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薫くんはこわがり
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最近、日々の生活が曖昧な気がする。
たとえば今日は何曜日なのかとか、あれから何回寝て何日経ったのかとか、机の上にずっと置きっぱなしになっているお皿の上のドーナツのかけらが腐っているのか食べられるのかとか、そういうことがよくわからなくなってきた。
でもとにかく、紗奈ちゃんが泊まりで遊びに来るのが今日だということはわかる。薫くんから、今日は昼前に帰るねというラインが来たからだ。
紗奈ちゃんが遊びにくるとき、薫くんは必ず家にいようとする。
「ただいま」
何日ぶりに聞いたかわからないその声を聞いて、ちょっとうるっときてしまった。ひさしぶり、と言いそうになって、その言葉をあわてて呑み込む、言ってしまえば本当に久しぶりに会ったことになってしまいそうだった。
「紗奈ちゃんはもう来てるの?」
「ううん。あと一時間くらいじゃないかな」
「そっか。じゃ、ちょっと仮眠させて」
薫くんはすくない荷物をわたしに渡し、寝室へ向かった。
家を出るとき着ていた服はどこにいったのかとか、数日間パンツはどうしてたのかとか、久しぶりに帰ってきたのに風呂には入らないのかとか、出てきたたくさんの疑問は口に出す前に答えがわかってしまうので全て頭から振り払う。
お昼ちょっと前、おみやげをたくさん持った紗奈ちゃんがやってきた。
わたしはきちんとした笑顔で迎えられていただろうか。〈紗奈ちゃんが来る前に薫くんとセックスする作戦〉が失敗して、笑顔がゆがんでいたかもしれない。
薫くんは今起きたのだとは思えないくらいぱっちりした目で、寝室から出てきた。
「紗奈ちゃん、久しぶりだね」
にこりと笑うと目尻がさがって、急に幼く見えるその顔がいとおしくて、抱きしめたくなる。だけどあまりにはきはきとしゃべるから、仮眠なんて嘘だとわかってしまった。こっそりなにかしてたんじゃないかと一瞬疑ったけれど、単純にわたしのセックス計画を見抜いていただけかもしれない。薫くんはいつからか、わたしに触れたがらない。
外面がいい薫くんは、妻の友達にはいい人だと思われたい。だからわざわざ帰ってくるのだ、あざといなあ、だけどそんなところも好きなのかもしれなかった。
薫くんはお客さんがいるとお茶もいれるし、洗濯物をとりこんでみせたり、おつまみを作ったりもする。だけどわたしと紗奈ちゃんがおしゃべりするのを濁ったビー玉みたいな目でじっと見ているから、二人でないしょの話をされるのがこわいから見張っているんだろうなとも思う。
リビングでたくさんおしゃべりして(薫くんはずっと楽しそうに聞いていた)、映画を流し見しながらお酒を飲んで(薫くんは明日仕事が早いからと言ってオレンジジュースを飲んだ、だから本当に仕事なんだろうなとわかった)、零時をすぎたら思い出話に花を咲かせて、二時ごろ、薫くんはさすがに「まだ話したりないけど、明日仕事だから」と名残惜しそうに寝室に入った。
そうしたらなぜか、夏休みの宿題が全部終わったときみたいに気持ちが晴れやかになった。わたしは紗奈ちゃんに抱きついたりお酒を一気飲みしたりした。低俗な飲み会みたいな安っぽいノリが、楽しくて仕方なかった。
特にたのしかったのが、紗奈ちゃんが見せてくれた頭のおかしな人の映像だった。
「動画サイトをちょっと探せば、こんなのたくさん出てくるよ」
それを聞いて、どきどきした。世界に向けて自分がおかしいということを発信するって、どんな気分なんだろう。店員に怒鳴りつけて取り押さえられる人、自ら危険なことをして気絶する人。いろんな頭のおかしなひとたちを見せてもらっていたら、紗奈ちゃんのスマホが急に真っ暗になった。
「充電切れちゃったかな。充電ケーブルある?」
「持ってきてないの?」
「借りようと思っておいてきちゃった」
ぺろりと舌を出した紗奈ちゃんを見て、仕方ないなあ、と腰を上げる。
充電ケーブルは寝室にあるので、本当は取りに行きたくなかった。だけど紗奈ちゃんの頼みだし、もう薫くんも寝ているだろうし、大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。
本当は、一人でいる薫くんのところに突然行くのがこわいのだった。
甘ったるい声で電話している薫くんを見てしまったときのことを思い出して、頭の奥がひんやりする。その記憶に引っ張られるようにして、一人でしている薫くんと目が合ってしまったときのことも思い出す。なにか言おうと口を開いた瞬間に飛び散った精液。ひとりのときの薫くん。
廊下に続くドアを押すと、何かに当たって開かなかった。あれ、と思ってもう一度押すと今度は開いた。薫くんがすぐそこに立っていた。
「どうしたの」
平静を装って言葉をしぼりだすと、薫くんは無表情のまま、
「ああ、寝ちゃってた」
と言った。
どこも見てないみたいな目がこわかった。こんなところで寝るわけがないだろと鳥肌がぶわあと立った。風邪引いちゃうよと言葉を絞りだすと、そうだね、と薫くんはくるりと方向を変えて、寝室へ入っていった。
気がついたら日は既に昇っていて、紗奈ちゃんはソファで寝て、わたしは床で横たわっていた。カーテンの隙間から入る日差しが、ピンポイントでわたしの目を射貫く。
時計を見たらまだ五時半だった。たぶん二時間くらいは寝たはずだ、一度も目を覚まさなかったなんてすごい。ひとりぼっちの日はレム睡眠がくるたびに薫くんの悪夢を見て目を覚ます。
たとえば今日は何曜日なのかとか、あれから何回寝て何日経ったのかとか、机の上にずっと置きっぱなしになっているお皿の上のドーナツのかけらが腐っているのか食べられるのかとか、そういうことがよくわからなくなってきた。
でもとにかく、紗奈ちゃんが泊まりで遊びに来るのが今日だということはわかる。薫くんから、今日は昼前に帰るねというラインが来たからだ。
紗奈ちゃんが遊びにくるとき、薫くんは必ず家にいようとする。
「ただいま」
何日ぶりに聞いたかわからないその声を聞いて、ちょっとうるっときてしまった。ひさしぶり、と言いそうになって、その言葉をあわてて呑み込む、言ってしまえば本当に久しぶりに会ったことになってしまいそうだった。
「紗奈ちゃんはもう来てるの?」
「ううん。あと一時間くらいじゃないかな」
「そっか。じゃ、ちょっと仮眠させて」
薫くんはすくない荷物をわたしに渡し、寝室へ向かった。
家を出るとき着ていた服はどこにいったのかとか、数日間パンツはどうしてたのかとか、久しぶりに帰ってきたのに風呂には入らないのかとか、出てきたたくさんの疑問は口に出す前に答えがわかってしまうので全て頭から振り払う。
お昼ちょっと前、おみやげをたくさん持った紗奈ちゃんがやってきた。
わたしはきちんとした笑顔で迎えられていただろうか。〈紗奈ちゃんが来る前に薫くんとセックスする作戦〉が失敗して、笑顔がゆがんでいたかもしれない。
薫くんは今起きたのだとは思えないくらいぱっちりした目で、寝室から出てきた。
「紗奈ちゃん、久しぶりだね」
にこりと笑うと目尻がさがって、急に幼く見えるその顔がいとおしくて、抱きしめたくなる。だけどあまりにはきはきとしゃべるから、仮眠なんて嘘だとわかってしまった。こっそりなにかしてたんじゃないかと一瞬疑ったけれど、単純にわたしのセックス計画を見抜いていただけかもしれない。薫くんはいつからか、わたしに触れたがらない。
外面がいい薫くんは、妻の友達にはいい人だと思われたい。だからわざわざ帰ってくるのだ、あざといなあ、だけどそんなところも好きなのかもしれなかった。
薫くんはお客さんがいるとお茶もいれるし、洗濯物をとりこんでみせたり、おつまみを作ったりもする。だけどわたしと紗奈ちゃんがおしゃべりするのを濁ったビー玉みたいな目でじっと見ているから、二人でないしょの話をされるのがこわいから見張っているんだろうなとも思う。
リビングでたくさんおしゃべりして(薫くんはずっと楽しそうに聞いていた)、映画を流し見しながらお酒を飲んで(薫くんは明日仕事が早いからと言ってオレンジジュースを飲んだ、だから本当に仕事なんだろうなとわかった)、零時をすぎたら思い出話に花を咲かせて、二時ごろ、薫くんはさすがに「まだ話したりないけど、明日仕事だから」と名残惜しそうに寝室に入った。
そうしたらなぜか、夏休みの宿題が全部終わったときみたいに気持ちが晴れやかになった。わたしは紗奈ちゃんに抱きついたりお酒を一気飲みしたりした。低俗な飲み会みたいな安っぽいノリが、楽しくて仕方なかった。
特にたのしかったのが、紗奈ちゃんが見せてくれた頭のおかしな人の映像だった。
「動画サイトをちょっと探せば、こんなのたくさん出てくるよ」
それを聞いて、どきどきした。世界に向けて自分がおかしいということを発信するって、どんな気分なんだろう。店員に怒鳴りつけて取り押さえられる人、自ら危険なことをして気絶する人。いろんな頭のおかしなひとたちを見せてもらっていたら、紗奈ちゃんのスマホが急に真っ暗になった。
「充電切れちゃったかな。充電ケーブルある?」
「持ってきてないの?」
「借りようと思っておいてきちゃった」
ぺろりと舌を出した紗奈ちゃんを見て、仕方ないなあ、と腰を上げる。
充電ケーブルは寝室にあるので、本当は取りに行きたくなかった。だけど紗奈ちゃんの頼みだし、もう薫くんも寝ているだろうし、大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。
本当は、一人でいる薫くんのところに突然行くのがこわいのだった。
甘ったるい声で電話している薫くんを見てしまったときのことを思い出して、頭の奥がひんやりする。その記憶に引っ張られるようにして、一人でしている薫くんと目が合ってしまったときのことも思い出す。なにか言おうと口を開いた瞬間に飛び散った精液。ひとりのときの薫くん。
廊下に続くドアを押すと、何かに当たって開かなかった。あれ、と思ってもう一度押すと今度は開いた。薫くんがすぐそこに立っていた。
「どうしたの」
平静を装って言葉をしぼりだすと、薫くんは無表情のまま、
「ああ、寝ちゃってた」
と言った。
どこも見てないみたいな目がこわかった。こんなところで寝るわけがないだろと鳥肌がぶわあと立った。風邪引いちゃうよと言葉を絞りだすと、そうだね、と薫くんはくるりと方向を変えて、寝室へ入っていった。
気がついたら日は既に昇っていて、紗奈ちゃんはソファで寝て、わたしは床で横たわっていた。カーテンの隙間から入る日差しが、ピンポイントでわたしの目を射貫く。
時計を見たらまだ五時半だった。たぶん二時間くらいは寝たはずだ、一度も目を覚まさなかったなんてすごい。ひとりぼっちの日はレム睡眠がくるたびに薫くんの悪夢を見て目を覚ます。
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