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3話:曾祖母の死と莫大な遺産
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1979年に79歳になった金井八重が金井猛と一郎に相談があると言うので話を聞くと神棚の下に置いて、いつも大事そうにしていた桐の箱をあけると純金の菩薩像が出て来たのを見て男達が腰を抜かさんばかりに驚いて、これどうしたの聞くと1916年、旧制水戸工業高校を出て29年間、日立市の日立製作所の技術部の仕事をしていた。
その日立の技術部に東京の大学を出た吉川卓という賢そうな男性が入社して来た。最初は近くで昼食をとるだけだったのが、彼の方から金井八重が地元出身とわかり銀行や安くてうまい食堂など、多くの地元の情報を教えてもらううちに、たまに男女数人で食事に行ったりするようになった。そして個人的にも親密な交際を始めた。
そんなある日、彼が、自分にもしも事があれば、私の宿舎のロッカーに桐の箱に入った仏像があるから君に持っていてもらいたいと鍵を渡した。この事は絶対に2人だけの秘密にして他人には口外するなと言われた。その後、その秘密を守り続けた。しかし、そんな夢のよう時間も短く、その彼が、1916年12月15日体調を崩して日立総合病院に入院。
どんどん痩せて弱り1週間程で死亡した。医師が急性白血病を言う珍しい病だったと教えてくれた。あまりに彼が可哀想なのでグループで遊んでいた会社の男女5人で質素な葬式を上げ、近くの墓地に埋葬した。この話をしたあと、桐の箱の中の金の菩薩像を金井猛と一郎に見せると2人は腰を抜かさんばかりに驚いた。
続けて金井八重が田舎の実家で、この話がばれたら、すぐに、お金に替えて仏像なくなってしまうと思い秘密にして隠しておいたんだと話してくれた。そして田舎を出る時、金井猛のリックサックに桐の箱ごとしっかり梱包して入れて出て来たと話し、それで、あなた方が都会へ行くと聞いて一緒についてきたって訳なんだと打ち明けてくれた。
ひ孫も3人できて、これから、あの子達のために大事に使ってくれと言われ、話を聞いていた金井猛と一郎が、ありがとう、本当にありがとう、これから子供達が大きくなって、金がかかるので本当にありがたいと、涙を流して金井八重の手を握りしめた。私も、これで思い残すことはない。先に逝った愛する彼の待つ、あの世へ旅立つよと薄笑いを浮かべた。
早速、金井猛が東京・銀座の田中貴金属に電話を入れ、金の価格の事を聞くと急上昇の最中ですと言い、事情を話すと、早めに来店したほうが良いと言われ、1979年12月12日に銀座の田中貴金属に行くと金価格のチャートを見せてくれた。1980年1月3日に電話がかかり、すぐ金を持って来て下さいと言われ、って行った。
銀座本店で売買の書類を書き高い値段で買いますからと言うので売った。1月18日に6500万円で売れましたよと電話が入り橫浜銀行の中山支店に入金された。この知らせを曾祖母の金井八重に伝えると喜んでくれ、ほっとしたよと言い、放心状態のようになり具合が悪くなり救急車を呼んで病院に運ぶと急に血圧が低下し意識が薄れた。
その後、いろんな処置をしてくれ赤味が差してきた。何か大きなショックがあった様ですと言った。このまま完全に回復するまで入院して治療しましょうと先生が言うと、金井八重が急に小さな声でもう充分生きたから延命治療はしないでくれと、先生の目の前で言うので驚いた。
先生が金井猛にどうしたら良いですかねと先生が聞いた。その話しを聞き、言ったとおりにしてやって下さいと言われるとわかりましたと言い、血圧を上げる薬を投与しても、上がらなくなった1980年1月31日に家族7人に見送られようにして、旅立った。
その死に顔は、やすらかな笑顔をたたえて、大きな仕事でも成し遂げたかのような高貴な感じがする、素晴らしい死に顔だった。また残してもらった大きな遺産を一族の末裔達が、ありがたくいただきます語った。そして、死後、5日後に盛大に葬式をあげて見送った。
しかし、この金の話を家族に話すと、ろくな事はないと思い、金井猛と一郎が秘密にしておくことにした。必要な時に使う事にして2人の銀行に半分3250万円ずつ分けて入金した。1980年2月12日の夜、おもむろに金井一郎が長男の義朗に、これは男と男の約束だが、絶対に守れるかというと、それには自身があると言った。
それを聞き、実は訳あって5千万円以上の金があるが、どうやって運用したら良いか教えて欲しいと質問した。1週間の間の間に調べると言った。その後、一時払い養老保険を金井家の6人分を作り5年超した時に解約して、また新規に契約する方法が良いと教えた。
その他、金利の高い時に郵便局定額預金とワリトーなど高利回り割引債の併用が良いだろうと言うことになり、翌週の2月20日からその投資を開始した。金井一郎の子供達は大学を出て就職して結婚する年になり1980年に長男の金井義朗は、同じ会社に勤める2歳下の河合和美さんと1980年6月3日に橫浜の結婚式場で結婚した。
河合和美さんは橫浜で商売をしている家の娘で車の運転が好きだという活発なお嬢さんだ。結婚後、2年後の1982年が6月11日に、男の子、金井太郎を出産し、その2年後の1984月に4月22日に可愛い女の子を産んで、金井絵美と名付けた。会社の家族寮が狭くなったので新しく開発された新横浜駅前のマンションに引っ越した。
次男の次郎も、1979年に、同じ会社の里村好恵と結婚して、1982年7月17日に長女、金井秀子、1985年9月19日に長男、金井秀二を設けて1987年に会社から近い横須賀の海が見える高層マンションに引っ越した。長女の金井悦子は、1983年に同僚で同じ年の出雲俊彦と結婚した。
そして実家から5km離れた長津田の家族寮に入って、1986年10月12日に長男、出雲宏一と1989年12月12日に次女、出雲民子を出産して1991年に町田のマンションに引っ越した。出雲俊彦の家は長津田から町田にかけての大地主で昔の大きな農家の子孫だった。
その日立の技術部に東京の大学を出た吉川卓という賢そうな男性が入社して来た。最初は近くで昼食をとるだけだったのが、彼の方から金井八重が地元出身とわかり銀行や安くてうまい食堂など、多くの地元の情報を教えてもらううちに、たまに男女数人で食事に行ったりするようになった。そして個人的にも親密な交際を始めた。
そんなある日、彼が、自分にもしも事があれば、私の宿舎のロッカーに桐の箱に入った仏像があるから君に持っていてもらいたいと鍵を渡した。この事は絶対に2人だけの秘密にして他人には口外するなと言われた。その後、その秘密を守り続けた。しかし、そんな夢のよう時間も短く、その彼が、1916年12月15日体調を崩して日立総合病院に入院。
どんどん痩せて弱り1週間程で死亡した。医師が急性白血病を言う珍しい病だったと教えてくれた。あまりに彼が可哀想なのでグループで遊んでいた会社の男女5人で質素な葬式を上げ、近くの墓地に埋葬した。この話をしたあと、桐の箱の中の金の菩薩像を金井猛と一郎に見せると2人は腰を抜かさんばかりに驚いた。
続けて金井八重が田舎の実家で、この話がばれたら、すぐに、お金に替えて仏像なくなってしまうと思い秘密にして隠しておいたんだと話してくれた。そして田舎を出る時、金井猛のリックサックに桐の箱ごとしっかり梱包して入れて出て来たと話し、それで、あなた方が都会へ行くと聞いて一緒についてきたって訳なんだと打ち明けてくれた。
ひ孫も3人できて、これから、あの子達のために大事に使ってくれと言われ、話を聞いていた金井猛と一郎が、ありがとう、本当にありがとう、これから子供達が大きくなって、金がかかるので本当にありがたいと、涙を流して金井八重の手を握りしめた。私も、これで思い残すことはない。先に逝った愛する彼の待つ、あの世へ旅立つよと薄笑いを浮かべた。
早速、金井猛が東京・銀座の田中貴金属に電話を入れ、金の価格の事を聞くと急上昇の最中ですと言い、事情を話すと、早めに来店したほうが良いと言われ、1979年12月12日に銀座の田中貴金属に行くと金価格のチャートを見せてくれた。1980年1月3日に電話がかかり、すぐ金を持って来て下さいと言われ、って行った。
銀座本店で売買の書類を書き高い値段で買いますからと言うので売った。1月18日に6500万円で売れましたよと電話が入り橫浜銀行の中山支店に入金された。この知らせを曾祖母の金井八重に伝えると喜んでくれ、ほっとしたよと言い、放心状態のようになり具合が悪くなり救急車を呼んで病院に運ぶと急に血圧が低下し意識が薄れた。
その後、いろんな処置をしてくれ赤味が差してきた。何か大きなショックがあった様ですと言った。このまま完全に回復するまで入院して治療しましょうと先生が言うと、金井八重が急に小さな声でもう充分生きたから延命治療はしないでくれと、先生の目の前で言うので驚いた。
先生が金井猛にどうしたら良いですかねと先生が聞いた。その話しを聞き、言ったとおりにしてやって下さいと言われるとわかりましたと言い、血圧を上げる薬を投与しても、上がらなくなった1980年1月31日に家族7人に見送られようにして、旅立った。
その死に顔は、やすらかな笑顔をたたえて、大きな仕事でも成し遂げたかのような高貴な感じがする、素晴らしい死に顔だった。また残してもらった大きな遺産を一族の末裔達が、ありがたくいただきます語った。そして、死後、5日後に盛大に葬式をあげて見送った。
しかし、この金の話を家族に話すと、ろくな事はないと思い、金井猛と一郎が秘密にしておくことにした。必要な時に使う事にして2人の銀行に半分3250万円ずつ分けて入金した。1980年2月12日の夜、おもむろに金井一郎が長男の義朗に、これは男と男の約束だが、絶対に守れるかというと、それには自身があると言った。
それを聞き、実は訳あって5千万円以上の金があるが、どうやって運用したら良いか教えて欲しいと質問した。1週間の間の間に調べると言った。その後、一時払い養老保険を金井家の6人分を作り5年超した時に解約して、また新規に契約する方法が良いと教えた。
その他、金利の高い時に郵便局定額預金とワリトーなど高利回り割引債の併用が良いだろうと言うことになり、翌週の2月20日からその投資を開始した。金井一郎の子供達は大学を出て就職して結婚する年になり1980年に長男の金井義朗は、同じ会社に勤める2歳下の河合和美さんと1980年6月3日に橫浜の結婚式場で結婚した。
河合和美さんは橫浜で商売をしている家の娘で車の運転が好きだという活発なお嬢さんだ。結婚後、2年後の1982年が6月11日に、男の子、金井太郎を出産し、その2年後の1984月に4月22日に可愛い女の子を産んで、金井絵美と名付けた。会社の家族寮が狭くなったので新しく開発された新横浜駅前のマンションに引っ越した。
次男の次郎も、1979年に、同じ会社の里村好恵と結婚して、1982年7月17日に長女、金井秀子、1985年9月19日に長男、金井秀二を設けて1987年に会社から近い横須賀の海が見える高層マンションに引っ越した。長女の金井悦子は、1983年に同僚で同じ年の出雲俊彦と結婚した。
そして実家から5km離れた長津田の家族寮に入って、1986年10月12日に長男、出雲宏一と1989年12月12日に次女、出雲民子を出産して1991年に町田のマンションに引っ越した。出雲俊彦の家は長津田から町田にかけての大地主で昔の大きな農家の子孫だった。
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