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第四章 悔恨、告白、雲隠れ。

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 さて。一体どうしたものか。
「小野寺ちゃん? 何か……大丈夫?」
「へ?」
 デジャヴ。本日三度目のやりとりに気付き、私は丸まりかけていた背筋を素早く伸ばした。ちなみにこの動作も本日三回目だ。
「もしかして例の落書き犯のことで疲れてる? あまり抱え込まないようにね。ほら、うちも警戒しているからか、ここしばらくはいたずらも止んでるようだし」
「はは……ありがとうございます、今野さん」
「事務室作業だから、主任の目がなければ問題ないけどね。この職場じゃ数少ない若いオナゴなんだから、カウンターではいつもの調子で男子生徒を喜ばせておいてよ~? ふふっ」
「それじゃ、お疲れさまでした~」と温かな笑顔で手を振る今野さんに、苦笑のまま手を振り返す。
 違うんだ。落書き犯のことなんてこれっぽっちも頭にないんだ。そんな独白を胸に秘めながら。
(んな簡単に無かったことに出来るならっ)
(わざわざ東京から戻ってきたりしねぇよ!)
 昨夜の出来事を、もう何度思い返しただろう。
 感情を爆発させた薫の言葉が、油断するとすぐにリピート再生される。誰かこの設定を止めてくれ。
 再び記憶に浸りかける自分に気付き、目の前のブッカー作業の手を早める。心頭滅却するにはこの作業が一番だ。
 入荷した書籍を保護する透明シール、通称ブッカーを恭しく机横に積み上げる。いつもの角度に書籍を置きいつもの手順で採寸を計測、切り進めていく。裏紙をさっと取り外し、空気を取り込まないよう、慎重に――。
「小野寺さーぁんっ! 居ますか何処ですかトイレですか――ああっ! 居た! 小野寺さん発見!」
 心頭滅却は失敗に終わった。
「小野寺さんっ! 大変ですよっ、また図書館入り口に……あれ?」
 大きな紙袋を振り回して駆け寄ってくる中吉ちゃん。私の反応の薄さに気付いたのか、首を傾げながら私の手元を覗き込む。
 滑らかに密着したブッカーの面に、小さな小さな気泡がひとつ。
 勤務二年目。ブッカー作業の緻密さは、中吉ちゃんもさすがに理解をしている。事を察したらしい彼女の「あ」という小さな声に、私はようやくゆらりと顔を上げた。
「中吉ちゃん……ドアは静かに開けましょうって、貼り紙してあるよね……?」
「す、すみませんすみません! 私、つい! あ、残りのブッカー全部私がやります! 寧ろやらせて下さいお願いします……!」
 泡を食いながら頭を直角に下げる。その拍子に、後方の積み上げられていた本が彼女の紙袋にぶつかり辺りに散乱した。ますます慌てふためく後輩の姿。一瞬天を仰ぎかけたが、可愛い後輩だ。仕方ない。散乱した書籍の海に私もひざを付けた。
「うう……ありがとうございます、小野寺さん~……」
「そのショップ袋はまた新しい服? 中吉ちゃんってば最近も衝動買いしちゃったって嘆いてなかったっけ?」
「えへ。窓口事務の友達に誘われちゃって、気付いたらこんなに……って、ああっ!」
 至近距離のメガホンボイスに、反射的に耳元を両手で塞ぐ。そんな一連の動作に目もくれず、中吉ちゃんは大きな瞳をさらに大きくしながらこちらに詰め寄ってきた。
「ちょ、中吉ちゃん。近い近い」
「近くもなりますよ! 小野寺さん、また来てましたよ! 例の彼!」
 ぎくり、と胸が鳴る。
「図書館の入り口前に! 入らないんですかって聞いたら、ここで待ってるからいいって言ってましたけど、何か元気がなさそうで」
 もしかして、彼氏さんと喧嘩中ですか? 気遣わしげにこちらを窺う中吉ちゃんに、咄嗟に返答が出来なかった。
 中吉ちゃんが私の彼氏と思い込んでいる候補者は二人。
 そのどちらであっても、平静を装うのに苦労することは確実だった。



「ねぇ、あの人」
「うっわー……何かあれだね。絵になる人って感じ?」
 小声ではしゃぐ女子生徒たちの会話が耳に届く。確かに、彼女たちの言うとおりだった。
 図書館ゲート前には、誰でも利用が可能なフリースペースが広がっている。
 その一角に置かれたふたり掛けソファーに、長い脚を嫌み無く組んで書籍に視線を落としている人物の姿があった。「絵になっている」と称されるに相応しい、奴の姿が。
「今日は、書籍を借りていかないんですか? お客様」
 シンプルな水色のシャツに、珍しくメガネを合わせた出で立ち。無駄な装飾が省かれた格好は、半人前の男子学生らとは明らかに違う存在として空間に際だっていた。
「久しぶり杏ちゃん。喫茶店で水をぶっかけられたとき以来だっけ」
 いつもと同じ憎まれ口で、透馬が微笑む。咄嗟に荒げかけた声を私はぐっと飲み込んだ。同時に、楽しげに細められる目元に小さな違和感を覚える。
「どうして来たの」
「ははっ、相変わらずつれないね。杏ちゃんに会いたくなっちゃて」
「そんなに具合が悪そうなのに?」
 薄茶色の瞳が見開かれる。気付かないと本気で思っていたのだろうか。
 口調が弱々しい。いつもは陶器のように真っ白な肌はやけに血色が良く、だて眼鏡では隠しきれていない青い隈。
「熱は? 計ってこなかったの?」
 もともと前髪が開けている透馬の額に自分の手を当てる。念のため他方の手を自分の額に当て、瞑目して比較する。ほら、やっぱり随分熱い。
「仮にも飲食業に携わっている人間でしょ。自己管理がなってないんじゃない?」
「……あ、はい。ごめんなさい……ませ」
「は?」
 可笑しな語尾。熱に浮かされて頭がついていっていないのか。
「ちょっと……何か悪化してない? 汗も出てるし、顔も赤くなってるし」
「はは。杏ちゃんって、意外と天然だー」
 意味の分からない言葉に思わず睨みあげるも、透馬は力無く笑みを返すだけだった。呼吸もどこか苦しそうな様子で、私は困惑に眉を寄せる。
 頭の中で、無意識に今日のシフト組みの確認をしている自分に気が付いた。こんな状態の奴をおいて仕事に戻るのはあまりに忍びないというか、何というか。
 早番の今野さんはもう帰ってしまったし、遅番でベテランの先輩はひとりだけ。あとは同期と新人の中吉ちゃんだから、私が抜けた状態で難しい案件が入ったら上手くフォローできるかわからない。
 というか、この状況で抜けさせて下さいなんて、どんな言い訳をすればいいんだ。
 先日私が喫茶店で水をぶっかけたせいで、彼氏ではない男友達が風邪で意識が朦朧としているんです……って、んなこと言える訳あるか……!
「杏ちゃん」
 呼び止められて肩が跳ねる。
「大丈夫。ひとりで帰れるよ。今日はこれから約束もあるしね」
 約束? 首を傾げかけた私の頭に、ある人物の影がごく自然に浮かび上がる。
 それは先日まさに水を浴びせるきっかけになった、お団子頭の女性だった。
 彼女に三下り半を突きつけられ意気消沈していた奴も、今はよく見れば体調不良の中に変な高揚感が滲んでいる。はあ、なるほど、つまり。
「彼女に……振られずに、済んだんだ?」
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