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第18話:後ろめたい嘘
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あの夜から二週間。
幸輝は何度も東岡から呼び出しを受けては、あの無駄に豪華なホテルで抱かれる日々を過ごしていた。
東岡との関係は、昔と同じで非常に淡泊なものだ。呼ばれて、セックスして、帰る。その行程の中に愛情なんて一欠片もない。結局のところ東岡が気に入っているのは幸輝自身ではなく、幸輝の身体だけなのだ。
昔はそれで良かった。例え愛情のない関係でも、他人の体温に飢えていた幸輝はそれだけで心地良さを得ていた。
だが誠一の体温を知ってしまった今、幸輝は東岡の体温を受け入れられなくなっていた。
抱かれる度に不快感が増していく。
こういう時、一番に欲しいと思うのはやはり誠一の体温だ。けれど、今は仕事が忙しい時期だから邪魔をしたくないし、――――何より今の幸輝には誠一に抱かれる資格がない。
こんな状態が、いつまで続くのだろう。いや、正しく言うならば、誠一との関係はいつまで続けられるだろう。幸輝の身体は既に他の男に汚され、触れて貰える価値もないものになっている。そのことを人一倍束縛の強い誠一が知ったら、彼はどんな決断を下すのか。
それを考えると、怖くなって自然に誠一から足が遠退いてしまった。せっかく合い鍵を貰ったのに、幸輝は毎日下手な理由をつけては自分の部屋へと帰るのだ。
「―――――それでさ、保険金の受取人を変えたいって言われたから顧客のところに話聞きに行ったら、そこで夫婦の修羅場に巻き込まれたんだよ」
「マジ? で、原因は?」
事務所で仕事をしていた最中、不意に外勤社員達の話が聞こえて来て、幸輝は手を止めた。どうやら彼等は書類の整理をしながら、顧客の話をしているようだ。
「嫁さんの不倫。外に男作ってるのがバレて、旦那が離婚を切り出したんだ。そしたら嫁さんが怒りだしてさ。近くにある物、手当たり次第投げ付けてきたってわけ」
その喧嘩に巻き込まれて、その社員は怪我をしたのだと言う。話を聞いていたもう一人の社員が労いの言葉を掛けていると、ちょうど外から戻って来た誠一が二人の頭を丸めた書類で叩いた。
「こら、顧客の内情ペラペラ話してんじゃねーよ」
「イテテテテ。すんません。でも、悪いとは思いますけど各務さんも酷いと思いません? やっぱ一度将来を誓った人間がいるなら、他の人間と関係持っちゃ駄目だと思うんですよね」
「まぁ、それが道理だろうな」
同意を求められ、誠一が頷く。
「あっ、もし各務さんが好きになった相手にそういうことされた時、どう思います?」
「っ!」
恋人が他の男と関係を持ったら――――。今の自分と全く同じ状況を誠一がどう思うかという質問に、幸輝は一瞬で心臓を締め上げられた。
「あぁ? 何で、んなこと俺に聞くんだよ」
「参考意見ですよ。人生の先輩として聞かせて下さい」
誠一は何て答えるのだろう。
聞きたい。でも、聞くのが怖い。
幸輝は手を震わせながら、そっと聞き耳を立てた。
「不倫か……許せないというよりは、多分、相手が信じられなくなるだろうな。俺はそういうの、駄目だからよ」
「不倫や浮気はアウトってことですか?」
「ああ。相手がいるのにも関わらず、他の人間と関係を持つ奴の考えが理解出来ねぇよ」
あからさまな嫌悪感を宿した声で、誠一が自身の意見を述べる。それが耳を通り抜けた瞬間、締め上げられた心臓を突き刺された。
あまりの衝撃に、持っていたペンを落としてしまう。だがそんなことにも気付かない幸輝は、何も言わずに立ち上がると、そのまま事務所を飛び出した。
・
・
・
誰も使わない会議室に逃げ込んだ幸輝は、震える身体を抱きしめながらその場に蹲った。
『許せないというよりは、多分、相手が信じられなくなるだろうな。俺はそういうの、駄目だからよ』
誠一の言葉が、頭の中で何度も再生される。
東岡とのことを誠一に知られたら、何もかもおしまいだ。
だが必ず、誠一が真実を知る日は来る。
今は忙しいという理由で頻繁に会えないからこそ露見していないようなもので、このまま十一月が終わって仕事が落ち着けば、幸輝の行動だけで誠一も気付いてしまうはずだ。
怖い、知られたくない。
知られたら、誠一に捨てられてしまう。
今更、誠一に捨てられたくないなんて身勝手な言い分だと分かってはいるが、それでもそんなことを願ってしまう。
そんな時、幸輝の後を追うようにして誰かが会議室に入って来た。
使われていない会議室に入ってくる人間なんて、一人しか思い浮かばない。幸輝が涙に滲んだ瞳で見上げると、そこには予想通り誠一の姿があった。
「誠一……さん」
「やっぱりここか。すげー調子悪そうな顔で出ていったって聞いたけど、大丈夫か?」
会議室に入って来た誠一は、心配という言葉を全面に出した顔で幸輝に近づくと、膝を着いてこちらを覗きこんできた。
「体調、悪いのか?」
「いえ……大丈夫です……」
「大丈夫って顔してねぇぞ。ったく、まだ入社二ヶ月目なんだから無理すんな」
それでなくても幸輝は頑張りすぎだからと、労う言葉と共に頭を優しく撫でられる。しかし、ギリギリの精神状態で不意に優しくされると逆効果で、また恐怖が強くなった。
耐えられず、誠一に思い切り抱きつく。
「おっと、突然だな。どうした? ……もしかして、寂しかったのか?」
「ごめんなさい……ごめ……な……」
理由が話せない幸輝は、ただ謝ることしかできない。それでも誠一は何も言わず、幸輝の背中を包んではより深く抱き締めてくれた。
「謝るなよ。俺が迷惑だなんて、思うわけがないだろ?」
求めて止まなかった体温と心臓の音に、誠一を失いたくない思いが更に大きくなる。僕を捨てないで、という心の叫びが今にも喉から飛び出て来そうになった。
「……ごめんな、忙しさとお前の優しさに甘えて放ったらかしにしちまって。もう少ししたら仕事に切りがつくから。そしたら、休み取って二人で旅行でもしようぜ」
そう言って、誠一は幸輝の瞼に唇を落とした。
「……はい」
「ん? やっぱり体調悪いんじゃないか? 顔色も悪いし……もし耐えられないようなら、本当に早退しろよ。部屋まで俺が送ってやるから」
いつまでも笑顔が戻らない幸輝を、心から心配して早退を進める誠一。だが幸輝は、首を横に振って帰りたくないと願った。
早退なんてしたら、誠一の顔が見られなくなる。今は少しでも長く、誠一の顔を見ていたいのだ。いつ東岡の命令で、会社を辞めさせられるか分からないから。
「大丈夫です、もう少しだけ頑張ります。もし駄目そうなら、ちゃんと帰りますから」
「そっか。でも、あまり無理はするなよ」
誠一は穏やかに笑って、幸輝の頭を撫でた。
「――ああ、そうだ。体調悪い時に、こんなこと聞くのはどうかと思うんだけどよ」
少しだけ聞きづらそうな顔で、誠一が尋ねて来る。
「お前って昨日の夜、どこにいた?」
「え……?」
どうして突然、と幸輝は目を見開いた。
「あ、いや、な……昨日の夜、たまたまお前の部屋の近くで仕事があったもんだから帰りに寄ったんだけど、部屋に誰もいなかったからさ。俺の部屋かと思って帰ってもいなかったし」
加えて最近、誠一の部屋にも言っていない理由を聞かれたが、幸輝は真実を言葉にすることが出来なかった。当たり前だ、昨日の夜は東岡に呼ばれてホテルに行っていたのだから。
まさか、その間に誠一が部屋を訪ねていたなんて、思いもしなかった。
「どっか行ってたのか?」
だが束縛の強い誠一を前に、沈黙を通すことなんて出来ない。考えあぐねた幸輝は、必死に嘘の理由を捻りだした。
「あ……昨日の夜は、実家に……寄っていました。祖母が体調を崩したというので様子を見に……」
「実家に? そっか、それならいなくても仕方ないか。おばあさんは、大丈夫だったか?」
どうやら誠一は、幸輝の話を信じてくれたようだ。一安心して、笑顔を作る。
「え……ええ、僕と同じ風邪だったみたいです。今、風邪が流行ってるみたいですから、誠一さんも……気をつけてくださいね」
誠一に嘘を吐くのは忍びなかったが、何とか不自然に見えないよう繕う。
「ああ、気をつける」
口元だけで笑った誠一に、突然腕を引かれて胸の中に抱き込まれる。
「幸輝」
「はい……?」
「……今夜は冷えるらしいから、ちゃんと部屋に帰って温かくして寝るんだぞ」
まるで子供に言うような言葉だったが、幸輝を気遣う優しさはひしひしと伝わって来た。
自分はいつ、この優しさを失うのだろう。また幸輝の中に不安が芽吹く。誠一に優しくされればされるほど恐怖が募って、その度に不安に苛まれて。二人の関係が壊れるのが先か、自分が壊れるのが先か、誠一の腕の中でぼんやりと考えては、また眦に涙を溜めるのだった。
幸輝は何度も東岡から呼び出しを受けては、あの無駄に豪華なホテルで抱かれる日々を過ごしていた。
東岡との関係は、昔と同じで非常に淡泊なものだ。呼ばれて、セックスして、帰る。その行程の中に愛情なんて一欠片もない。結局のところ東岡が気に入っているのは幸輝自身ではなく、幸輝の身体だけなのだ。
昔はそれで良かった。例え愛情のない関係でも、他人の体温に飢えていた幸輝はそれだけで心地良さを得ていた。
だが誠一の体温を知ってしまった今、幸輝は東岡の体温を受け入れられなくなっていた。
抱かれる度に不快感が増していく。
こういう時、一番に欲しいと思うのはやはり誠一の体温だ。けれど、今は仕事が忙しい時期だから邪魔をしたくないし、――――何より今の幸輝には誠一に抱かれる資格がない。
こんな状態が、いつまで続くのだろう。いや、正しく言うならば、誠一との関係はいつまで続けられるだろう。幸輝の身体は既に他の男に汚され、触れて貰える価値もないものになっている。そのことを人一倍束縛の強い誠一が知ったら、彼はどんな決断を下すのか。
それを考えると、怖くなって自然に誠一から足が遠退いてしまった。せっかく合い鍵を貰ったのに、幸輝は毎日下手な理由をつけては自分の部屋へと帰るのだ。
「―――――それでさ、保険金の受取人を変えたいって言われたから顧客のところに話聞きに行ったら、そこで夫婦の修羅場に巻き込まれたんだよ」
「マジ? で、原因は?」
事務所で仕事をしていた最中、不意に外勤社員達の話が聞こえて来て、幸輝は手を止めた。どうやら彼等は書類の整理をしながら、顧客の話をしているようだ。
「嫁さんの不倫。外に男作ってるのがバレて、旦那が離婚を切り出したんだ。そしたら嫁さんが怒りだしてさ。近くにある物、手当たり次第投げ付けてきたってわけ」
その喧嘩に巻き込まれて、その社員は怪我をしたのだと言う。話を聞いていたもう一人の社員が労いの言葉を掛けていると、ちょうど外から戻って来た誠一が二人の頭を丸めた書類で叩いた。
「こら、顧客の内情ペラペラ話してんじゃねーよ」
「イテテテテ。すんません。でも、悪いとは思いますけど各務さんも酷いと思いません? やっぱ一度将来を誓った人間がいるなら、他の人間と関係持っちゃ駄目だと思うんですよね」
「まぁ、それが道理だろうな」
同意を求められ、誠一が頷く。
「あっ、もし各務さんが好きになった相手にそういうことされた時、どう思います?」
「っ!」
恋人が他の男と関係を持ったら――――。今の自分と全く同じ状況を誠一がどう思うかという質問に、幸輝は一瞬で心臓を締め上げられた。
「あぁ? 何で、んなこと俺に聞くんだよ」
「参考意見ですよ。人生の先輩として聞かせて下さい」
誠一は何て答えるのだろう。
聞きたい。でも、聞くのが怖い。
幸輝は手を震わせながら、そっと聞き耳を立てた。
「不倫か……許せないというよりは、多分、相手が信じられなくなるだろうな。俺はそういうの、駄目だからよ」
「不倫や浮気はアウトってことですか?」
「ああ。相手がいるのにも関わらず、他の人間と関係を持つ奴の考えが理解出来ねぇよ」
あからさまな嫌悪感を宿した声で、誠一が自身の意見を述べる。それが耳を通り抜けた瞬間、締め上げられた心臓を突き刺された。
あまりの衝撃に、持っていたペンを落としてしまう。だがそんなことにも気付かない幸輝は、何も言わずに立ち上がると、そのまま事務所を飛び出した。
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誰も使わない会議室に逃げ込んだ幸輝は、震える身体を抱きしめながらその場に蹲った。
『許せないというよりは、多分、相手が信じられなくなるだろうな。俺はそういうの、駄目だからよ』
誠一の言葉が、頭の中で何度も再生される。
東岡とのことを誠一に知られたら、何もかもおしまいだ。
だが必ず、誠一が真実を知る日は来る。
今は忙しいという理由で頻繁に会えないからこそ露見していないようなもので、このまま十一月が終わって仕事が落ち着けば、幸輝の行動だけで誠一も気付いてしまうはずだ。
怖い、知られたくない。
知られたら、誠一に捨てられてしまう。
今更、誠一に捨てられたくないなんて身勝手な言い分だと分かってはいるが、それでもそんなことを願ってしまう。
そんな時、幸輝の後を追うようにして誰かが会議室に入って来た。
使われていない会議室に入ってくる人間なんて、一人しか思い浮かばない。幸輝が涙に滲んだ瞳で見上げると、そこには予想通り誠一の姿があった。
「誠一……さん」
「やっぱりここか。すげー調子悪そうな顔で出ていったって聞いたけど、大丈夫か?」
会議室に入って来た誠一は、心配という言葉を全面に出した顔で幸輝に近づくと、膝を着いてこちらを覗きこんできた。
「体調、悪いのか?」
「いえ……大丈夫です……」
「大丈夫って顔してねぇぞ。ったく、まだ入社二ヶ月目なんだから無理すんな」
それでなくても幸輝は頑張りすぎだからと、労う言葉と共に頭を優しく撫でられる。しかし、ギリギリの精神状態で不意に優しくされると逆効果で、また恐怖が強くなった。
耐えられず、誠一に思い切り抱きつく。
「おっと、突然だな。どうした? ……もしかして、寂しかったのか?」
「ごめんなさい……ごめ……な……」
理由が話せない幸輝は、ただ謝ることしかできない。それでも誠一は何も言わず、幸輝の背中を包んではより深く抱き締めてくれた。
「謝るなよ。俺が迷惑だなんて、思うわけがないだろ?」
求めて止まなかった体温と心臓の音に、誠一を失いたくない思いが更に大きくなる。僕を捨てないで、という心の叫びが今にも喉から飛び出て来そうになった。
「……ごめんな、忙しさとお前の優しさに甘えて放ったらかしにしちまって。もう少ししたら仕事に切りがつくから。そしたら、休み取って二人で旅行でもしようぜ」
そう言って、誠一は幸輝の瞼に唇を落とした。
「……はい」
「ん? やっぱり体調悪いんじゃないか? 顔色も悪いし……もし耐えられないようなら、本当に早退しろよ。部屋まで俺が送ってやるから」
いつまでも笑顔が戻らない幸輝を、心から心配して早退を進める誠一。だが幸輝は、首を横に振って帰りたくないと願った。
早退なんてしたら、誠一の顔が見られなくなる。今は少しでも長く、誠一の顔を見ていたいのだ。いつ東岡の命令で、会社を辞めさせられるか分からないから。
「大丈夫です、もう少しだけ頑張ります。もし駄目そうなら、ちゃんと帰りますから」
「そっか。でも、あまり無理はするなよ」
誠一は穏やかに笑って、幸輝の頭を撫でた。
「――ああ、そうだ。体調悪い時に、こんなこと聞くのはどうかと思うんだけどよ」
少しだけ聞きづらそうな顔で、誠一が尋ねて来る。
「お前って昨日の夜、どこにいた?」
「え……?」
どうして突然、と幸輝は目を見開いた。
「あ、いや、な……昨日の夜、たまたまお前の部屋の近くで仕事があったもんだから帰りに寄ったんだけど、部屋に誰もいなかったからさ。俺の部屋かと思って帰ってもいなかったし」
加えて最近、誠一の部屋にも言っていない理由を聞かれたが、幸輝は真実を言葉にすることが出来なかった。当たり前だ、昨日の夜は東岡に呼ばれてホテルに行っていたのだから。
まさか、その間に誠一が部屋を訪ねていたなんて、思いもしなかった。
「どっか行ってたのか?」
だが束縛の強い誠一を前に、沈黙を通すことなんて出来ない。考えあぐねた幸輝は、必死に嘘の理由を捻りだした。
「あ……昨日の夜は、実家に……寄っていました。祖母が体調を崩したというので様子を見に……」
「実家に? そっか、それならいなくても仕方ないか。おばあさんは、大丈夫だったか?」
どうやら誠一は、幸輝の話を信じてくれたようだ。一安心して、笑顔を作る。
「え……ええ、僕と同じ風邪だったみたいです。今、風邪が流行ってるみたいですから、誠一さんも……気をつけてくださいね」
誠一に嘘を吐くのは忍びなかったが、何とか不自然に見えないよう繕う。
「ああ、気をつける」
口元だけで笑った誠一に、突然腕を引かれて胸の中に抱き込まれる。
「幸輝」
「はい……?」
「……今夜は冷えるらしいから、ちゃんと部屋に帰って温かくして寝るんだぞ」
まるで子供に言うような言葉だったが、幸輝を気遣う優しさはひしひしと伝わって来た。
自分はいつ、この優しさを失うのだろう。また幸輝の中に不安が芽吹く。誠一に優しくされればされるほど恐怖が募って、その度に不安に苛まれて。二人の関係が壊れるのが先か、自分が壊れるのが先か、誠一の腕の中でぼんやりと考えては、また眦に涙を溜めるのだった。
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