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第7話:ケイの過去
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朝を迎えることが辛いと思ったのは、久しぶりだ。
目が覚めてもベッドから出る気になれない。けれど一人で布団に包まっていると、嫌なことばかり考えてしまって、どんどん落ちこんでしまう。結局起き上がった奏人は床に散らばった写真を全て破り捨て、昨日の一件で汚れた場所を綺麗に拭いて痕跡をなくした。
しかし、やはり過去と現状を拭うことができない。気分は最悪だ。
今日が仕事ならまだ少しは気が紛れたかもしれないが、こんな日に限って休日だなんて。こういう時、気分転換にと誘って出かけられる友達なんていない奏人は、途方に暮れてしまう。
予想外の来訪者が現れたのは、そんな時だった。
「ごめんね、奏人さん。来ちゃった」
突然鳴ったインターフォンに恐る恐る応答すると、聞こえてきたのはケイの声だった。
思いも寄らない人物の訪れに、奏人は双眼を丸くしながら扉を開けて迎え入れる。
「ケイ、どうしたの? 今日は仕事じゃないって電話したよね?」
「うん。だけど、一人で家にいても何もやることないし、一日ずっと会えないって考えたら寂しくなって……」
顔が見たくなったから、ここまで来たのだという。
言われてみれば今日のケイの装いは、いつも仕事に着ていくようなラフなものとは少し違った。
ワイン色のアンサンブルニットに、チャコールブラウンのジャケット、そしてジーンズ。首元には、柄を抑えたストールが緩く巻かれている。さらに、そこへ変装用の帽子と伊達眼鏡も忘れていないとなれば、これは完全に外出用の装いだと言ってもいいだろう。
しかし、まさかそんな理由だけで部屋まで訪ねてくるなんて思ってもいなかった奏人は、思わず唖然としてしまう。
ただ、それでも目の前に立つケイに対して、いつものような呆れや怒りは覚えなかった。
逆に、奏人の心はケイの来訪を喜んでいる。
「ね、ケイ、今から時間ある?」
「え? うん、あるよ」
「じゃあ、俺に付き合ってもらえないかな。気分転換に外に出ようと思ったんだけど、誘う人がいなくて……」
「も、も、勿論だよ! やった、奏人さんとデートだ!」
少女のように、胸の前で指を組んで大喜びする。普通の男がこんなことをしたら気持ち悪いが、どうやら顔がいいと許されるらしい。
「デートじゃないけど、出かける用意してくるから、ここでちょっと待っててくれる?」
「うん、待ってるよ」
玄関でケイに待って貰い、手早く着替える。
今日は仕事ではないから、スーツでなくてもいいだろう。ケイと同じようにジーンズを穿いて、厚手のカーディガンでも――――と考えていた時、ふと奏人は自分が笑っていることに気づいた。
昨夜、辛いことがあったばかりなのに。
どうやら、いつものようにケイの相手をしていると、それだけで気分が軽くなるらしい。
今日は、ケイが来てくれてよかった。
心の中でそっと感謝を告げて、奏人はケイの下へと向かった
・
・
平日の台場は休日ほど混雑していないものの、やはり観光地ともあって人が多かった。
急遽出かけることが決まった二人に大きな目的はなかったが、それでも買い物や食事、そして散歩などをして時間を過ごす。
ケイとは常に一緒に過ごしているため、奏人からしてみたら普段と大差ない日常だったが、今日は二人とも私服ということもあって、知らない人間からよく声をかけられた。勿論、呼び止められる理由はケイだ。
単に格好よかったからとか、ケイのファンだからとか、中にはケイを一般人だと思って声をかけてくる芸能事務所の人間などもいて、その度に断るのが大変だった。
だが、そんないつもと違う日常も、今は楽しい。
「いっぱい歩いて疲れたね」
じきに四月を迎える季節の日差しは温かいものの、海風に吹かれると冷える。そう言って移動カフェでコーヒーを買い、海を眺められるベンチに座った二人は、遠くに見える客船を静かに眺めていた。
「やっぱり、ケイはどこにいても目立つね」
その言葉に、ケイは目を丸くする。
「え……もしかしてボク、どこかで奏人さんに迷惑かけてたっ?」
「いや、そういうわけじゃなくて、外で普通に歩いてるだけで色々な人に声をかけられてるからさ。さすがは、セドリックに認められたモデルだって思ったんだよ」
いつもはスタジオ撮影ばかりで気づかなかったが、こういう場面を目の当たりにすると、ケイのすごさに気づかされる。コーヒーを口にしながら話すと、隣から酷く淋しそうな声が届いた。
「やっぱり……奏人さんも、ボクにショーへ出て欲しい……んだよね」
「え?」
まるで考えていなかったことを唐突に言われ、戸惑う。何故いきなりそんなことを、と思いながらケイの顔を見ると、辛そうに眉を寄せながらコーヒーのカップを握る自らの手を見つめていた。
「あっ……」
その表情で、奏人はすぐにケイの言葉の意味を悟る。
「違うよ! 今のは別にショーへ出て欲しいから言ったわけじゃない。ただ、ふと思ったことを言っただけなんだ」
自分は何という失言をしてしまったのだ。深く後悔しながら、弁解を続ける。
「俺はケイがショーに出たくないって言うなら無理強いなんてしないし、社長達も説得しようって思ってる」
持っていたコーヒーを横に置き、ケイの手を掴む。
「信じて、俺は絶対にケイを裏切らないから」
決意をこめて言うと、顔を伏せていたケイが驚いた顔をしてこちらを見た。
「奏人さん、どうしてそこまで言ってくれるの?」
マネージャーとしての本分よりも、ケイを取る。その姿勢を崩さないことを、不思議に思ったのだろう。
問われた奏人は、ずっと胸中に隠していた思いを形にした。
「俺、いつもケイには強い物言いをしてるけど、本心ではすごく感謝してるんだ」
「ボクに?」
「うん……俺さ、学生時代からどこにも居場所がなかった。でもケイと出会って、事務所に紹介してもらえて、やっと自分の居場所を見つけることができた。だから俺はマネージャーとしてより、一人の人間として、ずっとケイの味方であり続けようと思ってる」
そう決めているからと、強い目で訴えた。
「奏人さんは味方……」
奏人の決意を聞いたケイは、何かを噛み締めるかのように目を閉じると、わずかの間言葉を止めた。しかし程なくして目を開くと――――。
「ショーに出たくない理由はね、ボクの母親に原因があるんだ」
唐突に過去を告白した。
何故、話そうと思ったのかは分からない。だが、話してくれるなら聞きたいと、奏人は何も言わずに耳を傾けた。
「母親は、昔、有名なショーモデルだった。でも……彼女はボクが十四歳の時、自殺した」
ケイの母親は、モデルとして一躍脚光を浴びる最中に子を身籠もり、秘密裏に生んだ。父親は最後まで誰か言わなかったが、当時の母は、忙しいながらにもたっぷりの愛情を与えてくれたらしい。
ただ、当然のことながら母親はケイのことを隠したそうだ。現場に連れて行く時も、親戚の子を預かっていると言って場を凌いだ。
幼いケイには何故そんなことをするのか、意味など全く分かっていなかったが、母がそう願うなら、と他人の子を演じていたという。
しかし、そんな二人の歪な関係は、ケイが六歳になった時に崩壊した。ケイの存在を週刊誌に暴かれたのだ。そこから母の人生は、大きく転落した。
周囲からの痛烈な批判に、契約先からの莫大な違約金請求。そして専属契約の解除と仕事の激減。様々な不幸が、ケイの母を襲った。
元から華やかな世界で注目されることに生きがいを感じていた母親は、絵に描いたような転落人生に耐えられず、たちまち荒んだ生活に身を落としたそうだ。
ケイの世話もせず、酒に浸る毎日。最初の頃は元世界モデルが相手をするということで好意的に寄ってきた男達もいたが、気の強さとプライドの高さが仇となり、次第に男達の影も消え、最後には誰にも相手をされなくなった。
その後に始まったのが、ケイに対する酷い暴力だったらしい。
毎日毎日、「お前なんか生まなければよかった」と罵声を浴びせられ、殴られる。子供だったケイはどうすることもできず、黙って虐待を受け入れることしかできなかったそうだ。
そして、そんな生活を八年続けた後――――ケイの母は孤独と落ちぶれた自らの姿に耐えられなくなって、自ら命を断った。
ケイの目の前で、手首を掻き切って。
「そんな……」
壮絶すぎる過去に、言葉を失った。
だがそんな奏人の前で、ケイは何故か小さく笑う。
「でもね笑える話、彼女の不運な人生も自殺もボクには響かなかった。多分、虐待を受け続けたせいで、知らないうちに心が死んじゃったんだろうね」
「心が……死んだ?」
「うん。実際、冷たくなっていく彼女を見ても、血の臭いが気持ち悪いと思うだけで何の恐怖も感じなかった。勿論、葬儀でも泣けなかった。その後、彼女の昔なじみだったっていう社長に引き取られてからも、いつ自分の心臓が止まってくれるんだろうって、そればかり考えてた」
少しも感情を揺さぶらない世界は酷く億劫で、ケイは早く命を終わらせたいと考えたそうだ。ただ、それでも自殺を選ばなかったのは、母と同じ死に方を選びたくなかったから。
まるで昨日見たドラマの話をするみたいに、感情なく淡々と過去を語る。母親のことも、当たり前のように『彼女』と呼ぶ。たったそれだけでも、ケイの心の闇が相当深いことを奏人は悟った。
「普通なら自分を虐待した母親と同じ職業を選ぶなんてこともしないんだろうけど、ボクにはそれすら何も感じなかった。でも……」
「でも……?」
「どうしてもショーだけは……ダメだった。あの身体が焼けるぐらい強いライトと歓声を聞くと、勝手に身体が震えて気持ち悪くなるんだ」
前に一度だけ引き受けた時も、そのせいで舞台から下がってくる度に吐いていたらしい。
こればかりは、自分でもどうしようもできない。ケイが弱々しく話す。
確か一般的な虐待児童は、強いられた過酷な環境と似たものを本能的に避けると聞いたことがある。恐らくケイにとってショーが、その事象に当てはまるのだろう。
ショーは、トップモデルだった母親の存在理由そのもの。その記憶が感情の及ばないところで、ケイの心の傷を開いたのだ。
「ごめんね、急にこんな重たい話をして……」
「そんなこと気にしなくていいよ。俺の方こそ、辛い話をさせちゃってごめん」
謝るケイの背中を撫でながら、奏人もまた頭を下げる。自分があんなことを言わなければ、ケイは苦しい思いをしなくても済んだのに。奏人は強い後悔に苛まれた。
「でも、そういう理由なら、ショーの仕事を引き受けられなくても仕方ないよね」
ケイですら手が届かないほど奥にある心の傷を広げてまで、舞台に立たせるなんて自分にはできない。これは絶対に金井達を説得して、諦めてもらわないと。何も言わないまま心で決意していると、隣でケイがふわりと綺麗に微笑んだ。
「やっぱり、奏人さんを好きになってよかった。初めて会った時みたいに、奏人さんがボクをモデルじゃなく一人の人間として見てくれるから、少しずつでも強くなれる」
初めて出会った時、モデルとしてはなくケイ本人に対して放った「甘えるな」という叱責。あの言葉で眠っていた感情が呼び起こされ、人を愛することができるようになったと、ケイは言う。
「本当に、奏人さんはボクの救いなんだ。だからね……ショーに出るよ」
「え?」
「ボク、大好きな奏人さんのために、もっと強くなりたい」
ケイの決心を聞いて、奏人は心底驚愕した。一瞬、聞き間違えでないかと思ってしまい、もう一度確認してしまう。
「ショーって、セドリックの?」
「そう」
「で、でも舞台に立つと……」
「きっと前みたいに震えると思う。でも奏人さんに、今よりも好きになって貰いたいから、苦手なことでも乗り越えるよ」
舞台に立ったからといって、必ず奏人の心が傾くという確約もないのに、ただ好かれたいという気持ちだけでケイは前に進もうとしている。
そんなケイが、とてつもなく眩しく見えた。
そして同時に、自分がどうしようもなく弱くて意気地のない人間に思えた。
自分には、苦難を乗り越える力がない。
「もう二週間もないけど、一緒に頑張ってもらえる?」
「それは勿論かまわないけ……っ!」
同意をしようとして、不意に気づく。ショーは十三日後。彰文の期限の日だ。
「奏人さん?」
「え、あ、ああ、ごめんね。俺にできることなら何でもやるよ。だから、一緒に頑張ろう」
首を傾げているケイを、何とか笑ってやり過ごす。ただ忘れていた絶望を思い出した奏人の心は、地よりも深い場所に落ちていた。
ケイが壁を乗り越えることができたとしても、その後の姿を見てやれることができない。一緒に笑うこともできない。
そんな未来が来るとも知らずに前に進もうとしているケイを見ると、心が潰れてしまうかと思うくらい辛かった。
別れの時、自分はケイに何と言えばいいのだろう。遠くを見つめて考えても、答えなど出てこなかった。
・
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目が覚めてもベッドから出る気になれない。けれど一人で布団に包まっていると、嫌なことばかり考えてしまって、どんどん落ちこんでしまう。結局起き上がった奏人は床に散らばった写真を全て破り捨て、昨日の一件で汚れた場所を綺麗に拭いて痕跡をなくした。
しかし、やはり過去と現状を拭うことができない。気分は最悪だ。
今日が仕事ならまだ少しは気が紛れたかもしれないが、こんな日に限って休日だなんて。こういう時、気分転換にと誘って出かけられる友達なんていない奏人は、途方に暮れてしまう。
予想外の来訪者が現れたのは、そんな時だった。
「ごめんね、奏人さん。来ちゃった」
突然鳴ったインターフォンに恐る恐る応答すると、聞こえてきたのはケイの声だった。
思いも寄らない人物の訪れに、奏人は双眼を丸くしながら扉を開けて迎え入れる。
「ケイ、どうしたの? 今日は仕事じゃないって電話したよね?」
「うん。だけど、一人で家にいても何もやることないし、一日ずっと会えないって考えたら寂しくなって……」
顔が見たくなったから、ここまで来たのだという。
言われてみれば今日のケイの装いは、いつも仕事に着ていくようなラフなものとは少し違った。
ワイン色のアンサンブルニットに、チャコールブラウンのジャケット、そしてジーンズ。首元には、柄を抑えたストールが緩く巻かれている。さらに、そこへ変装用の帽子と伊達眼鏡も忘れていないとなれば、これは完全に外出用の装いだと言ってもいいだろう。
しかし、まさかそんな理由だけで部屋まで訪ねてくるなんて思ってもいなかった奏人は、思わず唖然としてしまう。
ただ、それでも目の前に立つケイに対して、いつものような呆れや怒りは覚えなかった。
逆に、奏人の心はケイの来訪を喜んでいる。
「ね、ケイ、今から時間ある?」
「え? うん、あるよ」
「じゃあ、俺に付き合ってもらえないかな。気分転換に外に出ようと思ったんだけど、誘う人がいなくて……」
「も、も、勿論だよ! やった、奏人さんとデートだ!」
少女のように、胸の前で指を組んで大喜びする。普通の男がこんなことをしたら気持ち悪いが、どうやら顔がいいと許されるらしい。
「デートじゃないけど、出かける用意してくるから、ここでちょっと待っててくれる?」
「うん、待ってるよ」
玄関でケイに待って貰い、手早く着替える。
今日は仕事ではないから、スーツでなくてもいいだろう。ケイと同じようにジーンズを穿いて、厚手のカーディガンでも――――と考えていた時、ふと奏人は自分が笑っていることに気づいた。
昨夜、辛いことがあったばかりなのに。
どうやら、いつものようにケイの相手をしていると、それだけで気分が軽くなるらしい。
今日は、ケイが来てくれてよかった。
心の中でそっと感謝を告げて、奏人はケイの下へと向かった
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平日の台場は休日ほど混雑していないものの、やはり観光地ともあって人が多かった。
急遽出かけることが決まった二人に大きな目的はなかったが、それでも買い物や食事、そして散歩などをして時間を過ごす。
ケイとは常に一緒に過ごしているため、奏人からしてみたら普段と大差ない日常だったが、今日は二人とも私服ということもあって、知らない人間からよく声をかけられた。勿論、呼び止められる理由はケイだ。
単に格好よかったからとか、ケイのファンだからとか、中にはケイを一般人だと思って声をかけてくる芸能事務所の人間などもいて、その度に断るのが大変だった。
だが、そんないつもと違う日常も、今は楽しい。
「いっぱい歩いて疲れたね」
じきに四月を迎える季節の日差しは温かいものの、海風に吹かれると冷える。そう言って移動カフェでコーヒーを買い、海を眺められるベンチに座った二人は、遠くに見える客船を静かに眺めていた。
「やっぱり、ケイはどこにいても目立つね」
その言葉に、ケイは目を丸くする。
「え……もしかしてボク、どこかで奏人さんに迷惑かけてたっ?」
「いや、そういうわけじゃなくて、外で普通に歩いてるだけで色々な人に声をかけられてるからさ。さすがは、セドリックに認められたモデルだって思ったんだよ」
いつもはスタジオ撮影ばかりで気づかなかったが、こういう場面を目の当たりにすると、ケイのすごさに気づかされる。コーヒーを口にしながら話すと、隣から酷く淋しそうな声が届いた。
「やっぱり……奏人さんも、ボクにショーへ出て欲しい……んだよね」
「え?」
まるで考えていなかったことを唐突に言われ、戸惑う。何故いきなりそんなことを、と思いながらケイの顔を見ると、辛そうに眉を寄せながらコーヒーのカップを握る自らの手を見つめていた。
「あっ……」
その表情で、奏人はすぐにケイの言葉の意味を悟る。
「違うよ! 今のは別にショーへ出て欲しいから言ったわけじゃない。ただ、ふと思ったことを言っただけなんだ」
自分は何という失言をしてしまったのだ。深く後悔しながら、弁解を続ける。
「俺はケイがショーに出たくないって言うなら無理強いなんてしないし、社長達も説得しようって思ってる」
持っていたコーヒーを横に置き、ケイの手を掴む。
「信じて、俺は絶対にケイを裏切らないから」
決意をこめて言うと、顔を伏せていたケイが驚いた顔をしてこちらを見た。
「奏人さん、どうしてそこまで言ってくれるの?」
マネージャーとしての本分よりも、ケイを取る。その姿勢を崩さないことを、不思議に思ったのだろう。
問われた奏人は、ずっと胸中に隠していた思いを形にした。
「俺、いつもケイには強い物言いをしてるけど、本心ではすごく感謝してるんだ」
「ボクに?」
「うん……俺さ、学生時代からどこにも居場所がなかった。でもケイと出会って、事務所に紹介してもらえて、やっと自分の居場所を見つけることができた。だから俺はマネージャーとしてより、一人の人間として、ずっとケイの味方であり続けようと思ってる」
そう決めているからと、強い目で訴えた。
「奏人さんは味方……」
奏人の決意を聞いたケイは、何かを噛み締めるかのように目を閉じると、わずかの間言葉を止めた。しかし程なくして目を開くと――――。
「ショーに出たくない理由はね、ボクの母親に原因があるんだ」
唐突に過去を告白した。
何故、話そうと思ったのかは分からない。だが、話してくれるなら聞きたいと、奏人は何も言わずに耳を傾けた。
「母親は、昔、有名なショーモデルだった。でも……彼女はボクが十四歳の時、自殺した」
ケイの母親は、モデルとして一躍脚光を浴びる最中に子を身籠もり、秘密裏に生んだ。父親は最後まで誰か言わなかったが、当時の母は、忙しいながらにもたっぷりの愛情を与えてくれたらしい。
ただ、当然のことながら母親はケイのことを隠したそうだ。現場に連れて行く時も、親戚の子を預かっていると言って場を凌いだ。
幼いケイには何故そんなことをするのか、意味など全く分かっていなかったが、母がそう願うなら、と他人の子を演じていたという。
しかし、そんな二人の歪な関係は、ケイが六歳になった時に崩壊した。ケイの存在を週刊誌に暴かれたのだ。そこから母の人生は、大きく転落した。
周囲からの痛烈な批判に、契約先からの莫大な違約金請求。そして専属契約の解除と仕事の激減。様々な不幸が、ケイの母を襲った。
元から華やかな世界で注目されることに生きがいを感じていた母親は、絵に描いたような転落人生に耐えられず、たちまち荒んだ生活に身を落としたそうだ。
ケイの世話もせず、酒に浸る毎日。最初の頃は元世界モデルが相手をするということで好意的に寄ってきた男達もいたが、気の強さとプライドの高さが仇となり、次第に男達の影も消え、最後には誰にも相手をされなくなった。
その後に始まったのが、ケイに対する酷い暴力だったらしい。
毎日毎日、「お前なんか生まなければよかった」と罵声を浴びせられ、殴られる。子供だったケイはどうすることもできず、黙って虐待を受け入れることしかできなかったそうだ。
そして、そんな生活を八年続けた後――――ケイの母は孤独と落ちぶれた自らの姿に耐えられなくなって、自ら命を断った。
ケイの目の前で、手首を掻き切って。
「そんな……」
壮絶すぎる過去に、言葉を失った。
だがそんな奏人の前で、ケイは何故か小さく笑う。
「でもね笑える話、彼女の不運な人生も自殺もボクには響かなかった。多分、虐待を受け続けたせいで、知らないうちに心が死んじゃったんだろうね」
「心が……死んだ?」
「うん。実際、冷たくなっていく彼女を見ても、血の臭いが気持ち悪いと思うだけで何の恐怖も感じなかった。勿論、葬儀でも泣けなかった。その後、彼女の昔なじみだったっていう社長に引き取られてからも、いつ自分の心臓が止まってくれるんだろうって、そればかり考えてた」
少しも感情を揺さぶらない世界は酷く億劫で、ケイは早く命を終わらせたいと考えたそうだ。ただ、それでも自殺を選ばなかったのは、母と同じ死に方を選びたくなかったから。
まるで昨日見たドラマの話をするみたいに、感情なく淡々と過去を語る。母親のことも、当たり前のように『彼女』と呼ぶ。たったそれだけでも、ケイの心の闇が相当深いことを奏人は悟った。
「普通なら自分を虐待した母親と同じ職業を選ぶなんてこともしないんだろうけど、ボクにはそれすら何も感じなかった。でも……」
「でも……?」
「どうしてもショーだけは……ダメだった。あの身体が焼けるぐらい強いライトと歓声を聞くと、勝手に身体が震えて気持ち悪くなるんだ」
前に一度だけ引き受けた時も、そのせいで舞台から下がってくる度に吐いていたらしい。
こればかりは、自分でもどうしようもできない。ケイが弱々しく話す。
確か一般的な虐待児童は、強いられた過酷な環境と似たものを本能的に避けると聞いたことがある。恐らくケイにとってショーが、その事象に当てはまるのだろう。
ショーは、トップモデルだった母親の存在理由そのもの。その記憶が感情の及ばないところで、ケイの心の傷を開いたのだ。
「ごめんね、急にこんな重たい話をして……」
「そんなこと気にしなくていいよ。俺の方こそ、辛い話をさせちゃってごめん」
謝るケイの背中を撫でながら、奏人もまた頭を下げる。自分があんなことを言わなければ、ケイは苦しい思いをしなくても済んだのに。奏人は強い後悔に苛まれた。
「でも、そういう理由なら、ショーの仕事を引き受けられなくても仕方ないよね」
ケイですら手が届かないほど奥にある心の傷を広げてまで、舞台に立たせるなんて自分にはできない。これは絶対に金井達を説得して、諦めてもらわないと。何も言わないまま心で決意していると、隣でケイがふわりと綺麗に微笑んだ。
「やっぱり、奏人さんを好きになってよかった。初めて会った時みたいに、奏人さんがボクをモデルじゃなく一人の人間として見てくれるから、少しずつでも強くなれる」
初めて出会った時、モデルとしてはなくケイ本人に対して放った「甘えるな」という叱責。あの言葉で眠っていた感情が呼び起こされ、人を愛することができるようになったと、ケイは言う。
「本当に、奏人さんはボクの救いなんだ。だからね……ショーに出るよ」
「え?」
「ボク、大好きな奏人さんのために、もっと強くなりたい」
ケイの決心を聞いて、奏人は心底驚愕した。一瞬、聞き間違えでないかと思ってしまい、もう一度確認してしまう。
「ショーって、セドリックの?」
「そう」
「で、でも舞台に立つと……」
「きっと前みたいに震えると思う。でも奏人さんに、今よりも好きになって貰いたいから、苦手なことでも乗り越えるよ」
舞台に立ったからといって、必ず奏人の心が傾くという確約もないのに、ただ好かれたいという気持ちだけでケイは前に進もうとしている。
そんなケイが、とてつもなく眩しく見えた。
そして同時に、自分がどうしようもなく弱くて意気地のない人間に思えた。
自分には、苦難を乗り越える力がない。
「もう二週間もないけど、一緒に頑張ってもらえる?」
「それは勿論かまわないけ……っ!」
同意をしようとして、不意に気づく。ショーは十三日後。彰文の期限の日だ。
「奏人さん?」
「え、あ、ああ、ごめんね。俺にできることなら何でもやるよ。だから、一緒に頑張ろう」
首を傾げているケイを、何とか笑ってやり過ごす。ただ忘れていた絶望を思い出した奏人の心は、地よりも深い場所に落ちていた。
ケイが壁を乗り越えることができたとしても、その後の姿を見てやれることができない。一緒に笑うこともできない。
そんな未来が来るとも知らずに前に進もうとしているケイを見ると、心が潰れてしまうかと思うくらい辛かった。
別れの時、自分はケイに何と言えばいいのだろう。遠くを見つめて考えても、答えなど出てこなかった。
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