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第八章 復帰、失恋、泣き笑い。

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 例の事件から丸一週間が経過した日、私は何事もなかったかのように職場に復帰した。
「主任がね、上の教授方にかなり熱心に掛け合ったらしいよ」
 のんびりした調子で話す今野さんに、私は書類を振り分ける手を止めた。今野さんの目尻に、優しいしわが寄る。
「小野寺ちゃんが居ない間、仕事があちこち滞っちゃってねー。帰ってきてくれて本当に良かった」
「今野さん……」
「これからも末永く、宜しくね?」
「こ、こちらこそ」
「小野寺さんっ!?」
 ドアノブを明らかに無視した開閉の音が、事務室一帯に響きわたる。反射的に見遣った視線の先にいる予想通りの人物に、私は思わず苦笑を漏らした。
「中吉ちゃん。扉は静かに開けましょうって、もうこれで何回目?」
「っ、小野寺さぁ~んっ!」
 鼻をぐずぐずと鳴らしながら駆け寄ってきた中吉ちゃんに、私は受け身を取る間もなく抱きしめられた。後ろにひっくり返りそうになりながらも、胸元で額を擦りつけている後輩に緊張が解けていく。
 他の同僚たちも、深くは聞かずに労いの言葉をかけてくれた。もちろん真意はわからない。中には私の復帰に反対の声もあっただろう。仕事中に利用者から注がれる視線も、今まで以上に神経をすり減らせる。
 それでも今、自分にこの場が与えられた。それが心底有り難かった。



「何やってんだよ。杏姉」
「薫」
 昼休憩中。大学キャンパスを横切る小川に沿うように並ぶベンチに、私は腰を下ろしていた。
 先ほどまで私の隣に座っていた女の子が遠ざかっていく。その後ろ姿を穴が開くくらい凝視した後、薫は足早に駆け寄ってきた。
「何だよあの女。ここの学生?」
「みたいだね」
「杏姉……まーた厄介事に巻き込まれてんじゃねぇだろーな?」
 あの事件以来、こいつの過保護体制はなかなか治りそうもないらしい。凶暴な視線を浮かべている薫を見て、私はぷっと吹き出した。
「違うって。ちょっと相談を受けてただけ」
「は? 相談?」
「恋愛相談。だからそんな物騒な目をしなさんな」
 きょとんと目を丸くする薫。私も周囲のこの変化には若干戸惑っていた。
 先日図書館内で繰り広げられた過去の暴露は、思わぬ方向で今に尾を引くことになった。
 男子学生から不埒で軽い視線を向けられることは予想通りではあったが、女子学生から向けられる視線はというと、それとは全く逆のものになっている。
「どうやら例の事件のせいで、今までの美人で近寄りがたかった私のイメージが一変したって」
「自分で言うな」
「言われたんだもん」
 肩を竦め、先ほどの彼女が消えていった先を眺める。私の主観がどの程度役に立つのかはわからない。それでもあの笑顔を向けてもらえたことは、私にとって決して悪いことではなかった。
「他人の恋路をどうこう口出せる身分かよ」
 あらま。無遠慮に踏み込んできた幼馴染みの足に、私はじろりと睨み付ける。それでも言い返してこない私を見るや否や、薫は大げさに肩を竦めた。
「人があれだけ奮起させてやったってーのによ。結局まだ、連絡も取ってねぇの?」
「会ったよ。偶然。近所のスーパーで」
 振り返った薫と、目を合わせられなかった。
「他の女の人と一緒だった。夕飯の買い物に来てたみたい」
「は?」
「気遣いがあってしっかり者で優しそうな人だよ。私とは、まるで逆のタイプだね」
 対峙する幼馴染みの眉間にはみるみるうちに深いしわが刻まれていく。目の前を流れる小川のせせらぎの音が、場違いに瑞々しく辺りに立ちこめる。
「他の女といた、だぁ?」
「薫、ドスが利きすぎ」
「見間違いじゃねぇよな? 惚れた男を見間違えるなんて有り得ねぇよな?」
 色々言いたいことがあったが、肯定の意を込めて頷く。
 見間違いだったらどんなにいいだろう。何度となく脳裏に蘇るふたりの姿に、性懲りもなく目の奥が熱くなる。
「杏姉」
「わっ、え……!?」
 完璧に思考に浸かっていた私は、薫の罵声のような呼び掛けに肩を跳ねさせることしかできなかった。
 長い指に難なく持ち上げられた顎も、気持ちのいい快晴の下に突如覆われた陰りも、吐息のかかる距離で交わされた視線も。
 唐突に重ねられた――唇への、熱い感触も。
「こんくらい、大目に見ろよな」
 薫が言葉を紡ぐ間も、私は目を見開いたまま言葉が出てこない。
「俺だってこんなことしても仕方ないって、ちゃんと分かってる」
「……」
 こんな、こと?
 ロボットのように機械的に頭に置かれたひらがなのパーツ。それらがそぞろに繋ぎ合わされて完成させた意味合いが、みるみるうちに実感を帯びて私に襲いかかった。
「薫」
「へっ――」
 間抜けに呑み込んだ声に耳を貸す間を与えない。振りかざした手のひらを、力一杯に油断した頬にぶち当てる。
 勢い余ってベンチから転がり落ちた幼馴染みに、私は絶対零度の視線を突き刺した。
 頬に真っ赤な紅葉を張り付けた薫が、「きゃーこわいー」とふざけた声を出す。もう一遍やってやろうか。
「ス、ストップストップ! 杏姉ちょい待った! ほら、周りから痛いくらいの視線が注がれていますよ!」
「あいにく私の精神は、一連の事件のお陰で大層図太く成長を遂げてるんだよ」
「……ぷ、はははっ」
 両足だけをベンチに置き去りにして寝そべったまま、薫は身体全体で笑いだす。
 頭でも打ったかと本気で思いかけた矢先、その笑い声の節々に僅かな震えを見つけた。
「結構辛いんだからな。俺も」
「……薫?」
「杏姉の泣き顔は、もう見たくない」
 言うなり、目の前を振り上げられた両足が空を切る。振り子のように軽く上体を起こした薫は、真っ直ぐこちらを見上げてきた。
 痛いのを我慢している顔だった。
「だけど。今の杏姉を泣かせられるのも、涙を止められるのも、俺じゃない」
 川辺の冷たい空気が、喉に詰まる。
「もう――俺じゃ、駄目なんだろ」
 ひとつの恋が終わった音が聞こえた。
 幼い頃からいつも一緒にいた。姉弟によく間違われた。おばさんに一緒に怒られた。バスケの練習に何度も付き合った。どんどん広くなる背中を寂しく思った。薫は私にとって、家族以上に刻み込まれた存在だった。
「今のキスは、飼い犬に咬まれたと思って流せよ。ただの悪あがきだからさ」
 いつの間にかすり替わっていた表情に私は呆然とする。いつからこんな器用になっていたのだろう。曇り無いガラスのように透けて見えていたはずの奴の感情が、霧がかった中で薄められ、自然な笑顔を張り付けている。
 自分の感情よりも優先する何かのために。
「何で泣くんだよ」
「アンタのせいだよ。馬鹿」
 職場近くで涙を滲ませるなんて、前ならば考えられない。
 すん、と小さく鼻を鳴らす。長く吐き出した息をしばらく見送った。
「ありがとう」
 泣き笑いになった。
「どういたしまして」
 薫は再び地面に寝転がり、空を仰いだ。つられて私も空を見る。
 地上でくすぶる私たちの存在が嘘みたいに、どこまでも突き抜けるような青だった。
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