上 下
16 / 51
第三章 過去、未遂、特別な女。

(5)

しおりを挟む
「それで。落書きイタズラ犯を捕まえる任務を与えられたの? 杏一人で?」
 目をくりくりさせながらマンゴージュースを啜る奈緒に、私はココアに浮かんだパウダーを一心不乱に混ぜていた。
 幸い今日は、ここ「カフェ・ごんざれす」の客数もさほど多くない。一応周囲に気を遣いながら話を進めた。
「先導役を仰せつかったってだけよ。職場の全員が犯人を吊し上げにするって意気込んでるし。ただ、やみくもに行動して業務に支障が出ても困るからって」
「確かに杏は昔から察しが良いし、頭も切れてたけど……今って結構頭の可笑しい奴が犯人だったりするじゃん。警察に任せた方がいいんじゃないの?」
「まあ、学校側も本気で犯人を捕まえる気があるなら、警察にでも何でも言うんだろうけどね」
 面倒事は事なかれ主義で通してきた上の方々が、メディアに取り上げられかねない危険を簡単に許すわけがない。
 完璧主義者の主任が今回の事件を職員会議で求めたときも、結局は館内で起こった出来事と指摘され、解決もその後の処理も全てこちらに一任すると言われたらしい。要するに、事件そのものを体よく押しつけられたわけだ。
「図書館が今まで大学に与えてきた功績も何も分かっちゃいないんだから。あんのセクハラ教授陣が」
「うっわー……結構派手に破かれてるね、この写真とか」
 許可をもらって撮影してきた何枚もの被害書籍の写真。それを少し進めるや否や、奈緒が小さく悲鳴を上げ息を呑んだのが分かった。
「これ……血? そんなわけないよね……?」
「ただの赤ペン。どっちにしても気味悪いよね。軽くトラウマになるよ」
 書籍いっぱいに書き込まれた殴り書きの赤文字は、日を追うにつれ内容が詳細に、過激になっていく。
 男子学生の誰々が二股をかけているだの、事務職の女性が夜な夜な既婚者の相手をしているだの。中には先に口に付いたセクハラ教授への言及もあり、ざまあみろと思わないでもなかったが。
「んで。奈緒から見た感じどうよ。何か感じることとか、引っかかることとかある?」
「んん~……っ、そうだなぁ」
 眉をぎゅうっと寄せあげた奈緒は、一枚一枚写真を慎重にスライドさせていく。
 さっきは私のことを察しが良いと表現してはいたものの、私から言わせるとこの子の方が余程小さな取りこぼしを拾い上げる能力に長けていた。
 子供ながらの発想に近い、純粋な考えのもとで導き出される綻び。何かひとつでも、得られるものが有ればいいと思い、静かに答えを待つ。
「犯人もよくもまぁこんな沢山のゴシップを集めたよね。暴露された人たちも生徒から先生までいるみたいだし。普通に学校内の関係者だとしても、ここまで知るのは難しいと思うなぁ……とか?」
「ふんふん」
「それとさ。どうでもいいところかもだけど、被害者の中に旧字を使ってる名前の人がいるよね。この人とか、この人」
 奈緒の細い指がたどる先には、確かに旧字を使った名前の人が数名見られた。中には読み方を窮する漢字もある。
「こういうのってさ、普通に生活してたらまず意識しないところだよね。私、会社でよく人事部から書類出してもらうけど、いまだに漢字を迷う社員いるもん。神崎の崎の字とか!」
「ということは」
 旧字の使い方が全部正しいとしたら、名簿等で正確に名前を把握しやすい職員寄りの犯行か。
 いずれにしても、犯人に近付く手掛かりになるかもしれない。
「今のところ気付いたのはそのくらいかなぁ。ごめん、大したこと言えなかったよ」
「ううん。寧ろ助かった。ひとりじゃ煮詰まってばかりだったから」
 やっぱり奈緒に聞いて良かったよ。そう告げると、奈緒はほっぺたをピンクに色づけて笑みを綻ばせた。
「今日は私が奢るから。すみません栄二さん。追加で飲み物、良いですか」
 声をかけると、すぐさま栄二さんが穏やかな笑顔でオーダーを書き付ける。この人もそうだ。裏の性格は謎にしても、人を引き寄せる人というのはどこか温かい。
「でもそっかぁ。このことがあったから、何かいまいち元気がないんだね、杏も」
 安心したような言葉に、ココアのスプーンに触れかけた指が小さく震えた。
「てっきり、あの馬鹿幼馴染みと何かあったのかと思ったよー。妙に考え込んだ後みたいな顔をしてたから!」
「そう、かな?」
「私としてはね。透馬君は完全に杏のこと特別視してるし、物腰柔らかいし優しいし大人だし。ちょっとモテすぎちゃうのが気にかかるけど、良い人だと思うなぁ~」
 一応周囲の女性客に遠慮したのか、若干小声で告げた奈緒は、ふふん、と鼻を鳴らす。私もそれに曖昧に笑みを浮かべながら、当の二人のことを思い返していた。
 好意を向けてくる所作こそ見せられても、真に受けちゃいけない。
 薫は小さい頃から実直で誤魔化しが嫌いな奴だった。だからこそ、二年前のことを罪の意識として今まで心に残し続けていた。愛情と同情をはき違えているだけだ。
 そして透馬も、本音を曝け出しているのは全部「アリサちゃん」と呼ばれた彼女にだけ。珍しくなびかない自分に一時的に興味を持っただけだろう。
 どんなに言葉で繕ったって、どいつもこいつも自分の他に「特別な人」がいる。私よりも愛らしくて素直で魅力的な人が。
 部外者は――私のほうだ。
「杏? どうしたの?」
 心配そうに眉を下げる奈緒と目が合う。
「ん。心配してくれてありがと。でも大丈夫。もう心配いらないや」
「へ?」
 丸くなった瞳に、ふっと笑みを送る。
「もう何もないよ。薫のことも、透馬のことも」
 この時期に事件が起こって良かったのかもしれない。ひとつのことに集中できる。大好きな、本のことだけに。
 最近の自分は可笑しかったのだ。散々個人主義で生きてきたくせに、今更他人のことで胸を淀ませるなんてらしくない。
 今度こそ迷いは捨てる。人に振り回されるのは真っ平だ。
 目を伏せ、ふたつの残像をゆっくりと溶かし落としていく。大丈夫。前だってそうだった。
 二年前のあの時だって、自分にそう言い聞かせてここまで来たんだから。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない

絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。

冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました

せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜 神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。 舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。 専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。 そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。 さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。 その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。 海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。 会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。 一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。 再会の日は……。

【完結】やさしい嘘のその先に

鷹槻れん
恋愛
妊娠初期でつわり真っ只中の永田美千花(ながたみちか・24歳)は、街で偶然夫の律顕(りつあき・28歳)が、会社の元先輩で律顕の同期の女性・西園稀更(にしぞのきさら・28歳)と仲睦まじくデートしている姿を見かけてしまい。 妊娠してから律顕に冷たくあたっていた自覚があった美千花は、自分に優しく接してくれる律顕に真相を問う事ができなくて、一人悶々と悩みを抱えてしまう。 ※30,000字程度で完結します。 (執筆期間:2022/05/03〜05/24) ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ 2022/05/30、エタニティブックスにて一位、本当に有難うございます! ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ --------------------- ○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。  (作品シェア以外での無断転載など固くお断りします) ○雪さま (Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21 (pixiv)https://www.pixiv.net/users/2362274 ---------------------

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

優しい微笑をください~上司の誤解をとく方法

栗原さとみ
恋愛
仕事のできる上司に、誤解され嫌われている私。どうやら会長の愛人でコネ入社だと思われているらしい…。その上浮気っぽいと思われているようで。上司はイケメンだし、仕事ぶりは素敵過ぎて、片想いを拗らせていくばかり。甘々オフィスラブ、王道のほっこり系恋愛話。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

処理中です...