揚感を思い出す。
——そうだ
遂に見つけた、と。
あの時の昂りの理由は、長い間目を背けていた隆二の翳を暴き出す。
もう忘れていた、諦めていたと思っていたのに、自分の中で、これほどまでに燻っていたとは。
ある種の衝撃と共に、癒えることの無い創痍を掻き回されるような不快感が募る。
隆二には、因縁があった。
暗く、深く、澱んだ心の奥底に、ぐちゃぐちゃと厭らしい音を立てて絡まっている。
それに思いを馳せることは、とうの昔に辞めていたはずなのに、たった一度名前を聞いただけで、まるで昨日のことのように隆二を苛む。
仕舞屋を始めたのは、己の闇を覆い隠すのに、都合が良かったからだ。
絶望の淵で江戸へ流れ着いて、それでも、幸い動乱を生き延びる程度には腕っ節があった。
忠誠など、志など、そんなものは虚構だと知れてしまったから、どんな高尚な志でも、どんな清廉なふりをしていても、結局のところ、誰しもが私利私欲のために生きていると知ってしまったから、だったら、自分がそう生きて、何が悪い。
四民平等、民主主義、そんな裏で、志を持ってこの日本を変えようとしたはずの男たちが、仕舞屋へ依頼を持ってくる。
何ら、変わっていないではないか。
人足寄場から出てても更生できないような破落戸が集まっている、この寄場長屋の方がまだましだ。
ここの連中は如何しようもないが、決してそれを取り繕わない。
己を、そして、それを取り巻く全ての事象を、諦めか、開き直りか、ただ素直に受け止め、生きたいように、その生を全うする。
そちらの方が、余程潔い。
だからこそ、仕舞屋稼業は具合が良かった。
武士だとて、やくざだとて、ただの町人、もしくは役人でも、《鬼手》の前では平等だ。
金の目方だけで、誰が誰でも、善でも悪でも、皆平等だ。
裁き、叩きのめしてきた奴らが、今度はこんな無法者に審判を請いにくる。
冷めきった心に、ほんの一瞬だけ宿る侮蔑と嘲笑が、ともすれば暗く取り込まれそうになる闇から、隆二を生かしていた。
けれど、その一方で、隆二は探し続けていたのかも知れない。
過去の因縁に。
あの絶望に。
自分の不甲斐なさに。
——決着をつける、その時を。
「ちょっと、隆さん! うちの棚が歪んじまったよ!」
「うるせぇ! 空き家にでも移っとけ!」
二軒隣の女房が怒鳴るのに、隆二も負けじと声を張り上げる。最悪の機嫌で、取り繕う愛想すら振りまけない。
転がった徳利の中から、比較的残りが多そうなものを探し出して、一気に呷る。
そして、内に登りってくる感情に、言葉にもならない咆哮を上げる。
「た、多恵ぇ、黙ってろ! ああなったら、隆さん、一棟倒壊させる勢いで暴れんだ」
「ちっ、知るかってんだ。 機嫌直ったら、棚ぁ直しとくれよ!」
「だから、黙れって!」
ぎゃあぎゃあと夫婦喧嘩を始めた住人を尻目に、隆二は乱暴に煙草盆を引き寄せて、煙管に火を点けた。その眉間には、深々とした皺が刻まれ、爛々と、それでいて胡乱な光を湛える瞳が空虚を睨みつける。
——《影虎》
先刻聞かされたその名前が、隆二の心をかき乱していた。
勘兵衛を叩きつけるように解放したのち、この感情に任せて真っ直ぐに長屋へ戻ってきたのだろうが、それすらもあまり覚えていない。
幼少の時分、世話になった男たちから聞いたことのある名前。
あの人たちを、あそこまで狂わせる後押しをした名前。
自分の不甲斐なさを、ありありと見せつけられた名前。
上手く火の点かない煙管を、壁に向かって投げ付ける。激しい音を立てて突き刺さるそれを一瞥して、隆二は荒れ狂う思考を落ち着かせようと、ゆっくりと息を吐く。
そして、あの男を目にした時の高揚感を思い出す。
——そうだ
遂に見つけた、と。
あの時の昂りの理由は、長い間目を背けていた隆二の翳を暴き出す。
もう忘れていた、諦めていたと思っていたのに、自分の中で、これほどまでに燻っていたとは。
ある種の衝撃と共に、癒えることの無い創痍を掻き回されるような不快感が募る。
隆二には、因縁があった。
暗く、深く、澱んだ心の奥底に、ぐちゃぐちゃと厭らしい音を立てて絡まっている。
それに思いを馳せることは、とうの昔に辞めていたはずなのに、たった一度名前を聞いただけで、まるで昨日のことのように隆二を苛む。
仕舞屋を始めたのは、己の闇を覆い隠すのに、都合が良かったからだ。
絶望の淵で江戸へ流れ着いて、それでも、幸い動乱を生き延びる程度には腕っ節があった。
忠誠など、志など、そんなものは虚構だと知れてしまったから、どんな高尚な志でも、どんな清廉なふりをしていても、結局のところ、誰しもが私利私欲のために生きていると知ってしまったから、だったら、自分がそう生きて、何が悪い。
四民平等、民主主義、そんな裏で、志を持ってこの日本を変えようとしたはずの男たちが、仕舞屋へ依頼を持ってくる。
何ら、変わっていないではないか。
人足寄場から出てても更生できないような破落戸が集まっている、この寄場長屋の方がまだましだ。
ここの連中は如何しようもないが、決してそれを取り繕わない。
己を、そして、それを取り巻く全ての事象を、諦めか、開き直りか、ただ素直に受け止め、生きたいように、その生を全うする。
そちらの方が、余程潔い。
だからこそ、仕舞屋稼業は具合が良かった。
武士だとて、やくざだとて、ただの町人、もしくは役人でも、《鬼手》の前では平等だ。
金の目方だけで、誰が誰でも、善でも悪でも、皆平等だ。
裁き、叩きのめしてきた奴らが、今度はこんな無法者に審判を請いにくる。
冷めきった心に、ほんの一瞬だけ宿る侮蔑と嘲笑が、ともすれば暗く取り込まれそうになる闇から、隆二を生かしていた。
けれど、その一方で、隆二は探し続けていたのかも知れない。
過去の因縁に。
あの絶望に。
自分の不甲斐なさに。
——決着をつける、その時を。
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