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第二章 再会、司書、幼馴染み。

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「そっか」
 良かった。素直にそう思えた。
 胸を強ばらせていた緊張の糸が、撫でるように解けていく。ようやく出会えたらしい「お姫様」の表面を幾度となく撫でる指が、とても愛おしげだった。
 はじめはただ、こいつを見返してやろうと思って始めた「お姫様探し」。まさかこんな結末になるとは思っていなかったけれど……本当に、良かった。
「俺も、良かったよ」
「えっ」
 口に出てた? 眉をひそめる私に、透馬は心底嬉しそうに肩を揺する。おもむろにこちらの視線にあわせて覗き込む奴の顔に、身を引くのが遅れた。
「杏ちゃんの笑った顔。こんなに間近で見ることができた」
「!」
「もしかしたら一生、拝むことはないのかなぁとか思ってたんだ」
 だから、喜びも二倍だな。
 表情が温かな幸福に彩られる。
 咄嗟に反論しようとした私の口からは、結局言葉は出ることはなかった。
 これも、奴の策略か? 幾度となくよぎった疑心暗鬼も、次第にどうでも良くなっていく。
 軽薄な男女関係に呑まれるつもりは毛頭ない。
 それでも、こうしてカフェで言葉を交わしたり、本を介して笑いあったり。そんな、良き友達になれるのなら。
「お待たせしました。こちらを」
 栄二さんの柔らかな声色とともに、香ばしい甘さが鼻孔をくすぐる。テーブルに届けられた湯気の立つマグカップの登場に、私は目を丸くした。
「え……栄二さん? これは」
「杏さんはカフェモカでしたね。透馬、お前はいつもので済ませろ」
 わお。台詞の前半後半で明らかに人格が変わりましたね栄二さん。
 基本的にブラック栄二さんが出現するのは、店内に客が居ないプラス客以外への対応に限るらしい。だがこの場合、私は「客」と「客以外」のどちらにカテゴライズされているのかという疑問が残るが。
「へへっ、栄二さん男前~」
「奢りじゃねぇよ。二杯ともお前持ちだ、透馬」
「へ? いやっ、私は自分で」
「はいはい分かってますって。わざわざ杏ちゃんが俺のために来てくれたんだから。飲み物代のひとつやふたつ持ちますよ」
「土日に休みを取る空気読まない馬鹿に、大切なお客人の来訪を知らせてやったんだ。飲み物のひとつやふたつや三つや四つ、痛くも痒くもないよな」
「だ、だから、私はただ借りを返しただけで……!」
「はーいはい。栄二さんにもお飲物をご馳走いたします。アメリカンでいいよね?」
「適当な計量だったらシメる」
「……あのー。もしもし?」
「了解です。イケメン透馬、いっきまーす」
「制限時間は十分だ」
「……」
 こいつら、客の話を無視してやがる……!
 目を剥いて無言の抗議をしている私を尻目に、奴は鼻歌を奏でながら厨房へ消えていった。ひとまずそのまま帰ってくるな。
 どっと肩に乗った気疲れが重い。厨房への扉に恨めしげな視線を送っていると、隣では栄二さんが微かな笑みを浮かべていることに気付いた。
 この御方には、睨みをきかせてはいけない気がする。
 私はおずおずと牙をしまい、何食わぬ顔でカフェモカに口を付けた。美味しい。とろけるような甘みが身に染みる。
「今日は……本当にすみませんでした。席を占領したばかりか、ブランケットまで……!」
「いいえ。こちらこそありがとうございました。あの馬鹿のために骨を砕いていただいたようで」
「そ、そんな大したことはっ」
「ご友人がおっしゃっていましたから。小野寺さんが、透馬の書籍探しに躍起になっている、と」
「……あのちびっ子め」
 ちゃっかりカフェに通っているらしいご友人を頭の中に召還し、渾身のデコピンを食らわす。
 今度会ったときにゃタダじゃおかねぇ、とブラック栄二さんに似た口調で考えていると、その思考は思わず途切れることになった。「そういえば」
「杏さんは、図書館にお勤めなんですね。もともと本好きなのは知っていましたが、納得しました」
 杏さん、ね。
 栄二さんからの呼び名が微妙に変化を遂げる。
 奴に引き続きアレでコレな感じがしなくもないが、この際流すとしよう。
「この職に就いてから、本好きを自称することをためらうようになりましたけどね。知識不足で毎日格闘でした」
「普段はどんな書籍を?」
「新作はジャンル問わずチェックしますよ。選書の情報収集。購入するのは昔から小説ばかりですけどね」
「なるほど。適役だ」
 うん? 栄二さんが最後にぽつりとこぼした呟きに、私は首を傾げた。
 すると栄二さんは、微笑のままレジまで行き、何かを手にして戻ってくる。
 そして晒されたものは、何の変哲もないA4サイズの茶封筒だった。
「あの、これ……?」
「小説の原稿です」
「へ?」
 封筒越しに感触を確かめる。
 確かに書類が束ねられている感触があった。八十枚前後、といったところか。
「もしかして、栄二さんが小説を?」
「ははっ、もしもそうなら臆面なくお渡しできませんよ。自分じゃなく、自分の教え子の書いたものです」
 教え子。疑問ワードが増えていく一方だが、話の腰を折るほどではない。
「作家志望なんですがね。公募用の小説を書き上げたそうで、推敲を頼まれたんです」
「推敲ですか」
「負担ではないんですが、いかんせん自分は読書家とは程遠いもので。宜しければ、杏さんにご協力いただけませんか。作者の許可は取ってあります」
「いいんですか? 一端の客でしかない、私なんかに」
「貴女は信用がおける人です」
 健康的な前髪が、眉の上で軽めに揺れる。
 お陰で栄二さんの漆黒の瞳は遮る物がなく、いつでもこちらへ直球だった。
 明け透けに告げられた誉め言葉に、思わず羞恥が滲み出そうになる。顔色を隠すように、私はそそくさと茶封筒に視線を落とした。
「赤ペン等で適当に指示を入れて頂いて結構です。杏さんの感じたことを書いて下さい」
「は……はい!」
「期限はいつでも。……と言いたいところですが、出来れば二週間後を目安にお願いします」
「結構、人使いが荒い奴なんで」言いながら、僅かに頬を緩める。
 栄二さんの新たな一面に思わず口を綻ばせながら、私は渡された原稿を鞄にしまい込んだ。
「初めてでお役に立てるかわかりませんが……精一杯やらせていただきます」
 もしかしたらこの原稿から、新たな作家が誕生するかもしれない。
 二年前に出会ったあの人と同じ、誰かの心をすくい上げる、奇跡みたいな魔法を。
 その手伝いの一端を担えるのなら。
「なるほど」
「え?」
「確かに杏さんは、小説のお話をされている時が一番可愛らしいですね」
「……」
 栄二さんから送られたまさかの先制爆弾。
 丸腰のままあえなく撃墜を受けた私は、思考回路がぴたりと止まった。
 栄二さんの笑顔は、ホワイト時のそれと同じ。混乱とともにじわじわと浮かび上がってきた熱が、分かりやすく私の顔を包み込む。
 何なんだ。このカフェに勤める奴らはどいつもこいつもタラシばかりか……!
 何度か口を空回りさせている私の反応に、栄二さんは目を瞬かせた。
「杏さんくらい素敵な女性なら、このくらいのことは言われ慣れているのでは?」
「貴方たちは……イタリア人ですか……っ!」
 確かに、すれ違いざまや距離を取った場所から視線を送られたり、美人だ何だと形容されることは珍しくはない。
 だからって、そんな甘ったるい誉め言葉を面と向かって吐かれることなんて、早々ないっての……!
「ちょっと栄二さん。杏ちゃんに何ちょっかい出してくれてんの」
 イタリア人二号が帰還した。
 香ばしい薫りを背景に落ちてきた低い声色に、私は思わず肩を浮かせる。
「ただの世間話ですよね、杏さん?」
 相槌を打つべきか逡巡するものの、爽やかとは程遠い表情を浮かべる奴に、それも結局不発に終わった。
「店の客に手を出すなって言ってたのはどこの誰だっけ~?」
「思ったことを口にしたまでだ。お前と違って他意はない」
 まるで理解が追いつかない二人の会話。異国語か。イタリア語なのかなるほど。
 心頭滅却。少し冷めてしまったマグカップに、そっと口付ける。
「杏ちゃんが可愛いってことは俺が分かっていればいいんです~。栄二さんってそういうところ狡いもんなぁ……」
「心外だな。杏さんの寝顔の写真、あとでメールしてやろうかと思っていたんだが」
「大好き栄二さん超グッジョブ。あ、なんならコーヒーお代わりする?」
「お会計っ! お願いします!」
「冗談ですよ」と柔和に笑う栄二さんと、「え。冗談なの?」素っ頓狂な声を出す透馬のふたり。もう駄目だ。さっさと退散するとしよう。
 鞄を掴み上げる。先ほど手渡された原稿の感触を覚えながら、私は素早く自分の飲料代をレジ前に放り店の扉を開けた。
「杏ちゃんっ!」
 澄んだ夜道にこだまする呼び声。その声に、振り返ることはしなかったけれど。
「本のこと! 本当に、ありがとう……!」
 しがみつくようなその叫び声が、酷く可笑しい。
 気付けば自分の口元には、大きな笑みが浮かび上がっていた。
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