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第五章 デート、浸食、ターゲット。

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 耳に届けられた言葉は、どこまでも単純で明瞭だった。
「惚れてる子のそんな姿を見たら、誰だってこうなる」
「……」
「シカトですか?」
 シカトじゃない。ただ、瞬きすることも忘れていただけだ。
 雨に打たれたからか、一段と白く澄んで見える奴の肌。いつもは甘く緩いウェーブを描くその髪も、意志の強い癖が浮き上がっている。
 まとう服は雨に一段の暗色が与えられ、酷くこいつの色香を際だたせた。頬が熱い。とても。
 ダメだ引きずられては。ベールで包まれたような空間にも、わずかな理性がどうにか私を引き留める。
 だって、こいつには、本命の彼女が――。
「アリサちゃんとは、そういう関係じゃないよ」
 考えていたことと予期せず重なった言葉に間抜けな声が出る。目を丸くした私に何を思ったのか、透馬は嬉しそうに肩を揺らした。
「アリサちゃんは、仕事関係で本当にお世話になってる。でも、杏ちゃんが思ってるような関係じゃないから」
「でも」
 喫茶店での二人の会話は、どう見てもそんな社交辞令的なものではなかった。
 もっと密な……少なくとも、私なんかが立ち入ることが出来ないような信頼があったのだ。
「はは、でも、なんか嬉しいな」
「は?」
「ヤキモチ焼いてくれたんだ? 杏ちゃん」
「――っっ!」
 違う! マグマが沸き立つような勢いで口に出るはずだった言葉は、結局喉の奥に止められた。
 何で。否定しなきゃ。じゃないと肯定したと同じになる。
 それを知りながら、私の身体は思考をまんまと裏切った。
「杏、ちゃん?」
「……っ」
 妬いてなんかない! 何であんたのことでそんなこと! 自惚れるのも大概にしろ!
 そんな言葉が流れ星のように頭の中を流れては消え、流れては消える。結局何一つ言い返せないまま、奴とは逆方向に身体ごと背けるのがせいぜいだった。衝撃的だった。
 安心してしまったのだ、私は。まるで信頼の置けない奴の言葉に、こんなに容易く。
「妬いて、なんか……っ」
 詰まりそうな息の合間に、何とか背後の敵に投げつける。悔しさに眉を寄せた私だったが、突然両肩に降ってきた熱い手のひらにその感情も霧散した。
 両肩を後ろから引き寄せられ、首もとに奴の額が軽く乗せられる。
 それだけなのに時折首を掠める熱い吐息に、冷えきったはずの身体が熱をもった。
「透馬……!」
「杏ちゃんが悪い」
「悪いって、何が!」
「俺は杏ちゃんが――マジで好きだって、言ってんのに」
 ずるいよ。
 呟きめいた恨み言と同時に、ゆっくりと首筋が外気に触れる気配がして私はぎょっとした。
 上着だけじゃない。私自身が身につけているシャツと中のキャミソール、あろうことかブラの肩紐まで共に肩を滑りかけている。咄嗟に肩を覆う手を押し止めた。
「なに、調子に、乗って……ッ!」
「杏ちゃん」
「っ、や」
 ちり、と押しつけられた熱。首もとに落とされたそれが透馬の唇と知った瞬間、私は混乱に目を回した。
 一体何が起きた。こいつ、一体何を。
「ん、や……っ、透馬……!」
「杏ちゃん」
 私の声が聞こえているのかも怪しい。肩を掴むだけだったはずの奴の手は、徐々に私の身ぐるみを暴き進めていく。
 抵抗を試みるも気付く様子のない透馬は、ついにその手をあらぬ方向に動き出した。交わされているはずの瞳に自分が映っていないことに気付く。
 情欲だけが揺らめく瞳に、身体の血の気が引く音が聞こえた。
「――っ、嫌だッ!!」
 人気のない界隈に、叫び声がこだまする。
 間もなく解放された自身の身体を、私は掻き抱くようにしてその場にしゃがみ込んだ。心臓が痛いくらいに打ち付ける。歯が小刻みに鳴っているのに気付き、私は慌てて口元に手をやった。
「杏ちゃん……」
 恐々と届いた呼び名に、肩がびくつく。
 しゃがみ込んだままの私は、いまだに降りやまない雨が地面に跳ね返るさまをただただ見つめていた。だって、そうでもしなくちゃ。
「杏ちゃん……ごめん」
 泣きたくない。
 こんなことで、こいつの前で、絶対に泣いてやるもんか。
「ごめん。本当にごめん……!」
「……」
「杏ちゃん……俺さ、本当に」
「満足した?」
 ようやく発した言葉は、自分でも感心するほど冷たかった。
 鉛を詰めたように重い身体を、ゆっくりと後ろへ振り向かせる。目を見開いたまま立ち尽くす透馬に、私は短い笑みを浮かべた。
 地面に倒れていた鞄を拾い上げ、上着はそのまま奴に返却する。
「自分の上着があるから、あんたのはいい。いらない」
「杏、ちゃ」
「いらない!」
 真っ直ぐに見据えた瞳には、ようやく私の姿が戻ってきたらしい。
 結局半ば強引に上着を受け取らせると、私は迷いなくきびすを返す。自ら持ってきていた上着を羽織る際、先ほど手をかけられた右肩の身なりも整えた。
「こんな雨だし、デートも中止でいいよね」
「……っ」
「じゃあね」
 透馬が何か言いたそうなことには気付いていた。雨の中を進み出す私を、決して引き留められないことも。
 雨宿りをしていた軒下から完全に見えないところまで歩みを進めたところで、私は小刻みに震える指先をぎゅっと握りしめる。胸が痛いくらいにきりきりと悲鳴を上げて、今にも破裂しそうだった。
「……ばかじゃないの」
 何も変わってないじゃん、あの時と。
 打ち付ける雨雲を見上げ、情けなく独りごちる。雨粒に涙を滲ませまいとひとり意地を張る自分の姿。
 それさえも面白いくらいに、二年前の自分と重なった。



 最悪な幕引きとなったデートの日以来、初めての出勤日。
 思えばその日は、初めから変な違和感があった。
 例えば、学生からの羨望の眼差しの中に好奇の視線が混ざっていた。或いは、職場に向かう途中、学生窓口を横切った際、窓口の女の子から珍しく労いの言葉をかけられた。
 しかしながらその違和感が、こんな事態を示唆していたとは思い至らなかった。
 遅番シフトで職場に顔を見せた私に、既に集結していた主任を含め、司書のほぼ全員が揃って目を剥いた。事務室を取り巻く異様な空気に、思わず立ち止まる。
 そしてすぐに目に留まったのは、テーブルの中央に開かれた一冊の書籍だった。
 遠巻きから見ても分かる、明らかに故意に加えられた朱色の書き込み。無惨に書籍に添えられたその文章を、私はしばらくの間、無言で見下ろしていた。
「お、小野寺さん……」
 いつも天真爛漫の中吉ちゃんまでもが顔を青く染め、直立したまま私の傍らを動かない。この場に似つかわしくない笑顔が、なんとも自然に浮かび上がった。
「大丈夫だから。心配しないで」
「で、でも……っ!」
「大丈夫」
 大丈夫。大丈夫。これくらい、とっくに慣れっこだから。気遣わしげな、それでもどこか蔑視を含んだ視線にまとわりつかれ、日常を過ごすことくらい、何てことはない。
 被害にあった書籍を机に横たえ、事件ファイルにデータを正確に記録する。心頭まで震え上がりそうな怒りを心の奥底に封印して。
『中央図書館勤務の小野寺杏は、幼馴染みとカフェ店員の二人の男に身体を売る尻軽女である』
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