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第六章 追求、暴漢、記憶の蓋。

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 半月ぶりに発生した中傷騒ぎは、瞬く間に大学中に知れ渡ることとなった。
 もともと話題の矢面に立たされることが多かった自分に、強力なゴシップネタがついたんだ。周囲の反応は面白いほど様変わりした。生徒からは嘲りの視線を遠慮なく浴びせられ、教授陣からはわざわざ私を指定してはくどい程のレファレンスを要求する。
 こんな状況を汲み取った主任は、早々に私を裏方の事務仕事に回すことを決めた。
(事務作業が済んだ後は、貴女が必要と思う作業に時間を使いなさい)
 司書仲間が腫れ物に触れるように事務室を出ていく中、主任から耳打ちされた言葉。その意図に気付かないほど私も鈍くはない。
 業務時間を使ってもいい。犯人の正体を、何としても暴きなさい――と。

「いやぁ~、まさか小野寺さんの方からお越しいただけるとはねぇ。美人司書さんはどこも引っ張りだこだろうに、恐縮ですわ。わっはっは!」
 気にしない。気にしない。背後ででっぷりとした腹を揺らすセクハラ親父に一度振り返り、社交辞令の愛想笑いを返す。
 事務作業を一心不乱に済ませた私は、「オサワリ」教授こと尾沢教授の研究室に足を踏み入れていた。にやにや楽しげに眺めているセクハラ親父の監視下のもと、あたりの書類を片っ端から洗う。
 中傷文の中で発見された、旧字の「澤」と新字の「沢」の使い間違い。そこから何とか、犯人特定の糸口を見いだすために。
「私の名前ねぇ。市役所で新字の『沢』に変える手続きをしてからは、わざわざ旧字を使った覚えはないけどねぇ」
「旧字が掲載されたままの、昔の資料を講義で使用した可能性は?」
「僕の研究材料は常に最新情報。過去の遺物に用はないんだよ。資料の墓場にお住まいの司書さんたちとは違ってね」
 誇らしげに反らされた顎に、唾を吐き付けたくなる。
「司書の方ももう少し大学の研究に協力した方がいい。事務職の子たちを見なさい。こちらが頼めばやれ資料だ、やれ領収書だとわざわざこの研究室まで足を運んでくれるというのに、君たちと言ったら……」
「図書館司書の職務は原則館内で行われます。館外への資料の運搬までは規定に御座いませんので」
「はっはっは! 窓口でニコニコしてるだけのお姫様とは格が違うってか?」
 汚い、下卑た笑い。パンパンに張っているその腹を蹴り飛ばしたくなる。
 それでも、かけなしの理性が中傷よりも酷い言葉を押し止め、私は話を戻した。
「印刷物も自署も、旧字の使用はないと?」
「ないね。大体、資料作成や手書きサインだって、昔から旧字を使う方が少なかった。画数が多くて面倒だからな。さっさと変更手続きをしときゃあ良かったよ」
 昔から、旧字を使うことがなかった?
 確かに先ほどから見られる印刷物は全て、5年以上前のものであっても新字の『沢』を使っているようだ。
 でも、それなら逆に、何故犯人は今回『澤』の字を使ったのだろう。
 例え5年以上前に教員名簿で新字に変わる前の『澤』を目にしたとしても、今の今までそのことを覚えているものだろうか。
「何でも構いません。他に何か、心当たりはありませんか」
「だから、ないと言って――……」
 色気のない話に早くも飽きたらしい教授は、ソファーに勢いよく腰を沈める。
 そして次の瞬間、眠気すら浮かんでいた彼の表情に、微かなひらめきが走るのが見て取れた。
「心当たり、おありなんですね?」
「うーん……そうだなぁ」
 勿体付けたように自らの顎を撫でる。その間、教授の視線は余裕しゃくしゃくに私の頭から足先までを撫で回していた。重そうな腰を上げ、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
 気にしない。気にしない。繰り返し自分に言い募る。
「教えていただけませんか」
「まぁ、私自身謂われない誹謗中傷で迷惑しているからねぇ」
 謂われなくはないだろ。
「でもまぁ、火がないところに煙はたたないと言う」
「っ、ちょ」
「幼少から少々手癖が悪いとは言われていたがなぁ。いや、こりゃ失敬」
 不作法に伸ばされた手が、さっと腰に添えられた。咄嗟に間合いを取ったが、このセクハラ親父は悪びれる様子もなく再度近付いてくる。跳ね上がりそうな心臓を何とか沈めた。
 こんな展開だって、予想していなかったわけではない。
「大切な娘さんが来年大学入試だそうですね、尾沢教授」
 愛想笑いで一矢報いる。目の前の肉塊の動きがぴたりと止まった。
 効果は思いのほか大きく、欲深さが滲む丸い瞳はわなわなと見開かれる。もともと汗くさい奴の額には、脂汗が面白いように照り返り始めた。
「中傷の件、現時点では内々に処理され詳細が外部に漏れることはないでしょう。でもこれ以上の広がりを見せれば均衡もいつ破られるか。教授の評判や、ご家族への影響も懸念されるところです」
「き、君っ」
「ご協力いただけますよね?」
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