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第七章 ユウリとヨルン

7-11. ウェズ

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 頰に触れる冷たい床の感覚に、ユウリは急速に意識を覚醒させた。

(ここは……)

 湿気の篭る薄暗い空間に目を凝らして、そこが石造りの地下室のようだと認識する。
 頭上遥か高くにある明かり採りの窓から星空が見えて、ユウリがここに放り込まれてからそれ程時間は経ってないようだった。
 何かの薬物だろうか、足に少し痺れが残っている上に、ユウリの両手は背後で縛られ、ご丁寧に猿轡までされている。

「んんんんーっ!!」

 試しに叫んでみるが、彼女の口からはただくぐもった呻きが漏れるだけで、何の意味も成さなかった。
 はっと胸元に意識を向けると、機械時計はそこにあるのがわかる。
 だが、手を縛られていては《始まりの魔法》も使えない。
 逃げることも、助けを呼ぶことも不可能そうだ。

(ヨルンさん、気づいてくれるかな……)

 ユウリは、飛び出す直前のヨルンの顔を思い浮かべる。
 苦しそうな、悲しそうな、傷ついたような、拒絶の表情。
 それでもやっぱり、ユウリは彼の助けを願った。

「ああ、こんなところに居たの」

 聞き覚えのある声に、ユウリは首をもたげる。

(ウェズさん!)

 ゆっくりと室内に入ってくる見知った姿に、助かった、とユウリは身を起こした。
 しかし、いつもと変わらぬ笑顔のウェズが放った次の言葉に、戦慄する。

「ちゃんとお持て成ししろって、言っておいたのに」

 あの頼りなさそうな、弱々しい声で、ふふ、と笑って、ウェズは固まるユウリの目の高さまでしゃがみ込んだ。

「助けが来たと、思った?」
「——!」

 彼女の目から溢れる雫をその細長い指で掬って、ウェズは楽しそうに笑いを止めない。

「可哀想なユウリちゃん。信じて疑わなくって、誰にでも優しくて、能天気で、愛されて、まさか僕が、こんなことするなんて思ってもいなくて」

 何故、というユウリの眼差しに、彼は一瞬思案した後、まぁ教えてあげてもいいか、と床に腰を下ろした。

 ——どうせ、もう誰にも会えないんだから

 呟かれた言葉は彼の表情に反して、ひどく残酷な響きでユウリに届く。
 震える頰にかかる彼女の髪をゆっくり撫で上げて、ウェズはその顔に張り付いてしまったかのような笑顔を崩さない。

「僕の母親ーー前ガイア王国国王陛下正妃は、身体も、心も弱いひとだった。 母上が亡くなったのは、僕が四歳を過ぎたとき。ユージンが生まれたのはその約半年後。どう言う意味か、わかる?」

 ユウリが躊躇いがちに首を振ると、そういう勉強は苦手なんだねぇ、とウェズが嘲笑わらった。

「現王妃様——ユージンの母親は、僕の母上が病床にある頃

 ユウリは息を飲んだ。
 その事実の、意味するところ。

「国王陛下は、常々母上に言っておられたよ。ウェズはお前に似て弱すぎる、王の重責に耐えられるように見えないって。多分、幼過ぎて意味はわからないと思っていたんだろうね。母上は、躍起になって僕を厳しく躾けた。体調が悪くて臥せってしまっても、稼働ベッドまで使って、僕の一挙手一投足を管理した。でも、僕が三歳の時大きな発作を起こして、完全に寝たきりになったしまったんだ。度々熱に浮かされながら、ずっと『何故ですか、陛下』とうわ言のよう言い続け、そして亡くなった」

 ——何故、ウェズでは駄目なのですか

 死の影が下りた母が最期に放った言葉は、ウェズの耳に染み付いた。

「母上の喪が明けてすぐに、陛下は現王妃をめとって、ユージンが生まれた。その時やっと、母の言葉の意味がわかったんだ。父は、病床の母の見舞いにも現れず」

 ——僕の、スペアを作っていたんだって

「……っ」
「そんな顔をしなくてもいいよ、ユウリちゃん。幼かった僕は、嬉しかったんだ。解放されるって。もう誰にも気兼ねなく、自由に生きていいんだって。現王妃様は学園カウンシルの補佐をしていらしたらしくて、学力、魔力共に優れている方なんだよ。実際、その彼女から生まれたユージンは、陛下の期待通りずば抜けて優秀で、まるで王になるためにこの世にやってきたような子供だった。僕は母上の従者を受け継いでいたからあまり会わせてもらえなかったけど、ユージンのことは嫌いじゃなかったよ。僕には持つことの出来なかった才能に、憧れすらした。でもね」

 ある日、ウェズは国王陛下に呼ばれた。そこには、ユージンもいた。
 何事かと問う彼に、彼の父は王座から動くことなく、言った。

「ユージンに嫉妬するな、楯突くな。王になれないお前に出来るのは、せめて学園を卒業して、優秀な補佐となるべく精進することだって」

 ウェズの瞳が冷たい光を放つ。
 ユウリはその時初めて、その兄弟がとてもよく似ていることに気づいた。

「僕は、何にも言ってやしないよ。多分従者の誰かが、いつものように嘆いたんだろう。『お可哀想なウェズ様。母上を亡くされた上に、次期王位継承権までユージン様に奪われて』。僕にとっては聞き慣れた愚痴でも、陛下はそれを聞いて真っ先に、と判断したんだよ。そうして出した答えが、妬んでないで勉めれば、補佐くらいにはしてやるって……」

 冷たい石床に座り込んだまま、彼は胡乱な瞳で宙を見つめていた。

「失礼な話だよねぇ?」

 もう、ウェズは笑っていない。

「ただ最初に生まれたというだけでそれを強要され、勝手に人を評価して、勝手に放り出したくせに、まるで僕がそれを惜しんでいるかのように言われれて。お前たちが言ったんだろう、ユージンが王になるのは当然だ、あんなに優秀なんだからって」

 その言葉は裏を返せば。

「僕が王になれないのは当然、あんなに出来が悪いんだからって」

 周囲から無頓着に容赦なく繰り返されるユージンへの賞賛は、否が応にもウェズに暗い感情を抱かせる。
 諦め。悔しさ。憤り。
 その上、実の父親からも蔑まれ、お情けで王の補佐という役を割り当てられた。
 それを、王のみ座ることの許された玉座の隣から見下ろすユージン。

「当然を受け入れただけで、僕は、どうしてこんな扱いを受けなければならない?」

 第一王子だから? 優秀でないから? 

 ——では、どうすればよかったのか

 誰が、言ったのだろう。

 ——ウェズ様は、受け入れて、納得して、気にしていない
 ——ただ、前正妃様の関係者が反発していて

 彼は、確かに受け入れてはいた。
 彼自身は、王の器にないと。
 優秀な弟こそ、王座に相応しい。

 けれど、だからといって、辱めを甘んじて受け止めるほど、感情を殺しているわけではなかった。

「だから、何も知らずに、僕のことなんか眼中にもなく王座を約束されたユージンにも、『当然』を受け入れてもらおうと思って。僕に恨まれて奪われて当然、妬んだ出来損ないがこんな事件を起こしても当然……」

 ユウリが眉を顰めて、首を振る。

『兄は、俺を恨んでいるだろう。だからこそ俺は完璧な王にならなければならない。非の打ち所がない、譲ってよかったと思われる王になることが、知らずに何もかも奪ってしまったあの人に対する、俺の償いだ』

 ユージンの言葉を、今こそウェズに伝えるべきなのに、何故彼女の口は塞がれているのだろう。

 話は終わり、とウェズはまた笑顔を貼り付けて、ふぅふぅと荒い息を吐くユウリに向き直る。

「綺麗な肌。ユージンはもうこれを味わったのかな」
「——っ!!」

 冷たい手に首筋を撫でられて、ユウリは泣きながら首を振る。
 逃れようともがくユウリを組み敷き、ウェズは蛇のような光を放つ瞳を細めた。

「まさか、ユージンがこんな地味な一般人を恋人にするなんて、思ってもみなかったけど」

 甚だしい勘違いだ、とユウリは猿轡の下で反論するが、ウェズには届かない。

「ねえ? アイツが当たり前だと思っているものを一切持っていない落ちこぼれの僕なんかが、君を手に入れたと知ったら」

 ——僕の弟は、どんな顔をするんだろうね?

 最後の言葉は、ユウリの耳の中に直接吹き込まれ、続いてウェズの舌が捩じ込まれる。
 嫌悪感で吐きそうになりながら必死に身を捩る彼女の細い首を、ウェズの手が捕まえた。

「僕に穢された女なんか『当然』正妃になれるわけなんてないけど、そんな理不尽を受け入れてもらわなくちゃ、平等じゃないだろ?」

 ぐ、と力を入れられて、気管が潰れて息苦しくて、ユウリの抵抗が緩む。
 霞んだ視界の中で、ウェズが舌舐めずりをするのが見え、ユウリは心の中で必死にヨルンの名前を呼んでいた。

 だから、その声が聞こえた時、彼女は恐怖からくる幻聴だと思った。

「ウェズ、その手を離して」

 片手に攻撃魔法を留めながら、片手で気絶しているウェズの従者を引きずって、ヨルンはもう一度言った。

「その、汚い手を離せ」

 ウェズは、振り返りもせずに高笑いを始める。

「会長様、そんな声も出せるんだね?」
「聞こえなかった?」
「僕がこの手にほんの少し魔法をかければ、この女の息の根は止まるよ」

 言外に、動くとユウリを殺すとウェズは言う。
 ただ、彼は知らなかった。

「やってみるといい」
「甘いなぁ、会長様は。もう僕に、怖いものなんてないんだよ」

 ウェズが短く詠唱する。魔力が収束し、ユウリの喉を潰す筈だった。

 ——バシッ

「何!?」

 ユウリの魔力にウェズの魔法が弾かれ、喉を捉えていた手が外れる。その瞬間、すかさず放たれたヨルンの攻撃魔法に、彼は部屋の端まで吹き飛ばされた。

「ぐ……このっ」

 反撃のために顔を上げたウェズは、目の前に立つヨルンに驚愕する。

(こいつは、いつの間に詠唱した?)

 そう考える一瞬の間に、ウェズは今度は壁に叩きつけられ、息が詰まる。
 吐く息で自分の中の最速の呪文を唱え放った彼の魔法は、ヨルンの障壁に阻まれた。
 驚く隙も与えてもらえず、ウェズの身体を雷撃が襲う。

「……っ!」

 逃げようと壁についた彼の手が氷刃に貫かれた。悲鳴が喉をついて出る前に、鋭い刃が脚を床に縫いとめ、嫌な汗が吹き出る。

 怒涛の攻撃。
 ウェズの思考すら、その速度についていけない。

 意思とは関係なく濡れる瞳で見上げると、全身を怒りに染めた銀が見下ろしていた。
 その唇が動いたかと思うと、彼の両手に瞬く間に炎が灯る。

 その掌をウェズに向けようとした時、彼の腰に背後から力強く腕が回されて、ヨルンは振り向く。
 遅れてやってきたフォンに縛を解いてもらったユウリが、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、彼を抱きしめていた。

「ヨルン様、これ以上は」

 フォンに制され、ヨルンは手の中の炎を握り潰した。
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