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第六章 追求、暴漢、記憶の蓋。

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 暴漢は知らない間に逃げ出していた。
 転倒した際に右足を挫いていた私は、透馬におぶさりながら「カフェ・ごんざれす」に運ばれた。
「杏ちゃん、そこに座ってて。今救急箱とってくる」
「……ん」
 吐息のような返答をし、早足で店裏に消えていく背中をぼうっと眺める。
 生まれて初めて、狂気に満ちた人間を見た。
 それは自分の考えの遙かに及ばない場所にあるのだと、今ならわかる。あんな淀んだ瞳に、たとえ何を訴えかけたところで無駄だった。
 恐怖が身を竦ませ、再び蘇りそうになる震えに慌てて身体を抱きしめる。呑まれそうになる思考に、何度も何度もかぶりを振った。
(……んちゃん。あーんちゃん)
 屈辱が蘇ってくる。気持ち悪い。
(早く言えって。言わなきゃコレ、この池に投げ込むぞ。いいのか?)
(ほら。言ってみろって)
 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!
 近付くな。触るな。声変わり最中のガラガラ声が、逃げても逃げても耳にへばりつく。
 どうして、私が、こんな――……!
(――ンアンちゃん?)
「……気持ち悪い……っ」
「気持ち悪い?」
 いつの間にか戻って来ていた透馬が、はっと何か気付いたように手を打った。
「あ、もしかして吐きそう? この桶使う?」
「……違うよ。さっきの男のことが、気持ち悪いって言っただけ」
 呆れ半分に伝えながら、自分の口元にふっと笑みが戻ったことに気付く。
 胸を撫で下ろした様子の透馬が救急箱を置くと、包帯や消毒液などをせっせとテーブルに並べていく。まるで小さな病院かと思える品揃えに、私は目を点にした。
「昔は喧嘩っ早い知り合いの客層が多かったからさ。自然と救急道具が揃ってきちゃったんだ。最近はほとんど活躍してないけどね」
「昔?」
「うん。それはそうと、まずは杏ちゃんの手当でしょ。とりあえず一番酷いのは……脚か」
 向けられた視線に、私は無言で頷く。それなりの厚みがあったはずのチノパンが、今は膝元に見るも無惨な穴を開けている。当初は血で真っ赤に滲んでいた傷跡も、既に周囲が黒ずんできていた。出血を免れた箇所も、灰色に煤けている。
「滲みると思うけど、砂が残ると良くないから」
「ん。平気」
 床に腰を下ろした透馬は、無駄な動きひとつせず、黙々と治療を進めていた。挫いた右足を桶の水に浸からせ、消毒液を吹き付けた脱脂綿をそっと傷口に当てる。
 繊細な手つきに情を感じ、心の中に微かな温もりが灯るのを感じた。
「ひとまず膝は、これでいいかな」
「……」
「杏ちゃん?」
「ありがとう」
 こぼれ落ちた言葉に、薄茶色の瞳が大きく見開かれていた。
「助かったから。あのままだったら私、本当にどうなってたかわからない」
 あの男が取り出したライター。
 そこから生み出された炎が、熱を感じる近さまで寄せられた。
 透馬が現れたのがもう一瞬後だったとしたら。そんな考えが頭をよぎり、再び恐怖に胸がざわつく。
 無意識に胸を押さえつけていた右手に、冷たい感触が添えられた。いつもなら冷え性の私よりよっぽど、温もりに満ちているはずの透馬の手が。
「とう、ま……?」
「本当なら、ここで杏ちゃんのこと抱きしめたい。それで少しでも、杏ちゃんが安心できるなら」
「……!」
「出来るわけないよね。俺も、ほとんど同罪なんだからさ」
「え?」
 しばらく逡巡して、ようやくある記憶が蘇ってくる。
 思えば――透馬とこうして顔を合わせるのは、あのデートの時以来だった。
 途端、雨宿りの最中に交わされた「やりとり」がまざまざと思い返され、動揺に肩を強ばらせる。そんな私の反応に、透馬は寂しげに眉を下げた。
「償い、なんて。本当に勝手な自己満足なんだけど」
 先ほどまで桶水に浸かっていた右足に、そっと冷たい水がかけられる。
「俺がもっと早く通りかかっていたら、こんな怪我もしなくて済んだのに」
「っ、それは」
「杏ちゃんに辛い思いさせてばかりで。本当に……ごめ、」
「謝るなっ、この馬鹿!」
 腹の底から吹き出した叫びだった。
「私はっ、今っ、『ありがとう』って言ったの!」
「!」
「何か文句でもあるの!? あ!?」
「な、ないない! ない、です……けど」
「けど!?」
「ままま全く文句ないですッ!」
 首を高速で横に振る透馬に、私は大げさに鼻を鳴らした。それでもどこか懐疑心を滲ませた視線に気付き、私は長い溜め息を吐く。
「もう、いいから」
 精一杯の勇気を振り絞った。続けた言葉に震えが混じりそうで、そっと視線を逸らす。
「あの日のことは……許す。今日こうして助けられたから、言ってるわけじゃないよ」
 何か口を挟もうとしかけた透馬を、視線で制する。いいから。ちょっと黙って聞いておけ。
「確かにあの日以降しばらくは苛立ってた。でも実際、数日で怒りも冷めてたから。私自身、フェミニストのあんたに隙を見せ過ぎてたところもあるし」
 あの憎ったらしいキスマークも、三日と持たずに消え失せていたし、というのは心の中で付け加えた。
「杏、ちゃん」
「だからっ、そんなしょぼくれた顔してないでよ。馬鹿透馬」
 必死に言葉を紡いでいる自分が、私自身よくわからなかった。引きの態度に出ている奴に、調子が狂わされているのかもしれない。
「今まで通り、杏ちゃんに話しかけても……いい?」
 図られたような上目遣い。だから、そういう目はやめろって言うのに。
「うざったくない程度ならね」
「また、M大図書館に借りに行っても?」
「利用者の自由を奪うつもりはないよ」
「……っ」
「……? とう、」
 ま、と続ける前に、「はぁ~……っ」という笑い声にも泣き声にも聞こえる溜め息が奴の口からこぼれた。
 顔が伏せられていて、その表情を見ることが出来ない。
「嫌われたかと思ってたんだ」
「!」
「杏ちゃんに、嫌われたと思ってた。だから――、」
 すっげぇ……嬉しいよ。俺。
 告げられた直後、微かに上げられた顔。
 そこには紅潮した頬に加えて、緩みきった笑顔が浮かんでいた。いつも飄々としているこいつには似合わない、感情をそのまま乗せたような笑顔だった。
「……良かったね。大好きな『杏ちゃん』に嫌われずに済んで?」
 何と口にすればいいのかわからず、つい憎まれ口が出てしまう。
 透馬は一瞬目を丸くしたものの、次の瞬間には柔らかな眼差しを向けてきた。
「うん。大好きな杏ちゃんに嫌われなくて、本当に良かった」
「……っっ」
 畜生。墓穴を掘った。
 一言一言を大切に噛みしめるような奴の返答に、頬が燃えるように熱くなった。
 しかしながら一方で、こんなやりとりを予想していた自分にも気付いていた。
 こいつが出会ってから、ずっと抱いていた疑問を投げつけるために。
「どうして、私なの」
 独り言のような呟きは、夜遅くの店内に染み込んでいく。
「正直、出会ってこんな短期間で、ここまでご執心にされるのが腑に落ちない」
 敏いこいつのことだ。後腐れない夜の相手くらい容易に見分けることは出来るだろう。
「ただの気紛れじゃないの? それとも、前に何処かで会ったことがあるとか……」
「……うーん」
 痛いところを付かれた。そんな表情を浮かべて、透馬はしばらく口を閉ざした。
 時折右足にかけられる水の音が、店内に控えめに響く。
「幻滅されたくないから」
 小さく囁かれた言葉は、思いがけないものだった。
「出来ればこのまま、曖昧でも側に居れたらって思ってた。その中で少しずつでも、俺のことを好きになってもらえたらって……そう思ってた」
「それは、どういう……」
「気紛れなんかじゃない」
 凛とした空気。息をするのもはばかれる雰囲気に、胸がやけに緊張する。
 唇をぎゅっと噤んだ。
「俺が初めて杏ちゃんに逢ったのはね。二年前の――」
 ピリリリッ……ピリリリッ……。
 やけに耳に届く機械音が、張りつめた空気をあっさりと払拭した。
 私の着信だ。好機を遮った己の所有物に眉をしかめる。
「はは。出て。杏ちゃん」
「……ん」
 決まり悪くて顔を伏せながらそそくさとスマホを取り出す。
 先程の暴漢のこともあり一瞬画面を見ることをためらったが、表示された名前にどっと肩の力が抜けた。
「なんだ。中吉ちゃんか」
「中吉?」
「職場の後輩。でも何だろ。こんな遅くにかけてくるなんて」
「その後輩さ」
 唐突にスマホに伸ばした手とは反対の手を掴まれる。非難の視線を向けた私だったが、逼迫した透馬の様子にそれも削がれてしまう。そして、何よりも――。
「もしかして……名前は、『姫乃(ひめの)』?」
 確信的に質された、その名前は。
「違うけど……それ、一体誰の名前――」
(あの人のことは、もういい)
 次の瞬間、フラッシュバックした無感情な声色に、記憶の底をかき混ぜられたような感覚に陥った。
 何? 誰の声?
 頭がぐるぐる重く回って、意識が遠退きそうになる。
(姫乃……っ) 
 スマホから鳴る着信音は、いつの間にか潰えていた。
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