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第19話:転がり落ちていく幸せ

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「ん……」

 重たい身体を動かすと、剥き出しになった肌に滑るような絹布の感触が触れた。
 これは自分の部屋のベッドのものではない。幸輝がそう気付いたのは、微睡んでいた意識が突然覚醒した時だった。

「……っ!」

 慣れない感触に驚いて身体を起こすと、すぐ近くで人の影が動いた。誰だ、と視線を向けると、そこにはシャツとズボン姿の東岡がこちらを見ていた。

「起きたのか?」
「な……んで……」

 どうして自分はホテルのベッドで寝ているのだという顔で東岡を睨むと、ソファーから夜景を見ていた男は短い溜息を吐いた。

「事が終わった後に、意識を落としたのはお前だ。別に私は薬など盛ってはいない」

 東岡の言葉で、少しずつ記憶が繋がっていく。
 そうだ、確か今夜も東岡に呼ばれて抱かれたのだった。ただ、呼ばれたのが連日ということで、身体が思った以上に疲弊していたのだろう。セックスが終わったと同時に、自分はベッドに沈んで意識を手放した。
 己の不肖を悔やみながらも時計を見遣る。時刻は、深夜の二時を回ったところだった。こんな時間まで滞在するつもりはなかった幸輝は、ベッドから降りると、すぐに着替えを始める。

「別に、このまま泊まっていっても構わんぞ」
「……いえ、用事が済んだのなら、帰らせて頂きます」

 枯れた喉で拒絶を渡し、幸輝は水も飲まずに帰り支度を進める。事が済んだら、一秒だってこんな場所にはいたくない。その思いだけが幸輝を動かしていた。
 シャツのボタンに手を掛けた時、不意に胸元に散る赤い花弁が目に入った。
 今日は殊更、痕が多い。東岡は普段から幸輝の身体に痕を残すのを好むが、今夜は異常だ。そこまで考えたところで、幸輝は自分が情事の最中に痕をつけられることを拒んでいたことを思い出した。
 東岡は幸輝が反抗的な態度を取ると、仕置きと言って酷い仕打ちを強いる。多分、この痕もそうなのだろう。

「……くっ……」

 忌々しい痕をなるべく視界に入れないよう、幸輝は着替えを続けた。

「お前を待つ人間とは、どんな男だ?」

 誠一のことを聞かれたくない幸輝は、無言を貫くことで東岡の問いかけを一蹴する。まるで獅子に立ち向かう小動物のように全身で威嚇する幸輝に、東岡は口元だけで笑った。

「お前が頑なに守っている唇の相手が、ついさっきまでのお前の姿を見たら、どう思うだろうな」
「……っ! 僕は貴方の呼び出しに応じる約束を守っているんです。これ以上、余計なことはしないで下さい!」

 話している内に着替え終わった幸輝が、鞄を持って部屋から飛び出ようとする。

「幸輝、待ちなさい」

 呼び止められ、あからさまな苛立ちを顔に浮かべた幸輝が振り向く。すると東岡は、何かを示すように幸輝が眠っていたベッドを指差していた。
 示された場所に視線を向けると、真っ白なシーツの中に、見慣れた自分のスマートフォンが沈んでいるのが見える。

「お前が寝てる間に、何度も着信が入っていた。折り返すなら、言い訳を考えてからの方がいいぞ」

 余計なお世話だと言ってやりたかったが、喉の奥に押し留める。そのままベッドの上のスマートフォンを掴むと、今度こそ幸輝は部屋から飛び出した。そのままホテルのエントランスでタクシーを捕まえて、自分の部屋に向かって貰う。
 タクシーの中で着信履歴を調べると、十九時と二十二時に誠一から着信が入っていた。昨日は夜遅くまで顧客の審査があると言っていたから、仕事の合間に掛けてくれたのだろう。

 あの時、寝てしまわなければ着信を取ることが出来たのにと、後悔を抱きながらも、幸輝はスマートフォンをスーツのポケットにしまった。本当ならすぐに折り返したいところだが、もう時間も時間だ。誠一も自分の部屋に戻って眠ってしまっただろう。
 とりあえず電話の件は明日に回して、今は電話に出られなかった言い訳を考えなければならない。幸輝は部屋に着くまでの間、じっと目を閉じて最善の言い訳を考えた。





 ホテルにいる間に雨でも降ったのだろうか、僅かに雨の匂いがする。
 人が動かない深夜の空気と混ざると、雨の湿った香りは幾分か和らぐが、今の幸輝にはそんな違いなどどうでも良かった。
三十分程して自宅マンションに到着した幸輝は、タクシーから降りてエントランスに向かう。
 マンションの管理上、深夜になると電気が抑えられてしまったエントランスは遠目から見ても暗い。これが女性なら、暗さだけで恐怖に支配されていただろう。
 だが、東岡のもとからの帰りということもあって、珍しく一人になりたかった幸輝にはちょうどいい。そんな風に思っていた時――――。

「幸輝」

 こんな時間に聞こえるはずのない声が、幸輝の耳に届いた。ちょうどエントランスに入る直前だった幸輝が、声に反応して背後に振り向く。すると、そこには未だスーツ姿のままの誠一が立っていた。

「誠……一さん? どうして……こんな時間に?」
「こんな時間に、はこっちの台詞だろ。幸輝、お前今までどこにいた?」

 いつもより、至極低い声で問われる。表情も硬く強張っていて、それだけで誠一がただ単に幸輝に会いに来ただけではないことを表していた。

「まさかこんな時間に実家から帰ってきた、とかじゃないよな?」
「そ、れは……」
「どこにいた?」

 真っ直ぐ見つめられ、思わず怖くなって視線を逸らしてしまう。
 すっかり冷たくなった夜の風が、二人の間をサラサラと擦り抜けた。

「俺には言えない場所か?」

 もう逃げられる場所はない。頭では分かっているのに、それでも幸輝の口は真実を告げたがらない。立ち尽くしていると続く沈黙に業を煮やしたのか、誠一が徐に両手で幸輝の首元に触れた。
 間もなくして、首元でシュルシュルとネクタイの生地が擦れる音が響く。何を、と思った時には締めていた濃紫のネクタイが抜き取られていた。

「誠一さん、何を……」

 誠一の目的が何なのか尋ねてみるが、答えは返ってこない。まるで今し方の幸輝のように、誠一は沈黙を保ったまま今度はシャツのボタンに指を掛けた。

「せ、誠一さんっ!」

 そこまで来て、漸く誠一が何をしようとしているのかに気付き、幸輝は慌てて首元の手を制止する。しかし、僅かの差で誠一の動きの方が勝った。
 第二ボタンまで滑るように外され、開いた襟元を大きく左右に広げられる。

「……やっぱり、こういう理由か」

 幸輝の開いた胸元を見て、誠一が眉を顰めた。誠一が何を見てそんな顔をしたのか、確認する為に幸輝は視線を下げる。

「っ!」

 夜の空気に曝されていたのは、日に焼けていない真っ白な鎖骨や胸元に咲く複数の赤い花びらだった。人為的に散りばめられた花弁は、まだ熟したばかりの赤で、散らされてから然程時間が経っていないことをありありと伝えている。
 それが何なのか、なんて言葉にするのも愚かだ。故に、言い訳すらも出来ない。

「あ……あ……」

 誠一が凝視しているものの正体を悟った幸輝は震える両手で露わにされた胸元を覆い隠す。だが今更隠しても、もう遅いことは明白だった。

「昨日……いや、日付が変わったから一昨日の夜か。お前、西新宿のPホテルにいただろ?」
「え……あ……」
「そのホテルで、ちょうど顧客と会う約束をしてたんだよ。その時に、客室用のエレベーターに乗るお前を見つけた」

 一昨日の夜。まだ新しい幸輝の記憶は、誠一が話す内容と一致する。

「お前が乗ったエレベーターが止まった階は、政治家や著名人がよく利用するスイートルームがある階なんだってな。その日に会った顧客が、教えてくれたよ」

 幸輝のシャツから手を離し、その手を力なく垂らす。まるで今の誠一の心情を表しているようだった。

「お前が俺以外の人間と会ってるなんて信じたくはなかったが、昨日……俺には実家に帰ってたって嘘吐いただろ?」

 一昨日、幸輝がPホテルにいたところを目撃している誠一は、昨日の時点で既に幸輝の嘘に気付いていたということになる。そんなことも気付かずに、平然と嘘を吐いていたなんて。幸輝は計り知れない心苦しさに苛まれた。

「あの嘘で疑いが強くなった後に、決定打が送られてきたんだよ」
「決定打……?」

 青い顔をしながらも首を傾げる幸輝を前に、誠一が自らのスマートフォンを取り出す。そして開いた画面を、幸輝に見せた。

「なっ……!」

 誠一のスマートフォンの画面に映し出されていたのは、裸でベッドに横たわる幸輝の姿だった。

「この画像、二時間前にお前のスマホから送られて来た」

 誠一の話を聞いた瞬間に、幸輝は東岡の仕業だと勘付いた。幸輝が横たわるベッドはホテルのものだったし、何より東岡の前では出した覚えのないスマートフォンがベッドの上に転がっていたのも、今考えればおかしな話だ。
 恐らく東岡は、幸輝のメールボックスを見て相手が誠一だと断定したのだろう。しかし、まさか幸輝が寝ている間に、こんな写真を送っていたなんて思ってもいなかった。

「相手は誰だ?」

 剥き出しの狼狽を見せる幸輝に、怒りの感情が含まれた追及が突き刺さる。
 もうここまで知られてしまった以上、隠しておくことは出来ない。観念した幸輝は、視線を落としてから口を開いた。

「…………前の……職場の人です」
「くっ、……ずっと関係続けていたのか?」
「……違います」
「じゃあ、復縁を迫られて了承したのか?」

 まるで警察の取り調べのような質問が、幸輝の心の重くのし掛かる。

「それも……違います……」
「じゃあ、何でそいつに抱かれたんだよ」

 来るだろうと思っていた質問がとうとう出され、幸輝はぎゅっと目を瞑った。

「ごめんなさい……それは、答えられま……せん」 

 東岡との関係は幸輝自身が決めたことだが、その理由には玲二が関係している。そうなると例え相手が誠一であっても、迂闊に真実を話すことは出来なかった。

「何でだよ!」
「ごめんなさい……ご……めんな……さい」

 誠一の怒声が夜の闇に響く中、幸輝はただ俯いて謝罪を繰り返すことしか出来なかった。そんな幸輝に苛立ったのか、誠一がくるりと背を向けた。

「これからも、そいつとの関係を続けるつもりか?」
「……ごめん……なさい……」
「俺が人一倍束縛の強い男だと知ってるのに?」

 やはり意味のない謝罪しか返さない幸輝に、誠一が悔しそうに舌打ちをする。

「お前、一体誰が好きなんだよ!」
「……っ、僕が好きなのは、誠一さんだけです!」

 誠一を好きだという気持ちは、嘘ではない。これだけは、今の幸輝でもはっきりと言える。しかし――――。

「それを、俺はどうやって信じればいいんだ!」

 誠一の悲痛の叫びを聞いた幸輝の脳裏に、先日、誠一が同僚に言った言葉が過ぎる。
 愛を誓った人間がいるのにも関わらず、別の人間と関係を持った人間を誠一は「信じられなくなる」と言った。今、まさにその状態なのだろう。
 誠一の中にあった幸輝への信頼は、完全に壊れてしまった。

「お前は、生まれて初めて俺の欠点を受け入れてくれた奴だった。だから例えお前が男でも……最後の恋にしようと思ってた」

 唐突に告白された誠一の本人に、胸が締る。だが幸輝はすぐに気付いた。告げられた言葉が、既に過去形になっていたことを。

「でも……お前は違ってたんだな」
「っ、誠一さん、違います! そんなことありません!」

 幸輝だって同じように思っていた。自分の重すぎる依存を受け止められるのは誠一だけだから、一生大切にしたいと。その気持ちをどうしても伝えたくて、幸輝は誠一の腕を掴む。

「あ……」

 掴んだ腕は誠一の腕は、いや、身体は小刻みに震えていた。

「もう分かんねぇよ、お前……」

 誠一が震えていることに驚いた幸輝の指から、力が抜ける。その一瞬の隙をついて誠一が歩き出してしまった為、幸輝は失いたくない相手を捕まえておくことができなかった。

「誠一さん、待って……」

 目尻に溜まっていた涙が零れる。
 行かないで。振り返ってこっちを見て、お願いだから。一番言いたい言葉が、出て来ない。伸ばした手も、空気を掴んだまま動こうとしない。
 真実を話せない罪悪感から誠一を追うことも引き止めることも出来ない幸輝は、ただ小さくなっていく誠一の背を見つめる。
 やがて誠一が路地の角を曲がり、その姿が完全に見えなくなった瞬間――――幸輝が身を挺してまでも守っていたものが、無残に崩れ落ちていった。





 幸輝の世界から、また色がなくなった。
 しかも今度は以前より酷い。日中、仕事場で人の声や気配を感じていても目に映る世界は灰色だった。

 過去、どれだけ世界が灰色になっても会うことが出来た玲二にも、今は会う気力はない。
 だが、そんなのはまだ良い方だった。
 幸輝は誠一に背を向けられた日から現実を拒絶するかのように食事を受付けなくなった。更に、少し前まで簡単に出来ていた笑顔の出し方も忘れてしまった。

 毎日、明らかに栄養が足りていない青い顔をして、与えられた仕事を無表情でこなす。話し掛けられても感情のない答えしか返さない。そのせいで仕事仲間との距離が、最初の頃と同じぐらい遠くなった。

 ただ、それを幸輝本人は何とも思わなかった。否、何かを思うだけの感情が働かなかった。そう、誠一という心の柱を失った幸輝は、完全なる人形になってしまったのだ。
 人形となった幸輝は東岡に抱かれても、何も思わない。あれ程頑なに守っていた唇に触れられても、悲しみすら湧かなくなった。そんな幸輝を見て、東岡はまるで支配権を手にしたかのようにほくそ笑んだ。

 灰色の生活の中、悪魔のような男に逆らうことなく過ごす日々が三日、五日と続く。しかし幾ら元から食を抜く生活が慣れていたとはいえ、普通の人間が一週間もまともな食事を取らずにいれば弊害が出て当たり前だ。
 日に日に落ちていく体力と体重。誰が見ても分かるほどの変化は、当然本人の自覚症状にも現れていた。

 強い倦怠感や疲労感には常時襲われ、少し歩けば酷い貧血で世界が回る。息切れや突然の目眩にも悩まされた。
 だが、そんな状況でも幸輝は仕事を辞めることも、病院へ行くことも選ばなかった。恐らく人形と化した心の片隅に残った、僅かな感情が誠一との繋がりを断ちたくないと願ったからだろう。

 誠一の温もりに触れることは出来なくても、せめて近い場所にいたい。そんなささやかな願いだけが 今の幸輝の生きる糧だった。

「あ、あのさ、月瀬。この資料の返却頼めるかな?」
「……はい、分かりました」

 十一月最終週ということで忙しさの最高潮を迎えている外勤社員に、資料返却の代行を頼まれる。勿論、それも業務の一環として引き受けたのだが、荷物を渡される際に幸輝の顔を見た社員の顔は大分強張っていた。

「月瀬、すげぇ顔色悪いけど……その……大丈夫か?」
「大丈夫です。風邪が長引いているだけですから。ご心配おかけしてすみません」

 幸輝の口から出て来たのは、職場の人間に余計な心配をさせない為のものだったが、その葉には一切の感情がない。それが一層相手を萎縮させた。

「そっか、その……あんまり無理するなよ」

 笑顔を引き攣らせた社員に頭を下げ、幸輝は資料の返却へと向かう。返却先は一階下の資料室だから、階段を使った方が早いだろう。両腕にずっしりと来る資料を持って事務所を出た幸輝が階段に辿り着いた時、ふと階下から思いも寄らぬ人間の声が聞こえて来た。

「ああ、今営業所だ。夕方に会う顧客の契約書を取りに一旦戻ってる――――」

 誠一の声だった。誰かと話しているようだが、相手の声が聞こえない。多分、スマートフォンで話しているのだろう。だがそれよりも気になったのは、耳に届く声がだんだんと幸輝のもとへと近付いて来ていることだった。

 このままでは、誠一と鉢合わせてしまう。
 誠一と顔を合わせる準備が出来てない幸輝は、資料を抱えたまま目の前の階段を慌てて駆け登った。誠一は事務所に用事があるのだから、事務所よりも上の階には来ないはず。そう予測して、中腹の折り返しに隠れて座る。

 そこからそっと顔だけ出して階下を覗くと、スマートフォンを耳に当てながら話す誠一の背中が見えた。案の定、誠一は事務所のある階に入っていく。これで顔を合わすことはないと安堵した幸輝はすぐに立たず、そっと目を閉じて久しぶりに聞く愛しい声に耳を澄ました。

 ──誠一さん……。

 今まで人形だった幸輝にふと感情が戻ると、叶うはずのない願いがどんどん湧き出てきた。
 今すぐ、背中を追いかけて誠一に触れたい。
 触れて、振り返った誠一に抱きつきたい。
 そして心休まる煙草の香りと体温を、全身で感じたい。
 しかし現実はやはり幸輝に無情で、誠一の声はどんどん遠くなり、やがて消えてしまう。途端に現実に引き戻された幸輝は、知らない間に溢れ出してた涙をシャツの袖で拭って立ち上がった。

 その時。

「あ……」

 ふわりと、世界が回った。
 もうすっかり慣れてしまったこの感覚は、貧血の症状が起こる前触れだ。きっと、膝を折って座っていたから血の巡りが悪くなっていたのだろう。ただこの程度の貧血ならすぐに症状は治まるから、歩いても支障はない。すっかり貧血に慣れきっていた幸輝は、いつものように足を進めた。

 しかし、階段の途中まで降りて来たところで、幸輝は慣れた貧血と状況が違うことに気付く。いつもなら、少しの間で治まる浮遊感が中々消えない。じわりじわりと目に映る景色がぼやけ、黄色く染まっていく。例えるなら、まるで黄色の透明フィルムで目を覆われた感じだ。
 何かがおかしいと、体感したことがない状況に僅かな焦りが生まれる。だがその動揺も、続けてきた悪寒と強ばり、そして嘔気が込み上げた。風邪を引いた時にも似た症状が突然現われたことに、動揺が強くなる。

 階段の壁に寄りかかり、必死に症状が治まるのを待ってはみたものの、状態は落ち着くどころか更に酷さを増した。とうとう耐えられずに、幸輝は資料を落としてしまう。

「……くっ……」

 階段の下に大量の資料が散らばる様を薄目で見ながら、「早く片付けなきゃ」なんて考えている内に今度は身体がガクンと大きく沈んだ。突然足から力が抜けたと思った矢先に、全身がグラリと前方に倒れ込む。まるで身体が浮いたような感覚を覚えた幸輝は、そこで漸く自分が階段から落ちていることに気付いた。
 視界がスローモーションのように逆転する。恐らく人間の防御本能で、身体が勝手に受け身を取ったのだろうとまで考えが至ったところで肩と腕に衝撃が走った。

「い……っ……た………」

 そう高くない場所から落ちたということもあってか、打ち付けた痛みは耐えられない程でもない。それよりも未だ続く貧血の状況の方が、酷かった。
 幸輝が起き上がろうとしても、身体に全く力が入らない。それでも何とか打ち付けていない腕を支えにして上半身だけ起き上がったが、五秒も経たずに視界がぐにゃりと歪んで再び幸輝は硬い床に沈んだ。
 次第に耳に入る音が遠くなっていく。
 それから少しして、やけに身体が軽くなる瞬間を迎えた時には、既に幸輝の意識は深淵へと落ちていた。


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