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第一章 新刊、宣言、挑戦状。

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 突如、遠くから誰かが吹き出す気配がする。いつの間にかレジ前に戻っていた栄二さんの耳に入ってしまったらしいが、今するべきはコイツから目を逸らさないことだった。
 私の宣戦布告に、奴もまたしばらく驚いたように目を見開いている。しかし私の意志を感じ取ったのか、しばらくしてようやく抜けたような笑いを見せた。それは降参の合図だ。
 頭の切れるであろうコイツには、私の意図が寸分の狂いなく伝わったはずだ。
 誰とどんなお付き合いをしようがあんたの勝手だ。ただ……そう。
 私を、「そういう対象」にいれるんじゃねぇ――と。
「ふ。やっぱ、思った通りの人だね。杏ちゃんは」
 杏ちゃん?
 さらりと妙な呼び名を用いた奴を軽く睨み上げる。すると、奴の瞳に揺れる危うい光に気付き、胸が嫌な音を立てた。
「まずは自己紹介の続き。関(せき)透馬(とうま)、二十八歳。この店も含めて何個か掛け持ちで仕事してる。お陰で栄二さんには迷惑かけてます」
 せき、とうま。
 あっさりと明かされた奴の名前と、簡単な人となり。その口振りは、本性を言い当てられた状況すらも楽しんでるようだった。
 予想を逸脱した展開だ。こちらの手札はもう切ってしまった。心なしか距離を詰められている気がして、予感はいよいよ確信に変わっていく。
「っ、きゃ」
 思わず後ずさりをしようとした私のヒールが、床の木目に引っかかった。バランスを崩した私の背に瞬く間に腕が回され、難なく身体ごと引き寄せられる。
 奴の肩に寄り掛かる体勢に気づき、屈辱に顔がかっと熱くなった。昨夜の頭の軽そうな女と同じ体勢だと気付いて。
「っ、離れ……!」
「杏ちゃんはさ。自分が美人だってこと、よーく分かってるタイプだよね」
 耳元に吹き込まれた吐息のような囁きに、ぎくりと身体が強ばる。押しつけられた白いシャツは、煎り立てのコーヒーの薫りがした。
「だからこそ、譲れないところは全部剥き出しになる」
「何……ですか、それっ」
「ふ。店長に食ってかかる杏ちゃん、勇ましかったなぁ」
「……!」
 肩を震わせながらそう告げる奴に、私は今度こそ、羞恥に身を焼かれた。
「そんなにあの作家のサイン本が欲しかった?」
「っ、アンタに関係ない!!」
 本当はむちゃくちゃ関係あるけれど、そう言わずにはいられなかった。
 今まで散々素知らぬ振りを通してきたくせに――ここで言うか、その話を!
 激情に耐えきれず頬を張ってやろうと手を虚空に振りあげる。しかしながら一瞬早く、奴の頭をはたく音が店内に響いた。
「お客様に何をしている、透馬」
「いっ、ててて……」
「栄二さん……!」
 正義のヒーロー現る。
 さすが経営者。このカフェの良心。窮地に差し伸べられた手に脳内で拍手喝采をしていたのだが――。
「こんの無差別種蒔き機が。この店の客には手ぇ出すんじゃねぇって脳味噌に直接打ちつけてやらねぇと理解できねぇか、ああ?」
 栄二さんが再度拳を振りかぶったかと思えば、そのまま奴の頭をぐわしっと掴む。
 何やら頭蓋骨がキシキシ痛ましい音を立てる光景は、まさに大魔王と呼ぶに相応しい……って、あれ?
「あは。理解してます覚えてます忘れてませんって。恩は忘れない性分ですよ、俺。だから頭を離してくださいお願いします~!」
「少しでも妙な真似しやがったら、元居たあの路地裏に容赦なく転がすからな」
「栄二さん目がマジ! 少しは信用してくださいよ、もー」
「信用に足る人間になってから言え。クソが」
「…………」
 …………あれれれれれ。
 何がどうしてこうなった。行き場を失った張り手が、みるみるうちに力を失い萎れていく。
 地面を這うような低い声。奴の胸ぐらを揺する手つきは見るからに手慣れたもので、相手をする奴もまた手慣れた様子だった。
 栄二さんだったはずの人物が、呆けたままの私に躊躇なく向き直る。思いもよらず、蛇に睨まれた蛙の心地を味わった。
「ご迷惑をおかけして本当にすみません、小野寺さん。宜しければお座り下さい。コーヒーを一杯ご馳走します」
「……あ。どうぞ、お構いなく」
 自分は人を見る目がなかったのだろうか。穏和な笑顔を置き土産に背を向ける栄二さんを遠い目で見送る。
 知らぬ間に構築していた彼らの人物像が、砂塵の如く崩れ去っていった。
 ぽすんとソファーに脱力すると同時に、隣の無差別種蒔き機をじろりと睨みつけた。もう半分八つ当たりだ。
「……何よ、その楽しそうな顔は」
「ふ。栄二さんが客の前でああなるのは初めて見たな。完璧主義者だから」
 どこか嬉しそうに語る奴に対し、私は大きな溜め息をついた。おかしなことが起きている。こんなはずじゃなかったのに。
「どっちの栄二さんもちゃんと同一人物で本物だからさ。怖がらなくても大丈夫だよ」
 あれが同一人物とするならば、この世に異なる生命体など存在しないのではなかろうか。
「へぇ。じゃあ、あんたの軽口は何なのよ。本物か、嘘っぱちか」
「嘘じゃない」
 間髪入れずに告げられた返答に、私は思わず奴を見返した。
「杏ちゃんときちんと知り合いたかった。これを逃したら機会はないと思ったから。本当だよ」
「使い回しの台詞は結構です」
「信用ないなぁ」
 奴が眉を下げて笑う。信用してたまるか。
「杏ちゃん」
「あとね。さっきから思ってたんだけど、その馴れなれしい呼び方もやめてくれな――、」
 続けるはずだった言葉は、交わされた視線によって止められた。
 注がれる視線が一瞬でも、愛おしいものを見つめるものに思えたのだ。
「杏ちゃん、俺さ」
「な、なに……」
「杏ちゃんが好きだよ」
 ああ、駄目だ。付いていけない。
 どうしてそうなる。どうしてそうなった。一から十まで説明してほしいんですが!
「心配しないで。俺がただ惚れてるってだけで、杏ちゃんに迷惑を掛けるつもりはないからさ」
 既に迷惑だ。口を開くのも億劫な私は、視線で吐き捨てる。
「それにさ。一番大事なものは、簡単に手に入れちゃあつまらない」
「は?」
「時間をかけてゆっくりと俺のものにするほうが、手に入れ甲斐があるでしょ」
 根拠もない自信。
 しかしながら、吹き込まれた奴の言葉の中に、近い将来訪れるであろう受難が容易に予見される。
 ああ、もしかして、私。
「透馬って呼んで。俺のこと」
 知らない間に、隠しダンジョンの森に迷い込んでしまったのか。
「仲良くしてね。杏ちゃん」
 きゃふん。扉前でずっとお昼寝をしていたらしいゴンちゃんが目覚め、大きくひと伸びした後に咳払いをする。
 可愛いゴンちゃんのその鳴き声が、私の心境にぴたりと重なった。
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