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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)
第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)1
しおりを挟む追憶は、瞬間に訪う。
心の中の思い出は、悲しい優しさを帯びて。
夜に、闇に、光に繰り返し。
それは、かれの如く、朝日になって、西風になって。
世界のあちらに、記憶のこちらに、古いおもちゃ箱をひっくり返すように。
手の中に残った、ただ一つの消えそうなともし火を、ハラハラとこぼれ落として失ってしまわないように。
どれほどの時が経とうと、限りない想いは消え去らないのだ。
それはいつも心が、体が、どこかが軋むように痛かった――あの頃。
古びたアパートの部屋で、文彦は壁に立てかけられたミラーを見つめた。
十代後半の、少年を脱した青年の始まり。出かける時のいつもの癖で、自分自身を確かめる。
栗色のゆるくウェーブのかかった髪は頬に首筋に落ち、弓なりの眉と、物憂い二重の瞳が印象的だ。
色素のうすい唇と、肌の白さのせいで、全体的に淡く浮かび上がる水彩画の肖像のように見える。
どこか育ち損なったように体躯はほっそりとしていて、黒いロングTシャツはやや色褪せていたが、それを補うだけの若さに満ちた、不思議と玲瓏な雰囲気があった。
誰かが心で描いた運命のような、出会って堕ちてしまいたい宿命のような、そんな昏い輝きをおびた眼差しは、あやしい光に瞬いている。
何処かで見かけたような気がする――なのに、誰とも似ていない。
そんな思いを人に引き起こさせる、存在の不可思議さがそこにはあった。
大きな瞳はじっと鏡を覗き込み、それから満足そうに鏡の中の顔へと微笑を向けた。
「うん。悪くないな」
その視線は向こう見ずに挑戦的で、自分の見目の良さをよく理解している。ナルシスの耽溺に瞳をけぶらせ、自分をしか見ていない。
その姿は、ここがどんな場所かもいっそ忘れさせてしまう。
外へと出れば、ゴミ捨て場に群れたカラス、どぶのように濁った狭い川、道路の転がっていく空瓶、入り組んだ狭い路地裏、灰色の煤けた壁のビルがまばらに並ぶ。
振り返れば、散らかった部屋、黄ばんだ壁、片隅のアップライトピアノは鍵盤が凹み、壁際のせんべい布団の中からは濁ったイビキが鳴っている。
古い畳の上の万年床で、酒瓶を握りしめたまま、いつも転がっている男。それは文彦が父親、と呼んできた男だ。
そのいつもの光景を横目に、文彦は使われた形跡のないキッチンの前の、低い木机の上を、バサバサと荷物をかき分けた。
少し前に自分で買ってきたはずのパンの袋をガサガサと開けて、かたちのよい唇にぞんざいに押し込む。途中で、台所へと寄ると水道をひねり、面倒そうに顔をしかめて、蛇口から直接、水を飲んだ。
「……おい」
文彦は顔をしかめたまま振り返る。起きているとは思っていなかったのだ。
「……行くのか」
文彦は何の返事もせず、パンの袋を机へと放り投げると、足早に玄関へと急ぐ。
もう父親の癇癪に暴力が伴うことはほぼなかったが――急速に老け込み、痩せさらばえて、干からびたような体は、文彦でさえあしらえそうだった。
「治たちは……どうしてる」
「どうしてるって……相変わらずさ。もう親父にゃ関係ねえだろう」
きつい口調で、相手が言われたくない言葉を鋭く叩きこむ。長い睫毛の下で優し気な瞳をしているのに、その奥底は限りがなく、何かをひそめている。
文彦は無表情に黒い靴を履いた。胸の奥は苛々としていたが、それを感じるだけの余裕は欠いていた。
(お前の傲慢な目はあいつにそっくりだ!)
(その顔も、その姿も、どうしてあいつそのまんまなんだ!)
かつての父親の言葉を信じるならば、文彦は母親の顔を知っている。己を映す、鏡の中に。
文彦を産んだまま、何処かへと見知らぬ男と逃げるように去って行った母親。
それでも、幼少期は父親との蜜月があり、その頃から演奏家だった父親から、ピアノの手ほどきを受けたのだ。
まだその時には母親の話も聞いたし、保育園の送迎、惣菜を乗せた夕食、部屋から二人で眺めたオレンジ色の夕陽、そんなものを文彦はかすかに覚えている。
父親から聞いた話なら、文彦の母親は日本人離れした美しい少女だったのだという。ある日、ふらりとやって来てこの町に居つき、すぐに男たちは寄ってきた。
男たちに君臨し操っていると思っていた奔放な女は、実際はどうだったのか――
そして誰の子を身籠ったのか、当の本人さえわからなかったし、もしかしたら気に留めてもいなかったのかもしれない。
関係を持った男の中で、手近にいた生真面目で、押しに弱く、一人暮らしの演奏家を選んで、その部屋へと転がり込んだ。
うすうすの予感は持ちながら、それでも他の誰でもなく選ばれ頼られたことに、男はすべてを水に流そうと決めた。ただ若く美しい妊婦と、罪のない腹の赤子のために。
しかし、女は子を産んですぐに別の男と失踪した。
(比那子……比那子は、戻ってくる)
(文彦が、ここにいるのだから)
男に乳児の育児などできるわけもなく、毎日続く赤子のあまりの泣き声に通報され、文彦は乳児院へと預けられた。幾つかの交流を続け、文彦が二歳近くで乳児院から家庭復帰となった。
それは、文彦の人生の分岐点として善だったのか悪だったのか――判然とはしない。
保育園、それから小学校、父親の仕事場の片隅、音楽仲間の間へと連れて行かれた時間、そのすべては薄氷の割れそうな緊迫をひそめて、一年、また一年と重なっていった。
父親とその音楽仲間という大人たちに囲まれて、文彦は早熟な音楽の吸収をした。
父親が焦燥し、苦悩する顔を見せることが多くなったのは、その頃だった。
性の区別のゆるやかな幼い可愛らしさから、男らしい成長へと変わるはずの少年期に、文彦はやや育ち損なっていた。
そのせいで、母親の血を色濃く受け継いだ容姿は、ますます顕著になるばかりだった。
(どうして、あいつと同じ目で俺を見るんだ!)
貯金もできなかった父親は、また仕事もうまく回らなくなり、文彦が十歳の時には完全に現実から逃げた。
アルコール依存症になり、まともにピアノを弾くことも、生活のための仕事をしていくことさえ、ままならなくなった。
転がり落ちるように押し寄せた困窮と、破滅。
ただ一人の父親に頼るしかなかった、寄る辺ない子ども。
「お前は……育ててやったのに、恩知らずだ」
「恩ね。笑える」
皮肉めいた笑いは、文彦の顔が整っているだけに、悪の影を大きく現した。中学を卒業して外に出だした文彦は、もう力のない少年でもなかった。
「比那子さえいなければ! お前さえいなければ! 俺はもっと違っていたのに! 俺はまだ治たちと演れたのに!」
「自分の才能と運のなさじゃねえか。俺のせいにすんな」
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