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第七章 ソー・イン・ラブ(music by Don Friedman)
第七章 ソー・イン・ラブ(music by Don Friedman)8
しおりを挟む緑の木漏れ日のアーチをくぐり抜けて、大きく踏み出せば、目の覚めるような澄んだ青い空。一面に広がって、白い薄絹のような雲を透かせて、いっそう冷たく冴えわたる。
軽やかなステップで坂道を駆け上がる姿は、栗色のゆるやかな髪を山間の強い風になびかせて、そのうちに草叢へと外れて何度か足を踏み鳴らす。街にはないやわらかで瑞々しい感触を、確かめるようにその場に留まって目を閉じた。
吹き過ぎる地上よりも寒く強い風の音。びゅう、と大きく耳を過ぎ、髪を乱して頬へ冷たさを突き刺す。黒いジーンズにカーキ色のコートで、文彦はぶるっと一度だけ身震いした。左腕に嵌めた三本の細いねじれた金の腕環が、袖からちらりと覗いて同時に動く。
「寒いだろう?」
「そうでもないよ。寒さには強いから」
ケーキショップや洋食店の集まった洒落た観光街を北上して、淳史は山の麓で車を停めた。振り返らずに軽やかに進んでいく文彦を、眺めながら微笑みを浮かべた。
「あっ」
行く手に木々を切り開いたように、大きな三角屋根を持つ山小屋風のケーブルカーの駅舎が近付いて、文彦は声を上げた。一両の赤い箱型車は、ちょうど乗り場に到着しようとしている。
「あれ、見たよ。淳史と砂浜に行った日に、車から見えた。遠くから見ると天道虫みたいなのに結構大きかったんだね」
「乗ろうか?」
「うん」
階段を上がり、二人して並んでチケットを買い、車内へと入る。人はまばらで、小さな子連れの若い夫婦、友人同士だろう女性客、カメラを首から下げた男性などで、時折子どものはしゃいだ高い声が聴こえる。文彦は上のほうのベンチシートを選んで、淳史が座るのを待った。
天然目の座席と床面は照りがあって、金色の手すりは冬の日差しに鈍く輝いている。
淳史が長い脚を折って隣に座ると、脚と脚が触れ合った。
「狭いか?」
「ううん」
ほどなくアナウンスがかかってガタンとケーブルカーは動き出した。天井もガラス張りになっており、落葉した木々の枝と、常緑樹の緑の葉、空の水色が入りまじって頭上を通り過ぎていく。
「あ……滝?」
「そうだな」
剥き出しの岩を山の清水がつたい、水はねじり合わさって音を立ててドドッと落ちていく。
「秋なら紅葉が凄かったろうな」
「そうなの? 今も綺麗だよ」
無心に車窓に広がり、移り過ぎていく景色を見て、文彦の中ではどのような光景になっているのか、午睡に微睡むように瞳を細める。
淳史はもうそれ以上話しかけずに、文彦の片手を静かに取ると、自分の黒いコートのポケットへとそっと入れた。文彦はぱちりと熱さを感じて、思わず淳史を振り返って、うすく唇をひらいた。
ポケットの中でてのひらは重なり、隣に座る脚は触れ合って、互いのぬくもりは不思議なほどに体の奥まで広がっていく。
二人はもう何も話さずに、隣り合ったまま、ゆっくりと進む車内から流れていく山の景色を眺めていた。
「頂上の駅も雰囲気があったね。アールデコ調?」
「駅百選にも選ばれたらしいから。気に入ったか?」
「うん」
さらに山上へと近付けば、地上との気温差はさらに開く。文彦は寒さに強い、と言った通りに、さらに気温が下がったことに何を言うでもなく、さして動きも変わらない。
「俺のほうが寒いな」
「淳史、大丈夫?」
笑いながら、文彦は淳史の後をついていく。
淳史はケーブルカーを降りた後、迷いなく歩いていって、山上植物園のアーチをくぐった。初夏には紫陽花がひらくはずの長い木の階段を降り、一帯の芝生を大きく右回りし、左手のボートが浮かぶ大きな池も通り過ぎていく。
進むと砂道は狭くなり、脇には様々な植物が生い茂って、冬枯れのようでも秘めた強い生命の息吹がそこかしこに存在している。
文彦は人気のない道を見回しながら、時折伸びている枝に触れ、葉に触れをくり返して歩いて行った。
「文彦」
振り返って名前を呼んだ淳史の声に、文彦は顔を上げて前を見た。
そこには、常緑樹の緑の先に、空の薄青を溜めて幾重にも深めたような真青な湖――美しく青く澄んで、湖面は穏やかに、緑とのコントラストに深く青い。
誰もいない山の奥で、冷たさに沈んだ清浄な光景は、神秘的で現世を忘れそうな夢幻だった。いつか幼い頃に夢描いたような、今にも密やかにニンフが駆け抜けていきそうな、霞みがかったあわい光彩が降りた森林の湖の景色。
文彦は息を呑んで、しばらく佇んでいた。
いたずらな妖精が肩を叩いて今にも笑いながら逃げ去っていき、白く美しい鳥が舞い降りてその羽根を休めていきそうな、まるで神話の中の一場面――
「文彦」
淳史は、見惚れて立ち尽くす文彦の背中からゆっくりと腕を回して、胸の中に抱いた。
「淳史。見せたかったものって、ここ?すごく――美しいな」
溜め息とともに洩れた声は、静かな空気の中へと溶けていく。視線は湖へととらわれて、
湖面を走る微風、水の揺れるかすかな音、油彩画のような光降る空から湖への青のグラデーションを見つめている。
「それも、ある。気に入りそうだと思って」
「うん。すごく気に入った。ありがとう」
「これも気に入ってくれると――嬉しい」
淳史はてのひらの中で握りしめていた、深い青の小さなびろうどのケースをひらいた。
そこには、金の雫を集めたような、やや幅広の透かし彫り細工の指輪が納められていた。紋章となった百合と、巻き合う蔓の彫りはリングケースの中で燦然と輝いている。
「前に、こういう金の透かし彫りのバングルをしていただろう? それと合わせられるように。受け取ってくれないか?」
文彦は夢想の中から浮上し、突然のことにすぐに返す言葉を見つけられず、戸惑いを隠せなかった。
びろうどのケースの中で、金色のきらめきは自らの美を昂然と誇って、文彦の目の前にある。それはフルール・ド・リス――大天使が聖母へと贈った象徴の百合。純潔と、無垢と、威厳を込めた、天からの祝福。
いつまでも動かずにうつむいている文彦に、淳史は考えながら、ゆっくりと言葉をつむいだ。
「シルバーリングを心の拠り所にしていたみたいだから――とても大切な……」
淳史はしばらく言葉を止めていたが、ややって続きを話し出した。
「何か、心の支えを、と思って――あのリングの代わりになるのか……わからない。けれど――これからの文彦の支えに……いつかでもいい――」
淳史は様子を窺いながらそう言い終わると、文彦を胸の中に抱いたまま、ケースを白い手の中にぎゅっと握らせた。
文彦は戸惑いの中で、いつもの反応を返すこともできずに、ただ呆然とその指輪とケースをてのひらに乗せたまま立ち尽くしている。冬の風にさらされた淳史の指は冷えていて、重ねられたその指はいつもの感触と違っていて、文彦はためらいながら何とか言葉を探した。
「これは……高かっただろう? 俺には、何も、要らないんだよ……何も――」
「文彦に、持っていて欲しいんだ」
「けど」
「受け取って欲しい」
いつにない淳史の強い語気に、文彦は長い間動かなかったが、やがてゆっくりとちいさく頷いた。
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