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第三章 クライ・ミー・ア・リバー(music by Julie London)

第三章 クライ・ミー・ア・リバー(music by Julie London)5

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「ああ、武藤さんね」

 ひどく疲れたように言い捨てると、文彦は横を向いた。

「今は、あの男がついているから――そんなふうに音楽をやってきたのか? そんなことをする武藤にも軽蔑するし、それに甘んじている人間にも軽蔑する」

「つまりは、俺のことね」
「本当なのか?」
「淳史だって、武藤さんと俺とを見て、そう思ったんだろう?」

 文彦の瞳は冷たく、何の表情も表していなかった。

「混乱してる」
「え?」

 意外な言葉に面食らって、文彦は見返した。

「文彦の音楽と、一部で妬まれて出た噂と、そして文彦自身と――あまりにも色々と違っていて。そして、今の答えと。どうとらえたらいいのか。どうして、これほど気になるのか。自分でも……」

 落ちてきた前髪を指で払って、淳史は額を手で押さえた。

「確かに、立ち入ったことだ。すまない。でも、自分でも止めることができなくて……なぜ。色んなことがバラバラで――俺が見ているものはいったい何だ?そして、見ているものは?そして、俺が、ずっと見てきたことは」

 いつもは理性的な冷たくもさえ見える顔が、混迷を浮かべているのを見て、文彦は口をひらいた。ようやく言うのを決めたかのように、唇は重く、声は低かった。

「武藤さんとは、そんなじゃない」

 抑揚のない、感情を忘れ去った声だった。その瞳はかすむようになり、どこか知れない遠くを見ている。

「武藤さんは、そういうんじゃない。俺のことはともかく」
「……」
「あの人は、自分の足で立てない男なんか相手にしない。俺が、武藤さんに対して、そんな素振りを見せたら、何も言わずに消えるだろう。そもそも結構、人に非ず、だよ。武藤さんは、別に、俺を人間として見ていないんじゃないかな――お気に入りの楽器、その楽器がうまく鳴るように、調整し続けているんだ。あの人にとっては、俺はプレイヤー或いは音楽。俺は、色恋の対象にも、ましてや欲情の対象にもなりはしないよ」
「それなら……」
「俺は、別に、武藤さんのタイプでもないだろうし。そう、出会った最初から。そして、今も。あの人は本当に欲しければ、確実に虎視眈々と狙って手に入れる。金で手に入るものは、たぶんあまり興味がないんだよ。そう、そして、俺に対してはピアノを鳴らし続けることに成功した……武藤さんがいなければ、今、俺はここにいない」

(それでも弾け!弾き続けるんだ!)

 ある夜に響いた、武藤の声。
 文彦はその幻聴に、両手で耳を塞いだ。
 それは、ある奈落の記憶と直結していて、文彦は息ができなくなった。瞳はただ大きく見開かれ、だが現実のどこをも見ていない。

「ああ、そう。ピアノも、生きることも、やめることが出来なかった」
「文彦……大丈夫か?」
「何が? いったい、何が?」

 アルカイックスマイルを浮かべた文彦の表情はかすかに薄暗く、淳史は初めて見る文彦の表情に、ただ幻惑の中へと呑み込まれそうになった。

「あの、大事にしているリングは……武藤から?」

 文彦の顔が、すうと青ざめた。

「誰かから贈られたから、大事にしているんだろう? あの男から?」
「違う」

 強く言い切った声に、淳史は鋭い眼を光らせた。

「違う。そうじゃない」
「そうか――じゃあ、恋人から?」
「恋人?」

 文彦は軽く笑おうとして、その頬は強張った。

「公彦は、恋人……じゃない……」
「誰か大切な人との関わりがなければ、あんなに物を大事にしないだろう」
「恋人じゃない。俺の前には二度と現れはしない人を……」

 文彦は何かを言いかけて、顔をしかめた。ごまかすようにしていた、ズキズキと肌で踊る痛みが、だんだんと広がり、大きくなっていたからだった。

「もう――返して」

 その声は、先程までのすべてを失って、小さく弱々しかった。

「これを」

 淳史は、注意深く文彦を、何かを探りたいような眼差しで見つめていた。黒いびろうどのリングケースをテーブルにすべらすと、静かに言った。

「すまなかった」
「うん……」

 文彦は、かすかに震える手を隠すように、さっとケースを開けた。
 そこには淳史の気遣いが見てとれるように、丁寧にリングが仕舞われていて、文彦は一瞬、瞳を閉じた。

「ありがとう……」

 溜め息のように呟くと、リングだけを引き抜いて、文彦はポケットから財布を取り出した。

「あ……」

 ついさっき、治に札は取られていたことを思い出して、文彦は躊躇った。

「持ち合わせがないから……今度、払うよ……」

 今度――今度はあるのだろうか?と、文彦はぐらぐらとしてきた頭の中で考えた。

(もうこれきり、会わないのかもしれない。どこかの会場ですれ違う以外は……)

「別にかまわない、そんなこと。俺がここへと呼び出したんだから。時間を取らせて悪かった」
「……ありがとう」

 かすれた声で言うと、文彦はのろのろと立ち上がった。
 いつもの身のこなしを失って、ふらりと足元を幾分おぼつかなさそうにして歩いていく。
 淳史はその様子に気付いて、振り返った。ブルーの店内を歩いていく細い後ろ姿を見据え、店から文彦が出ていく前の一瞬に、鋭い眼は文彦の片手が変色していたことをとらえた。

「……文彦?」

 その低い呟きを、文彦は耳に入れることもなく、来た道をたどってロビーをよろよろと歩いていく。
 もう周りを気にかける余裕もなく、ただうつむいて、一歩ずつを前に出している。呼吸は速くなり、そのうちに肩を震わせて喘いだ。
 ようやく地下の駐車場へとたどり着いた時には、蒼白な顔になって、コンクリートの壁に手をついた。
 文彦は意識が朦朧としているのを感じていたが、それを押し留めることはできなかった。

(あれだ……鎮痛剤と酒のチャンポン……)

 おかしくなって笑ったつもりだったが、文彦は声一つ上げることはできなかった。
 白く霞んでいく視界で、駐車場の片隅で静かに待っていたビートルまでたどり着き、そのボディにもたれかかるようにして、ズルズルと座り込んだ。
 冷たいコンクリートの床が、じわじわと文彦の体を冷やしていく。
 遠くから、一つの歌声が幻になって聴こえてくる。
 それは、まるで夢幻、在りし日の陽炎。
 文彦は心の中でリズムを取ったつもりだったが、手はだらりと投げ出されたままで、首はがくりと傾いた。

(Down on me, down on me……)
(まるで世界中のみんなが、私を敵にしているみたい……白い目で見るのよ……)

 脳内で流れていくジャニス・ジョプリンの曲に、文彦はわずかに唇を震わせたが、青みががかった瞼を閉ざした。

(しばらく……ここに……)

 休めば何とかなるかもしれない、と頭の片隅で思ったが、その思考さえおぼろげに霧散していく。
 ふいと快いほど、体が浮くような感覚に文彦は包まれた。
 それきり文彦の体は斜めに傾いで、壊れた人形のように床に崩れ落ちた。



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