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第三章 過去、未遂、特別な女。
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「それで。落書きイタズラ犯を捕まえる任務を与えられたの? 杏一人で?」
目をくりくりさせながらマンゴージュースを啜る奈緒に、私はココアに浮かんだパウダーを一心不乱に混ぜていた。
幸い今日は、ここ「カフェ・ごんざれす」の客数もさほど多くない。一応周囲に気を遣いながら話を進めた。
「先導役を仰せつかったってだけよ。職場の全員が犯人を吊し上げにするって意気込んでるし。ただ、やみくもに行動して業務に支障が出ても困るからって」
「確かに杏は昔から察しが良いし、頭も切れてたけど……今って結構頭の可笑しい奴が犯人だったりするじゃん。警察に任せた方がいいんじゃないの?」
「まあ、学校側も本気で犯人を捕まえる気があるなら、警察にでも何でも言うんだろうけどね」
面倒事は事なかれ主義で通してきた上の方々が、メディアに取り上げられかねない危険を簡単に許すわけがない。
完璧主義者の主任が今回の事件を職員会議で求めたときも、結局は館内で起こった出来事と指摘され、解決もその後の処理も全てこちらに一任すると言われたらしい。要するに、事件そのものを体よく押しつけられたわけだ。
「図書館が今まで大学に与えてきた功績も何も分かっちゃいないんだから。あんのセクハラ教授陣が」
「うっわー……結構派手に破かれてるね、この写真とか」
許可をもらって撮影してきた何枚もの被害書籍の写真。それを少し進めるや否や、奈緒が小さく悲鳴を上げ息を呑んだのが分かった。
「これ……血? そんなわけないよね……?」
「ただの赤ペン。どっちにしても気味悪いよね。軽くトラウマになるよ」
書籍いっぱいに書き込まれた殴り書きの赤文字は、日を追うにつれ内容が詳細に、過激になっていく。
男子学生の誰々が二股をかけているだの、事務職の女性が夜な夜な既婚者の相手をしているだの。中には先に口に付いたセクハラ教授への言及もあり、ざまあみろと思わないでもなかったが。
「んで。奈緒から見た感じどうよ。何か感じることとか、引っかかることとかある?」
「んん~……っ、そうだなぁ」
眉をぎゅうっと寄せあげた奈緒は、一枚一枚写真を慎重にスライドさせていく。
さっきは私のことを察しが良いと表現してはいたものの、私から言わせるとこの子の方が余程小さな取りこぼしを拾い上げる能力に長けていた。
子供ながらの発想に近い、純粋な考えのもとで導き出される綻び。何かひとつでも、得られるものが有ればいいと思い、静かに答えを待つ。
「犯人もよくもまぁこんな沢山のゴシップを集めたよね。暴露された人たちも生徒から先生までいるみたいだし。普通に学校内の関係者だとしても、ここまで知るのは難しいと思うなぁ……とか?」
「ふんふん」
「それとさ。どうでもいいところかもだけど、被害者の中に旧字を使ってる名前の人がいるよね。この人とか、この人」
奈緒の細い指がたどる先には、確かに旧字を使った名前の人が数名見られた。中には読み方を窮する漢字もある。
「こういうのってさ、普通に生活してたらまず意識しないところだよね。私、会社でよく人事部から書類出してもらうけど、いまだに漢字を迷う社員いるもん。神崎の崎の字とか!」
「ということは」
旧字の使い方が全部正しいとしたら、名簿等で正確に名前を把握しやすい職員寄りの犯行か。
いずれにしても、犯人に近付く手掛かりになるかもしれない。
「今のところ気付いたのはそのくらいかなぁ。ごめん、大したこと言えなかったよ」
「ううん。寧ろ助かった。ひとりじゃ煮詰まってばかりだったから」
やっぱり奈緒に聞いて良かったよ。そう告げると、奈緒はほっぺたをピンクに色づけて笑みを綻ばせた。
「今日は私が奢るから。すみません栄二さん。追加で飲み物、良いですか」
声をかけると、すぐさま栄二さんが穏やかな笑顔でオーダーを書き付ける。この人もそうだ。裏の性格は謎にしても、人を引き寄せる人というのはどこか温かい。
「でもそっかぁ。このことがあったから、何かいまいち元気がないんだね、杏も」
安心したような言葉に、ココアのスプーンに触れかけた指が小さく震えた。
「てっきり、あの馬鹿幼馴染みと何かあったのかと思ったよー。妙に考え込んだ後みたいな顔をしてたから!」
「そう、かな?」
「私としてはね。透馬君は完全に杏のこと特別視してるし、物腰柔らかいし優しいし大人だし。ちょっとモテすぎちゃうのが気にかかるけど、良い人だと思うなぁ~」
一応周囲の女性客に遠慮したのか、若干小声で告げた奈緒は、ふふん、と鼻を鳴らす。私もそれに曖昧に笑みを浮かべながら、当の二人のことを思い返していた。
好意を向けてくる所作こそ見せられても、真に受けちゃいけない。
薫は小さい頃から実直で誤魔化しが嫌いな奴だった。だからこそ、二年前のことを罪の意識として今まで心に残し続けていた。愛情と同情をはき違えているだけだ。
そして透馬も、本音を曝け出しているのは全部「アリサちゃん」と呼ばれた彼女にだけ。珍しくなびかない自分に一時的に興味を持っただけだろう。
どんなに言葉で繕ったって、どいつもこいつも自分の他に「特別な人」がいる。私よりも愛らしくて素直で魅力的な人が。
部外者は――私のほうだ。
「杏? どうしたの?」
心配そうに眉を下げる奈緒と目が合う。
「ん。心配してくれてありがと。でも大丈夫。もう心配いらないや」
「へ?」
丸くなった瞳に、ふっと笑みを送る。
「もう何もないよ。薫のことも、透馬のことも」
この時期に事件が起こって良かったのかもしれない。ひとつのことに集中できる。大好きな、本のことだけに。
最近の自分は可笑しかったのだ。散々個人主義で生きてきたくせに、今更他人のことで胸を淀ませるなんてらしくない。
今度こそ迷いは捨てる。人に振り回されるのは真っ平だ。
目を伏せ、ふたつの残像をゆっくりと溶かし落としていく。大丈夫。前だってそうだった。
二年前のあの時だって、自分にそう言い聞かせてここまで来たんだから。
目をくりくりさせながらマンゴージュースを啜る奈緒に、私はココアに浮かんだパウダーを一心不乱に混ぜていた。
幸い今日は、ここ「カフェ・ごんざれす」の客数もさほど多くない。一応周囲に気を遣いながら話を進めた。
「先導役を仰せつかったってだけよ。職場の全員が犯人を吊し上げにするって意気込んでるし。ただ、やみくもに行動して業務に支障が出ても困るからって」
「確かに杏は昔から察しが良いし、頭も切れてたけど……今って結構頭の可笑しい奴が犯人だったりするじゃん。警察に任せた方がいいんじゃないの?」
「まあ、学校側も本気で犯人を捕まえる気があるなら、警察にでも何でも言うんだろうけどね」
面倒事は事なかれ主義で通してきた上の方々が、メディアに取り上げられかねない危険を簡単に許すわけがない。
完璧主義者の主任が今回の事件を職員会議で求めたときも、結局は館内で起こった出来事と指摘され、解決もその後の処理も全てこちらに一任すると言われたらしい。要するに、事件そのものを体よく押しつけられたわけだ。
「図書館が今まで大学に与えてきた功績も何も分かっちゃいないんだから。あんのセクハラ教授陣が」
「うっわー……結構派手に破かれてるね、この写真とか」
許可をもらって撮影してきた何枚もの被害書籍の写真。それを少し進めるや否や、奈緒が小さく悲鳴を上げ息を呑んだのが分かった。
「これ……血? そんなわけないよね……?」
「ただの赤ペン。どっちにしても気味悪いよね。軽くトラウマになるよ」
書籍いっぱいに書き込まれた殴り書きの赤文字は、日を追うにつれ内容が詳細に、過激になっていく。
男子学生の誰々が二股をかけているだの、事務職の女性が夜な夜な既婚者の相手をしているだの。中には先に口に付いたセクハラ教授への言及もあり、ざまあみろと思わないでもなかったが。
「んで。奈緒から見た感じどうよ。何か感じることとか、引っかかることとかある?」
「んん~……っ、そうだなぁ」
眉をぎゅうっと寄せあげた奈緒は、一枚一枚写真を慎重にスライドさせていく。
さっきは私のことを察しが良いと表現してはいたものの、私から言わせるとこの子の方が余程小さな取りこぼしを拾い上げる能力に長けていた。
子供ながらの発想に近い、純粋な考えのもとで導き出される綻び。何かひとつでも、得られるものが有ればいいと思い、静かに答えを待つ。
「犯人もよくもまぁこんな沢山のゴシップを集めたよね。暴露された人たちも生徒から先生までいるみたいだし。普通に学校内の関係者だとしても、ここまで知るのは難しいと思うなぁ……とか?」
「ふんふん」
「それとさ。どうでもいいところかもだけど、被害者の中に旧字を使ってる名前の人がいるよね。この人とか、この人」
奈緒の細い指がたどる先には、確かに旧字を使った名前の人が数名見られた。中には読み方を窮する漢字もある。
「こういうのってさ、普通に生活してたらまず意識しないところだよね。私、会社でよく人事部から書類出してもらうけど、いまだに漢字を迷う社員いるもん。神崎の崎の字とか!」
「ということは」
旧字の使い方が全部正しいとしたら、名簿等で正確に名前を把握しやすい職員寄りの犯行か。
いずれにしても、犯人に近付く手掛かりになるかもしれない。
「今のところ気付いたのはそのくらいかなぁ。ごめん、大したこと言えなかったよ」
「ううん。寧ろ助かった。ひとりじゃ煮詰まってばかりだったから」
やっぱり奈緒に聞いて良かったよ。そう告げると、奈緒はほっぺたをピンクに色づけて笑みを綻ばせた。
「今日は私が奢るから。すみません栄二さん。追加で飲み物、良いですか」
声をかけると、すぐさま栄二さんが穏やかな笑顔でオーダーを書き付ける。この人もそうだ。裏の性格は謎にしても、人を引き寄せる人というのはどこか温かい。
「でもそっかぁ。このことがあったから、何かいまいち元気がないんだね、杏も」
安心したような言葉に、ココアのスプーンに触れかけた指が小さく震えた。
「てっきり、あの馬鹿幼馴染みと何かあったのかと思ったよー。妙に考え込んだ後みたいな顔をしてたから!」
「そう、かな?」
「私としてはね。透馬君は完全に杏のこと特別視してるし、物腰柔らかいし優しいし大人だし。ちょっとモテすぎちゃうのが気にかかるけど、良い人だと思うなぁ~」
一応周囲の女性客に遠慮したのか、若干小声で告げた奈緒は、ふふん、と鼻を鳴らす。私もそれに曖昧に笑みを浮かべながら、当の二人のことを思い返していた。
好意を向けてくる所作こそ見せられても、真に受けちゃいけない。
薫は小さい頃から実直で誤魔化しが嫌いな奴だった。だからこそ、二年前のことを罪の意識として今まで心に残し続けていた。愛情と同情をはき違えているだけだ。
そして透馬も、本音を曝け出しているのは全部「アリサちゃん」と呼ばれた彼女にだけ。珍しくなびかない自分に一時的に興味を持っただけだろう。
どんなに言葉で繕ったって、どいつもこいつも自分の他に「特別な人」がいる。私よりも愛らしくて素直で魅力的な人が。
部外者は――私のほうだ。
「杏? どうしたの?」
心配そうに眉を下げる奈緒と目が合う。
「ん。心配してくれてありがと。でも大丈夫。もう心配いらないや」
「へ?」
丸くなった瞳に、ふっと笑みを送る。
「もう何もないよ。薫のことも、透馬のことも」
この時期に事件が起こって良かったのかもしれない。ひとつのことに集中できる。大好きな、本のことだけに。
最近の自分は可笑しかったのだ。散々個人主義で生きてきたくせに、今更他人のことで胸を淀ませるなんてらしくない。
今度こそ迷いは捨てる。人に振り回されるのは真っ平だ。
目を伏せ、ふたつの残像をゆっくりと溶かし落としていく。大丈夫。前だってそうだった。
二年前のあの時だって、自分にそう言い聞かせてここまで来たんだから。
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