2 / 81
1話:どこにでもいる普通の中国ドラマオタク。
しおりを挟む
『仇は取ったよ、隣陽。どうか、安らかにーーーー』
切なげに語られた無風の言葉に、とうとう堪らず声が漏れた。
「うぅぅぅーー! やっぱカッコいいなーー!」
悶えながらタブレット端末を操作し、もう一度無風と蒼翠の最終対決のシーンに戻す。
そうして今一度! と再生しようとしたその時。
「葵衣! 何やってるの? 早くしないと遅刻するわよ!」
部屋の外から母親の怒声が届いてきて、黒川葵衣はハッと目を見開いた。
「え? あっ、ヤベッ!」
驚いて時計を見れば、すでに時間は遅刻のデッドラインを過ぎている。
一気に血の気が下がった葵衣は、大急ぎで机の上に散らばった筆記用具と教科書を鞄に突っこむと、大慌てで部屋から飛び出した。
「ヤバい! 遅刻だ!」
「まったく、なんでアンタはいつもこうなの! 試験の日ぐらい余裕を持って出るとかできないの?」
「俺だって三十分前まではそのつもりだったって! でも、気づいたらこの時間だったんだよ!」
「どうせまだ時間に余裕があるからって、ドラマ見てたんでしょう」
「う……なぜ、それを」
玄関先で鬼のような顔をして待っていた母親に言い当てられ、お気に入りの赤いスニーカーの紐を結んでいた手が思わず止まる。
「何年母親やってると思ってるの。アンタの性格なんてお見通しよ。まったく、ドラマ好きなのはかまわないけど少しはその熱意を試験にも向けなさいよね。大学の授業料だってバカにならないんだから!」
「わかってるよ。でも安心して、単位は落とさないから」
「何よ、えらく自信があるじゃない」
「今日の試験はノートの持ち込みOKなやつだから、他に比べて楽なんだよ。出席日数だって足りてるし、相当なヘマしないかぎりは落とさないって」
靴紐を結び終えてから、仁王立ちしている母を見上げる。
しかし葵衣の説明で安心したかと思いきや、母の顔は険しさを崩してはいなかった。
「あれ? どうした……の?」
「どうしたもこうしたもないわよ! ほんっと、その楽天的な思考どうにかならないのっ? お父さんそっくりで嫌になる。試験が楽だろうが、出席日数が足りてようが、遅刻して試験時間に間に合わなかったら意味ないでしょう!」
「うわっ、ごもっともすぎる!」
そうだった。どれだけ試験が楽でも、大学の定期試験は開始十分以内に席に着かなければ、試験を受ける資格がなくなるのだった。
試験が受けられなければ当然その授業の単位は落とすこととなり、次期に再履修しなければならなくなる。つまり、半年間頑張って講義に出席し続けた努力は水の泡になるということ。気づいた葵衣はすぐさま玄関を飛び出し、駅に続く道を全速力で走った。
「大丈夫、絶対間に合う!」
あと二分で最寄りの駅に到着する電車に乗ることができれば、ギリギリ試験時間に到着できる──かもしれないそんな雀の涙ほどの可能性を信じて、葵衣は冬将軍到来の冷え込みの中、悴む指先も無視してひたすら前へ前へと駆ける。
きっと、こんな葵衣の姿を見たならば、誰しもが「試験の朝からドラマなんて見なきゃいいのに」と思うだろう。
確かにそうかもしれない。
いや、確実にそうだろう。
が、しかしだ。
葵衣の中に不思議と後悔はなかった。
親の脛をかじる大学生としてあるまじきことではあるが、それぐらいさっきまで見ていた『金龍聖君』は素晴らしいドラマだからだ。うん、こればかりは仕方がない。
葵衣は高校生の頃から中華ドラマが大好きで、ここ三年ほどでもう百本以上のドラマを見てきた。その中でも金龍聖君というファンタジー時代劇は群を抜いて魅力的な作品で、最終回を見終えた今でも葵衣は心奪われ続けているのだ。なんなら今、この時、ドラマの内容を思い出すだけで全力疾走のモチベーションにすらなるぐらいに。
金龍聖君はどんな物語かといえば、主人公の無風が皇子として生まれるも殺されそうになったり、対立する国の皇子の奴隷になったりと、語るのも辛くなるほどの境遇に追い込まれるも、最後には身分をすべて取り戻し悪を討つというサクセスストーリーだ。だからなのか、中国ドラマはもともと女性ファンばかりなのだが、このドラマは男性ファンも多い。
──奴隷として扱われていた無風が皇族だと分かった瞬間に、今までバカにしてた奴らが一斉に跪いたシーンなんて、見てて最高に気分がよかったし。
不遇の立場に追いやられた無風の苦労が報われたり、功績が認められたりする度に自分のことみたいに嬉しくなる。そういった追体験を何度も味わえるから、全七十八話の長丁場を繰り返し見ても少しだって飽きない。
──あー、ドラマを思い出してたら、また見たくなってきた。
走る速度を緩めないまま、葵衣は自室のDVDレコーダーに思いを馳せる。
──よし、帰ったらもう一度一話から見直そう!
運よくも今日は試験の最終日。そして明日からは二ヶ月間という長い長い春休み。バイトもいくつか入れてはいるが、それでも最低二巡はドラマ祭りができるはずだ。
──そのためにも、まずは試験を無事に終えなきゃ!
帰ってから晴々しい気分でドラマを見るために。そう自分を鼓舞して、葵衣は二十メートル先にある駅へ向かって猛ダッシュする。
と、同時に電車の到着を知らせるベルが聞こえてきた。
──電車到着まであと三十秒か。うん、このまま改札に突っ込めば飛び乗れるな。
駅の入り口は横断歩道を渡ってすぐ。
──大丈夫、間に合う。
信号は青。葵衣はさらに速度を上げ、横断歩道へと飛び込む。
その瞬間だった。
耳を劈くような車のブレーキ音とけたたましいクラクションが突然間近で鳴り響き、葵衣は驚いて音のほうを振り向いた。
「え……?」
視界に飛び込んできたのは、暴れ馬のように車体を大きく揺らす一台の車で──。
それが葵衣の見た最後の記憶となった。
・
・
・
切なげに語られた無風の言葉に、とうとう堪らず声が漏れた。
「うぅぅぅーー! やっぱカッコいいなーー!」
悶えながらタブレット端末を操作し、もう一度無風と蒼翠の最終対決のシーンに戻す。
そうして今一度! と再生しようとしたその時。
「葵衣! 何やってるの? 早くしないと遅刻するわよ!」
部屋の外から母親の怒声が届いてきて、黒川葵衣はハッと目を見開いた。
「え? あっ、ヤベッ!」
驚いて時計を見れば、すでに時間は遅刻のデッドラインを過ぎている。
一気に血の気が下がった葵衣は、大急ぎで机の上に散らばった筆記用具と教科書を鞄に突っこむと、大慌てで部屋から飛び出した。
「ヤバい! 遅刻だ!」
「まったく、なんでアンタはいつもこうなの! 試験の日ぐらい余裕を持って出るとかできないの?」
「俺だって三十分前まではそのつもりだったって! でも、気づいたらこの時間だったんだよ!」
「どうせまだ時間に余裕があるからって、ドラマ見てたんでしょう」
「う……なぜ、それを」
玄関先で鬼のような顔をして待っていた母親に言い当てられ、お気に入りの赤いスニーカーの紐を結んでいた手が思わず止まる。
「何年母親やってると思ってるの。アンタの性格なんてお見通しよ。まったく、ドラマ好きなのはかまわないけど少しはその熱意を試験にも向けなさいよね。大学の授業料だってバカにならないんだから!」
「わかってるよ。でも安心して、単位は落とさないから」
「何よ、えらく自信があるじゃない」
「今日の試験はノートの持ち込みOKなやつだから、他に比べて楽なんだよ。出席日数だって足りてるし、相当なヘマしないかぎりは落とさないって」
靴紐を結び終えてから、仁王立ちしている母を見上げる。
しかし葵衣の説明で安心したかと思いきや、母の顔は険しさを崩してはいなかった。
「あれ? どうした……の?」
「どうしたもこうしたもないわよ! ほんっと、その楽天的な思考どうにかならないのっ? お父さんそっくりで嫌になる。試験が楽だろうが、出席日数が足りてようが、遅刻して試験時間に間に合わなかったら意味ないでしょう!」
「うわっ、ごもっともすぎる!」
そうだった。どれだけ試験が楽でも、大学の定期試験は開始十分以内に席に着かなければ、試験を受ける資格がなくなるのだった。
試験が受けられなければ当然その授業の単位は落とすこととなり、次期に再履修しなければならなくなる。つまり、半年間頑張って講義に出席し続けた努力は水の泡になるということ。気づいた葵衣はすぐさま玄関を飛び出し、駅に続く道を全速力で走った。
「大丈夫、絶対間に合う!」
あと二分で最寄りの駅に到着する電車に乗ることができれば、ギリギリ試験時間に到着できる──かもしれないそんな雀の涙ほどの可能性を信じて、葵衣は冬将軍到来の冷え込みの中、悴む指先も無視してひたすら前へ前へと駆ける。
きっと、こんな葵衣の姿を見たならば、誰しもが「試験の朝からドラマなんて見なきゃいいのに」と思うだろう。
確かにそうかもしれない。
いや、確実にそうだろう。
が、しかしだ。
葵衣の中に不思議と後悔はなかった。
親の脛をかじる大学生としてあるまじきことではあるが、それぐらいさっきまで見ていた『金龍聖君』は素晴らしいドラマだからだ。うん、こればかりは仕方がない。
葵衣は高校生の頃から中華ドラマが大好きで、ここ三年ほどでもう百本以上のドラマを見てきた。その中でも金龍聖君というファンタジー時代劇は群を抜いて魅力的な作品で、最終回を見終えた今でも葵衣は心奪われ続けているのだ。なんなら今、この時、ドラマの内容を思い出すだけで全力疾走のモチベーションにすらなるぐらいに。
金龍聖君はどんな物語かといえば、主人公の無風が皇子として生まれるも殺されそうになったり、対立する国の皇子の奴隷になったりと、語るのも辛くなるほどの境遇に追い込まれるも、最後には身分をすべて取り戻し悪を討つというサクセスストーリーだ。だからなのか、中国ドラマはもともと女性ファンばかりなのだが、このドラマは男性ファンも多い。
──奴隷として扱われていた無風が皇族だと分かった瞬間に、今までバカにしてた奴らが一斉に跪いたシーンなんて、見てて最高に気分がよかったし。
不遇の立場に追いやられた無風の苦労が報われたり、功績が認められたりする度に自分のことみたいに嬉しくなる。そういった追体験を何度も味わえるから、全七十八話の長丁場を繰り返し見ても少しだって飽きない。
──あー、ドラマを思い出してたら、また見たくなってきた。
走る速度を緩めないまま、葵衣は自室のDVDレコーダーに思いを馳せる。
──よし、帰ったらもう一度一話から見直そう!
運よくも今日は試験の最終日。そして明日からは二ヶ月間という長い長い春休み。バイトもいくつか入れてはいるが、それでも最低二巡はドラマ祭りができるはずだ。
──そのためにも、まずは試験を無事に終えなきゃ!
帰ってから晴々しい気分でドラマを見るために。そう自分を鼓舞して、葵衣は二十メートル先にある駅へ向かって猛ダッシュする。
と、同時に電車の到着を知らせるベルが聞こえてきた。
──電車到着まであと三十秒か。うん、このまま改札に突っ込めば飛び乗れるな。
駅の入り口は横断歩道を渡ってすぐ。
──大丈夫、間に合う。
信号は青。葵衣はさらに速度を上げ、横断歩道へと飛び込む。
その瞬間だった。
耳を劈くような車のブレーキ音とけたたましいクラクションが突然間近で鳴り響き、葵衣は驚いて音のほうを振り向いた。
「え……?」
視界に飛び込んできたのは、暴れ馬のように車体を大きく揺らす一台の車で──。
それが葵衣の見た最後の記憶となった。
・
・
・
21
お気に入りに追加
137
あなたにおすすめの小説
社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈
めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。
しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈
記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。
しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。
異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆!
推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!
願いの守護獣 チートなもふもふに転生したからには全力でペットになりたい
戌葉
ファンタジー
気付くと、もふもふに生まれ変わって、誰もいない森の雪の上に寝ていた。
人恋しさに森を出て、途中で魔物に間違われたりもしたけど、馬に助けられ騎士に保護してもらえた。正体はオレ自身でも分からないし、チートな魔法もまだ上手く使いこなせないけど、全力で可愛く頑張るのでペットとして飼ってください!
チートな魔法のせいで狙われたり、自分でも分かっていなかった正体のおかげでとんでもないことに巻き込まれちゃったりするけど、オレが目指すのはぐーたらペット生活だ!!
※「1-7」で正体が判明します。「精霊の愛し子編」や番外編、「美食の守護獣」ではすでに正体が分かっていますので、お気を付けください。
番外編「美食の守護獣 ~チートなもふもふに転生したからには全力で食い倒れたい」
「冒険者編」と「精霊の愛し子編」の間の食い倒れツアーのお話です。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/2227451/394680824
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!
めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。
ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。
兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。
義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!?
このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。
※タイトル変更(2024/11/27)
転生したけど赤ちゃんの頃から運命に囲われてて鬱陶しい
翡翠飾
BL
普通に高校生として学校に通っていたはずだが、気が付いたら雨の中道端で動けなくなっていた。寒くて死にかけていたら、通りかかった馬車から降りてきた12歳くらいの美少年に拾われ、何やら大きい屋敷に連れていかれる。
それから温かいご飯食べさせてもらったり、お風呂に入れてもらったり、柔らかいベッドで寝かせてもらったり、撫でてもらったり、ボールとかもらったり、それを投げてもらったり───ん?
「え、俺何か、犬になってない?」
豹獣人の番大好き大公子(12)×ポメラニアン獣人転生者(1)の話。
※どんどん年齢は上がっていきます。
※設定が多く感じたのでオメガバースを無くしました。
ちっちゃくなった俺の異世界攻略
鮨海
ファンタジー
あるとき神の采配により異世界へ行くことを決意した高校生の大輝は……ちっちゃくなってしまっていた!
精霊と神様からの贈り物、そして大輝の力が試される異世界の大冒険?が幕を開ける!
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる