ゆううつな海のはなし

七草すずめ

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しあわせの群れに(三)

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 今夜の夏祭りも、あれ、来るかな。
 ね、イルカ。あたし最近彼氏とケンカしてばっかりだから、来てほしいなぁ。
 いっしょに見て結婚したのって、七つ上の先輩だっけ?
 ちがうよ、みっちゃん先輩の四個上って言ってたから、たぶん……
 恥じらいなく足を開いてイスに腰かける女の子たちの頭を、先生が教科書でパタンと叩く。
「うわさ話なら、休み時間にどうぞ」
 ばれたー、とケラケラ笑う派手な女の子たち。この子たちはきっと、イルカの群れなんかにすがるほど不幸ではないのだ。丸くなってしまった鉛筆の先にキャップをし、反対側のキャップを外す。視線が勝手にななめ前に向く。
 鉛筆の後ろをかじってしまうのは、小学生の頃からの癖だった。なぜ物を大切にしない、とおじいちゃんに怒られ泣いていたわたしに、「反対側も削っちゃえば?」と声をかけてくれたのが彼だった。それだけだったけど、それからずっと好きだった。
 飽きるほど見てきたうなじと少し癖のある髪。首の近くにつむじがあることに、彼自身気付いていなかった。生え際にホクロがあることにも。
 不意に彼が振り返る。ぱちりと目が合うと、目だけでにやりと笑った。
『なに見てんの?』
 いじわるを言われたような気がして、胸がきゅっとする。恥ずかしい。二人だけの秘密。
 休み時間だって放課後だって、わたしたちは言葉を交わさない。あの女の子たちみたいに、校内で堂々と手をつないだりキスしたりするなんて、考えられない。付き合っているなんて周りに知られたら、わたしも彼も、今以上にいじめられるだろう。
 薄暗くなった神社のはじっこ。通りから死角になった片隅で、手を重ねる。
「夏祭りの日に、イルカを見たいの」
 彼は少し笑って、いいよ、とつぶやいた。

 は、あぁぁ……う……
 耳元にかかる呼吸と漏れる低い声。吐き気がする。おぞましい重みに、いっそ気を失えれたらと思うけれど、意識はこんなにもはっきりしている。
 口まわりのひげと、生暖かい息が気持ち悪い。
 さっきはさみを入れられたわたしの服はあんなに遠くにあるし、屋上は絶望的に暗かった。コンクリートに当たる頭が痛い。無理やり開かれた足が痛い。心が痛む余裕もないくらいに、体すべてが痛い。
 待ち合わせの時間はとっくに過ぎている。きっともうすぐ彼が来てくれる、彼が助けてくれる、もうすぐ、彼が。そう思ってから、いったいどれくらい経っているのだろう。目の前の見知らぬ男は、いつ果ててくれるのだろう。
 横たわったままで視界に入るのは、おぞましい表情の男と、ちょうちんでほんのり明るくなった夜の空。あのちょうちん灯りがイルカを呼んでいる、なんてうわさを聞いたことがあった。ほの明るく安心する、ぼんやりとあたたかい色。抵抗する気力も失せて、からっぽになってしまったわたしを満たすあかり。
 本当は気付いていた。扉のかげに彼がいること。
 そうだよね、怖いよね。飛び出してきて助けてくれるのなんて、おとぎ話の王子様だけだよね。
 かなしくて可笑しくて、もうなんだかどうでもよくて。涙と汗とよくわからない汁でまみれたわたしの顔は、もう二度と彼に微笑みなんて向けられない。
「ころして、ください」
 激しい動きに言葉をつまらせながら、最後にそう願う。男はにやにや笑って、そういうのがすきなの、とつぶやいた。伸びてきた両腕がわたしの首にあてられて、ぐっと体重がかかる。苦しくなったら少しゆるめられて、また絞められて。ああ、しまる。男の口から漏れた言葉が、耳に届いた最期の音だった。
 あなたといっしょに、幸せの群れを見たかった。しずかに、ゆるやかに、意識は遠のいた。
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