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第24話 卒業3/5
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7月30日(日)13時00分
母さんが倒れた日から三日が経った。
今日の11時頃、母さんは退院して家に帰ってきた。
検査の結果、自律神経失調症は薬で治していくことに決まったそうだ。
入院中、母さんはメタライブの人と電話でやり取りを繰り返していた。詳しくは知らないけど、引退のことで会社と話し合っていたんだと思う。時には二時間も電話していることがあったから相当揉めたに違いない。
天母マリアの引退は、母さん自身が配信で発表することに決まった。
そして、引退発表は本日14時に行われる。
「一時間前かぁ……そろそろ仕事部屋に行こうかしら」
母さんは見ていたテレビを消すと、ソファから尻を上げた。
俺もスマホをポケットに仕舞い、釣られて立ち上がる。いつもは一日中でも自分の部屋にいる俺だが、今日は昼飯を食べてからそのままリビングで時間を潰していた。引退発表が控えていると思うと、部屋でごろごろする気になれなかったんだ。
「なあ、母さん。まじでやるのか?」
「だって会社に話しちゃったし、今更やっぱり引退やめますなんてダメよ。お母さん、れっきとした社会人なんですからねっ」
えっへんと胸を張る母さんだが、余計に子どもっぽい。
「いや、そっちじゃなくてさ……本当に配信で全部話す気かってこと」
「あ、そっちね。だって、いきなり引退しますって言われても納得できない人は大勢いるでしょ? 私には翔ちゃんがいることを話して、そのうえで〝家族を大切にしたい〟ってちゃんと訴えないと理解してもらえないと思うのよ。……ファンジェルの中にはね、天母マリアを六年も支えてくれた人だっているの。そういう人に最後の最後でごまかした説明はしたくないのよ。嫌われてもいい……それでも、嘘だけはつきたくないの」
「……なるほどな」
実は結婚していて子どもがいるなんて現実、ファンの中には知りたくない人も当然いるだろうし炎上は不可避だ。それを俺以上に理解しているのに母さんは少しもためらわない。とことんファンに誠実でありたいんだ。
「そうだっ! 翔ちゃんも仕事部屋に来てみる?」
「えっ⁉」
俺は少し迷ってから、「じゃあちょっとだけ」と答えた。
配信の邪魔になるのは嫌だけど推しの仕事部屋を見てみたい欲には勝てなかった。前はちらっと覗いただけだったし。
俺は母さんに続いて仕事部屋に踏み入った。八畳ほどの仕事部屋には防音個室があり、母さんが実際に配信をするのはその個室の中だ。
ガチャ、と防音個室のドアが開けられ、明かりが点けられる。
「はぁい。秘密の仕事部屋へようこそ~」
「おぉ、おおお……っ!」
きれいに整頓された部屋だった。本棚に小型の冷蔵庫、奥の仕事机の上にはデュアルディスプレイやマイク。壁にはメタライブのポスターやタペストリーが所狭しと飾られていた。
タペストリーにはマリア自身のものもあれば、他のメンバーのサイン入りなどいろいろある。
「すげえ……もう売ってないタペストリーまである。サイン入りってたしか、フリマアプリだと安くても五万円はするんだよなー。本物は初めて見た……」
「ふふ。真っ先にグッズに目をつけるなんて、さすが私の子ね」
「メンバー同士なのにグッズを買ったりするのか?」
「うんっ。メンバーの中には推しメンがメタライブの子もいるからね。買うだけじゃなくてプレゼントしたりもするのよ。お母さんは、オフコラボでお家に遊び行ったとき渡されることが多いかなぁ。『サイン入りです! 受け取ってくださいー!』みたいな」
「へえ!」
俺がグッズに釘付けになっていると、「暑いよね。何か飲む?」と母さんが聞いた。
たしかに、蒸し暑い。防音個室にエアコンは入れられなかったようで、静音の小型扇風機が仕事机の上でせっせと首を回していた。
母さんが冷蔵庫を開ける。炭酸飲料以外はなんでも置いてあり、俺はペットボトルの麦茶をもらった。炭酸はゲップが出るから飲まないんだろう。
母さんはペットボトルのルイボスティーを一口飲み、
「じゃあ、お母さんは機材チェックに入るけど、翔ちゃんはいろいろ見て楽しんでいってね」
折角の機会だし、お言葉に甘えて部屋の中を見て回った。
本棚にはゲームソフトが押し込まれていて、誇張抜きで百個はありそうだ。ジャンルに偏りはなく、話題になったおもしろい作品は全部買っているみたいだった。
よくもまあ、これだけ買い込んだもんだな。
本棚のわきを見ると、解体されたアマゾンの段ボールが几帳面にビニール紐で束ねられ、壁に立て掛けられていた。過去に母さんが玄関で宅配便を受け取るのを何度か見たが、まさかあれの中身がゲームソフトだったとは。
また本棚に視線を戻すと、左上の棚が一か所、何も入っていないことに気づいた。
心の隙間をかたどったみたいに空いた棚には、シールが貼られている。懐かしい、小学生の頃に母さんが筆箱に貼ってくれた名札シール。棚に貼られたそれに書かれていたのは名前ではなく、『配信使用中』だった。
今日これから母さんは引退する。配信で使用中のゲームは、もう何もないんだ。
「母さん、ここのゲームって俺が借りてもいいのか?」
埃を被せておくのはもったいない。それに、中には俺が小遣いの関係で買うのを諦めたゲームもあって、パッケージを眺めていたらプレイしたくなってしまった。
「もちろんよぉ。ゲーム機もコントローラも全部貸してあげるから友達と楽しんでね。……あ、いいこと思いついちゃった! 初プレイは隣でチュートリアルしてあげるね。お母さんチュートリアル! 一緒にプレイできる特典付きよ!」
「えぇー……」
特典じゃなくてペナルティの間違いだろ。
「ぶぅ。お母さんとゲームしたくないのぉ……?」
「いや、だって……天母マリアとゲームって考えると楽しそうだけど、高一にもなって母親とゲームは人目が気になるっていうか……」
「『天母マリアですぅ。こんマリ~』」
「き、急に可愛い声を出すなァ! いいか、俺は絶対にマザコンじゃないしこの年にもなって母親とゲームはまじでしたくない! …………したくないんだが、週に二日は気が変わるかもしれないことだけは言っておくッ!」
「『はぁい。土日はマリアとい~っぱいゲームしようね♡』」
「だから声を元に戻せって!」
あざといことするなよ……かわいいなぁ(※母さんではなくマリアが)。
ふと思ったんだが、引退したら母さんは暇な時間をどう過ごすんだろう。
今までは暇ができるたびに仕事をしていた母さんだが、それをする必要もなくなる。暇な時間、ソファに座ってスマホで後輩の配信を見つめる母さんの姿は、想像していて少し寂しく感じた。
土日と言わずゲームくらいは付き合ってもいいかもしれない……急に暇になるとボケるとも聞くし。これ以上ボケられてもツッコミきれない。
「よぉし、機材チェックおしまい。配信準備できましたっ」
まだ時間に余裕があるけど、準備が終わったなら俺は出ていこうかな。
「じゃあ、俺は自分の部屋で配信を見てるから」
「うん。ありがとうね、翔ちゃん」
仕事部屋を出ようとして、俺は防音個室を振り返った。
あの四畳ほどの狭い空間で独り、これから母さんは何万人という人に全てを告白するわけだ。配信開始まであと三十分ほど。母さんほどのベテランなら集中力を高めたりして冷静に過ごすのかもしれない。
だけど、それができないこともあり得る。
心配になって防音個室の中を覗いてみたら、案の定だった。
母さんはゲーミングチェアの上で膝を抱き寄せるように三角座りをしており、壁をぼーっと眺めていて、俺がドアを開けたことにさえ気づかない。母さんが見つめる先には、天母マリアを中心にメタライブの全員が揃ったポスターがある。
今の母さんは、卒業式の後で教室に残って黒板を眺める少女のようだった。
「母さん」
「ひゃぅっ⁉」
ビクッと跳ね、母さんは慌てて椅子から立った。
「翔ちゃん? どうしたの……何か、忘れ物しちゃった?」
「いや。この後の配信さ、俺も後ろで見ていていいかな、って……」
「へ?」
「退院したばかりだし近くに人が居たほうが安全だろ? だからまあ……邪魔じゃなかったらでいいんだけど」
「~~っ! 大好きな翔ちゃんが邪魔なわけないじゃないの! 待っててね、すぐに良い椅子を持ってくるから!」
笑顔になった母さんは防音個室を一旦出ると、ゲーミングチェアを持って戻ってきた。
本音を言うと、一人残された母さんが心細そうで心配だったんだ。俺が居て何かできるわけじゃないだろうけど、推しの最後の瞬間を傍で見守るくらいはしてやりたい。
やがて、配信開始二分前。
母さんは机の上に置かれたメガネケースを手に取った。配信中はブルーライトカットのメガネをかけるらしい。
母さんがおもむろにメガネを顔に持っていく。後ろから見ると、その所作は仮面を被るときと似ていた。
「あー、あー…………よし。頑張ろう」
天母マリアの声で母さんが言った。
母さんが倒れた日から三日が経った。
今日の11時頃、母さんは退院して家に帰ってきた。
検査の結果、自律神経失調症は薬で治していくことに決まったそうだ。
入院中、母さんはメタライブの人と電話でやり取りを繰り返していた。詳しくは知らないけど、引退のことで会社と話し合っていたんだと思う。時には二時間も電話していることがあったから相当揉めたに違いない。
天母マリアの引退は、母さん自身が配信で発表することに決まった。
そして、引退発表は本日14時に行われる。
「一時間前かぁ……そろそろ仕事部屋に行こうかしら」
母さんは見ていたテレビを消すと、ソファから尻を上げた。
俺もスマホをポケットに仕舞い、釣られて立ち上がる。いつもは一日中でも自分の部屋にいる俺だが、今日は昼飯を食べてからそのままリビングで時間を潰していた。引退発表が控えていると思うと、部屋でごろごろする気になれなかったんだ。
「なあ、母さん。まじでやるのか?」
「だって会社に話しちゃったし、今更やっぱり引退やめますなんてダメよ。お母さん、れっきとした社会人なんですからねっ」
えっへんと胸を張る母さんだが、余計に子どもっぽい。
「いや、そっちじゃなくてさ……本当に配信で全部話す気かってこと」
「あ、そっちね。だって、いきなり引退しますって言われても納得できない人は大勢いるでしょ? 私には翔ちゃんがいることを話して、そのうえで〝家族を大切にしたい〟ってちゃんと訴えないと理解してもらえないと思うのよ。……ファンジェルの中にはね、天母マリアを六年も支えてくれた人だっているの。そういう人に最後の最後でごまかした説明はしたくないのよ。嫌われてもいい……それでも、嘘だけはつきたくないの」
「……なるほどな」
実は結婚していて子どもがいるなんて現実、ファンの中には知りたくない人も当然いるだろうし炎上は不可避だ。それを俺以上に理解しているのに母さんは少しもためらわない。とことんファンに誠実でありたいんだ。
「そうだっ! 翔ちゃんも仕事部屋に来てみる?」
「えっ⁉」
俺は少し迷ってから、「じゃあちょっとだけ」と答えた。
配信の邪魔になるのは嫌だけど推しの仕事部屋を見てみたい欲には勝てなかった。前はちらっと覗いただけだったし。
俺は母さんに続いて仕事部屋に踏み入った。八畳ほどの仕事部屋には防音個室があり、母さんが実際に配信をするのはその個室の中だ。
ガチャ、と防音個室のドアが開けられ、明かりが点けられる。
「はぁい。秘密の仕事部屋へようこそ~」
「おぉ、おおお……っ!」
きれいに整頓された部屋だった。本棚に小型の冷蔵庫、奥の仕事机の上にはデュアルディスプレイやマイク。壁にはメタライブのポスターやタペストリーが所狭しと飾られていた。
タペストリーにはマリア自身のものもあれば、他のメンバーのサイン入りなどいろいろある。
「すげえ……もう売ってないタペストリーまである。サイン入りってたしか、フリマアプリだと安くても五万円はするんだよなー。本物は初めて見た……」
「ふふ。真っ先にグッズに目をつけるなんて、さすが私の子ね」
「メンバー同士なのにグッズを買ったりするのか?」
「うんっ。メンバーの中には推しメンがメタライブの子もいるからね。買うだけじゃなくてプレゼントしたりもするのよ。お母さんは、オフコラボでお家に遊び行ったとき渡されることが多いかなぁ。『サイン入りです! 受け取ってくださいー!』みたいな」
「へえ!」
俺がグッズに釘付けになっていると、「暑いよね。何か飲む?」と母さんが聞いた。
たしかに、蒸し暑い。防音個室にエアコンは入れられなかったようで、静音の小型扇風機が仕事机の上でせっせと首を回していた。
母さんが冷蔵庫を開ける。炭酸飲料以外はなんでも置いてあり、俺はペットボトルの麦茶をもらった。炭酸はゲップが出るから飲まないんだろう。
母さんはペットボトルのルイボスティーを一口飲み、
「じゃあ、お母さんは機材チェックに入るけど、翔ちゃんはいろいろ見て楽しんでいってね」
折角の機会だし、お言葉に甘えて部屋の中を見て回った。
本棚にはゲームソフトが押し込まれていて、誇張抜きで百個はありそうだ。ジャンルに偏りはなく、話題になったおもしろい作品は全部買っているみたいだった。
よくもまあ、これだけ買い込んだもんだな。
本棚のわきを見ると、解体されたアマゾンの段ボールが几帳面にビニール紐で束ねられ、壁に立て掛けられていた。過去に母さんが玄関で宅配便を受け取るのを何度か見たが、まさかあれの中身がゲームソフトだったとは。
また本棚に視線を戻すと、左上の棚が一か所、何も入っていないことに気づいた。
心の隙間をかたどったみたいに空いた棚には、シールが貼られている。懐かしい、小学生の頃に母さんが筆箱に貼ってくれた名札シール。棚に貼られたそれに書かれていたのは名前ではなく、『配信使用中』だった。
今日これから母さんは引退する。配信で使用中のゲームは、もう何もないんだ。
「母さん、ここのゲームって俺が借りてもいいのか?」
埃を被せておくのはもったいない。それに、中には俺が小遣いの関係で買うのを諦めたゲームもあって、パッケージを眺めていたらプレイしたくなってしまった。
「もちろんよぉ。ゲーム機もコントローラも全部貸してあげるから友達と楽しんでね。……あ、いいこと思いついちゃった! 初プレイは隣でチュートリアルしてあげるね。お母さんチュートリアル! 一緒にプレイできる特典付きよ!」
「えぇー……」
特典じゃなくてペナルティの間違いだろ。
「ぶぅ。お母さんとゲームしたくないのぉ……?」
「いや、だって……天母マリアとゲームって考えると楽しそうだけど、高一にもなって母親とゲームは人目が気になるっていうか……」
「『天母マリアですぅ。こんマリ~』」
「き、急に可愛い声を出すなァ! いいか、俺は絶対にマザコンじゃないしこの年にもなって母親とゲームはまじでしたくない! …………したくないんだが、週に二日は気が変わるかもしれないことだけは言っておくッ!」
「『はぁい。土日はマリアとい~っぱいゲームしようね♡』」
「だから声を元に戻せって!」
あざといことするなよ……かわいいなぁ(※母さんではなくマリアが)。
ふと思ったんだが、引退したら母さんは暇な時間をどう過ごすんだろう。
今までは暇ができるたびに仕事をしていた母さんだが、それをする必要もなくなる。暇な時間、ソファに座ってスマホで後輩の配信を見つめる母さんの姿は、想像していて少し寂しく感じた。
土日と言わずゲームくらいは付き合ってもいいかもしれない……急に暇になるとボケるとも聞くし。これ以上ボケられてもツッコミきれない。
「よぉし、機材チェックおしまい。配信準備できましたっ」
まだ時間に余裕があるけど、準備が終わったなら俺は出ていこうかな。
「じゃあ、俺は自分の部屋で配信を見てるから」
「うん。ありがとうね、翔ちゃん」
仕事部屋を出ようとして、俺は防音個室を振り返った。
あの四畳ほどの狭い空間で独り、これから母さんは何万人という人に全てを告白するわけだ。配信開始まであと三十分ほど。母さんほどのベテランなら集中力を高めたりして冷静に過ごすのかもしれない。
だけど、それができないこともあり得る。
心配になって防音個室の中を覗いてみたら、案の定だった。
母さんはゲーミングチェアの上で膝を抱き寄せるように三角座りをしており、壁をぼーっと眺めていて、俺がドアを開けたことにさえ気づかない。母さんが見つめる先には、天母マリアを中心にメタライブの全員が揃ったポスターがある。
今の母さんは、卒業式の後で教室に残って黒板を眺める少女のようだった。
「母さん」
「ひゃぅっ⁉」
ビクッと跳ね、母さんは慌てて椅子から立った。
「翔ちゃん? どうしたの……何か、忘れ物しちゃった?」
「いや。この後の配信さ、俺も後ろで見ていていいかな、って……」
「へ?」
「退院したばかりだし近くに人が居たほうが安全だろ? だからまあ……邪魔じゃなかったらでいいんだけど」
「~~っ! 大好きな翔ちゃんが邪魔なわけないじゃないの! 待っててね、すぐに良い椅子を持ってくるから!」
笑顔になった母さんは防音個室を一旦出ると、ゲーミングチェアを持って戻ってきた。
本音を言うと、一人残された母さんが心細そうで心配だったんだ。俺が居て何かできるわけじゃないだろうけど、推しの最後の瞬間を傍で見守るくらいはしてやりたい。
やがて、配信開始二分前。
母さんは机の上に置かれたメガネケースを手に取った。配信中はブルーライトカットのメガネをかけるらしい。
母さんがおもむろにメガネを顔に持っていく。後ろから見ると、その所作は仮面を被るときと似ていた。
「あー、あー…………よし。頑張ろう」
天母マリアの声で母さんが言った。
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カクヨムにも連載中 ⇒ https://kakuyomu.jp/works/16817139556518382199
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